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日本人の構造

「国家神道と日本人」を読んで、私たち日本人の生活には「神道」が根付いていることを再認識しました。日本の義務教育は「考える力」とか「非認知能力」とかに注目したり、プログラミングとかSTEM教育とかを取り入れたり、いろいろと変わりつつありますが、それでも道徳の授業とか修学旅行とか神道っぽい系譜の教えもたくさん残っています。

さて、話は変わりますが。伊予柑さんから「日本人の構造」について教えていただきました。私たちの価値観を作るものは「所属集団」と「準拠集団」という2つの基準があるそうです。

所属集団

自分が所属している集団。分かりやすいのだと、学校とか、会社とか。SNS上のつながりでも、何かしらの集団を形成することがありますね。

誰が成員としての資格を有しているのか否かということが問題になり、それをどのようにして区別しているのかを特定する必要がある。

入会金を払ったらグループに入れてあげようとか、入隊試験に合格したら隊員を名乗っていいぞ、みたいなのは分かりやすい境界設定だと思います。入るのが難しい群れほど、入った後の結束は強くなるでしょう。誰でもウェルカム、みたいなグループはヨワヨワになりがち。

準拠集団

自分の価値観の基準となる「世間」みたいなもの。

「準拠集団」とは、「私たちが自分の態度や行動のよりどころにするような集団のこと」。「準拠集団」を規定するものは、客観的に存在するところの規準ではけっしてない。それはきまって、私たち個々人の主観のがわにあるからだ。「世間」はいきおい、漠然とした、あいまいなものとならざるをえないだろう。きびしくいえば、個人の数だけ「世間」があるということにすら、なりかねない。

準拠集団も、学生であれば「学校にいる友達にどう思われるか」とか、社会人であれば「会社内でどのように評価されるか」みたいなのが、自分の判断基準、価値観に大きく影響すると思います。そういう意味で、準拠集団と所属集団はかなり近いものになりがちだと思います。

でも、同じ学校という所属集団の中でも、「僕にとっては、先生に気に入られるかどうかが大事だ」「俺にとっては、あの女の子の注意をひけるかどうかがすべてだ」「誰からも注目されないようにするにはどうしたらいいか」など、価値基準がバラバラだと思います。それくらい準拠集団というのは多様なものです。

ダンバー数

「準拠集団」は、「ミウチ – セケン – タニン」からなる、同心円的に重層化した構造だといえる。

所属集団はなんらかの境界設定によって内と外に分けられますが、準拠集団はもう少しグラデーションをもって同心円的に広がっていくもののようです。それって、ダンバー数の話に似てるなぁと思いました。

自分にとっての世間というのは、すごく親密な家族同士の視点、そこそこ気の知れた友達同士の視点、なんとなく知っているクラスメートの視点、といった複数の価値基準が混ざり合っています。それを、シーンに応じて、ペルソナを使い分けるように、複合的に判断していくのでしょう。

神話

私たちは150人を越えるような大きな集団を、基本的には認知できません。でも人間は物語を通じて、知らない人同士でも繋がれるようになりました。それが想像の共同体です。

1万人の社員がいる大企業だって、○○大学の卒業生という大きなくくりだって、全然知らないはずの相手になぜか親近感を持ってしまう、そんな力があります。その最たるものが国であったり、宗教であったりします。

日本人は、「日本人」というあいまいながらも確固たるつながりを持っています。この日本人観は、島国という土地に由来するような気がしてましたが、案外、学校で教えられる「神道」の概念が根強いのかなぁ、とも思いました。

「もったいない」とか「おもてなし」みたいなやつって、だいたい神道なんじゃないですか? 知らんけど。

風水

運気を良くしよう、というのは、この準拠集団の質をあげよう、ということなのだと思われます。ネガティブな価値観に支配された人生は大変ですからね、ポジティブでとにかく明るい陽キャの価値観を持っていた方が、たぶん幸せになれます。

そのためには、自分の価値基準となる準拠集団を良いものに変える必要があります。準拠集団の変え方はよく分かりませんが、所属集団を変えることで準拠集団が変わる可能性は高いです。だから場所を変えて、越境して、風水をよくして、運気をあげることが大事なのでしょう。

世界征服

ここまでは個人の価値観の話でした。ではそこから一歩進んで、自分の価値観を世界に広めることを考えてみましょう。

自分の価値観が広まれば、それだけ自分は生きやすくなりますし、自分と共鳴してくれる人が増えるということは、自分の子孫を残すことと同じくらい人間にとっては幸せなことだと思われます。

群れを作るというのは「所属集団」を作る、ということに傾きがちです。新しい会社を作る、趣味のサークルを立ち上げる、そういった所属できる集団づくりの事例は多いです。でも、宗教的な、価値基準をつくる、新しい「準拠集団」を作ろう、みたいなのはどうでしょう?

それこそ、ツイッター言論人たちがいろんな新しい提案をしています。「嫌なことは全部やめても生きられる」みたいな主張は、まさに新しい準拠集団の提案と言えるでしょう。

準拠集団が先にあって、そこから所属集団ができるパターンも増えていると思います。結局、所属集団と準拠集団は車の両輪であり、両方がかみ合うことでスピードが出るんだと思います。

両方兼ね備えた、新しい価値基準をもった会社を設立しよう、みたいなムーブもいいですが、人を選びすぎるかもしれません。まずは自分と似たもの同士で集まれる所属集団を作るか、新しい準拠集団を提案するか、どっちかから始めることになるのでしょう。

北極星を示す

昔の人は、生きるのに精いっぱいだったので、特に北極星みたいなことを考える必要はありませんでした。いかに食料を確保し、仲間を増やし、安心して暮らせるか、課題は山積していました。

しかし、豊かになりすぎた現代社会では、あんまり焦らなくても、頑張らなくても、のんびりしているだけで生きていられます。目標を見失い、手持無沙汰で退屈している人が大勢います。そうした人たちに新しい目標をみせること、北極星を示すこと、本気になれる準拠集団を作ること、それこそが世界征服への道なのでしょう。

本当は、結婚して子供をつくって子育てに勤しむのが人間の本能的にはいいのかもしれませんが、気力も体力も持て余している10代後半から20代にかけて、まだ子供はいらないと思っている人たちに、代わりとなる準拠集団、価値観、全力を注ぎこめる目標を示すことは、社会的にも意義のあることのようです。

逆に、もう結婚して守りに入っている30代、40代のおじさんは、そうした情熱もあまりないかもしれません。おとなしく山にひきこもって仲間とのんびり余生をすごす隠居生活で十分なんですかね?

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