なかそね
偏見に支配された村社会
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偏見に支配された村社会

なかそね

今回のnoteは上記の本を読み、いろんな方と対話した中で気付いた発見のまとめとなります。

平等な社会を目指して

偏見を持つのは良くないことだ。多様性が尊重される現代社会において偏見をもった思想は糾弾され、排斥される。でも、身の回りにはまだまだ偏見があふれていないだろうか。不登校の子は社会不適合者だし、ゲームセンターにいるのは不良だし、水商売をしている人は蔑んでいいと思われている。

田舎にいくと、偏見はもっと激しくなる。よそ者には厳しく意地悪するし、掟を破れば村八分だし、話を聞くかぎり生きづらそうなエピソードがいっぱいだ。どうしてそんな古い価値観の村がいまだに残っているのか不思議なくらい。

会社で働いていても偏見はいっぱいある。仕事が下手でトラブルいっぱい出すけどいっぱい残業して挽回した人の方が、最初から卒なくトラブルゼロでこなす人より評価されたりする。残業して頑張ってる方が偉い。

世の中はもっと偏見をなくして、どんな人でも対等に、平等に扱えるようになるべきではないか。それが先進的な社会ではないだろうか。そんな風に思っていた時期が私にもありました。

それもまた偏見

真に平等なんてありえなくて。男女平等といったって、男子トイレと女子トイレを同じ個数用意すれば平等なのか。男子の方が使用時間が短いんだから、待ち時間が同じになるよう女子トイレを多めにした方が平等なのか。観点が変われば平等の基準は変わる。トイレの個数平等派からすれば待ち時間平等派の主張は女子をひいきする偏見だし、逆もまた成り立つ。

あの人は女性差別するんだよね、とみんなが噂して、その人と距離を取ろうとする。それは、みんなでその人を差別してるのと同じこと。なぜか差別主義者のことは差別してもよい。それが平然とまかり通る。

世の中にはどうしてこんなにも偏見に満ちているんだろう、と嘆きたくなる。偏見のない社会になってほしいと思うだろう。でもそれは、あなたが村の外側にいる証拠だ。

偏見の激しい田舎の村に暮らす人たちは、決して自分たちが偏見にまみれているなんて思っていない。純粋な気持ちで、よそから来た移住者を試してみようと思うし、裏切り者には罰を与えようと思うし、それは正当なことだと思っている。

会社では飲み会に行かないやつに人権はないし、目上の人の意見はいつでも絶対だし、それが正しいと思う人たちで構成された組織なんだから、それは偏見であって偏見ではない。

私たちも、ネット上でやたらプライベートなことを聞いてくる人は危ないと思ってブロックする。それは正当な偏見だ、異論はない。偏見は私たちを守ってくれるものであり、村の仲間と部外者を分け隔てるための符号なんだ。

肥大化した村社会で

では、昨今の偏見に対する強い風当たりは何なんだろう。人種差別もだめ、男女差別もだめ、性的マイノリティにも配慮すべきだし、障害者にも平等であるべきだ。それはいったい何故なのか。

インターネットの普及、グローバル化が進んだことによって、今まで見えてなかったはずの遠い世界のことまで見えるようになった。そして、見えるところを全部、自分の所属する村にしようとしているんだ。ダイバーシティ&インクルージョンという最近流行りの言葉はまさに、多様性を全部ひっくるめて仲間にしようという目標を掲げたものだ。

昔は、なんだかんだ言っても自分の住んでいる地域周辺のことしか分からなかったから、その範囲でみんなが同じ偏見を有していればよかった。なんとなく八百万の神を信じて、みんなが仲間でいられた。でも、インターネットで遠くの遠くまで可視化されたら、目に見える全ての人が同じ偏見を有してないといけない気がしてきた。それが先進的な社会だから。ポリティカルコレクトネスだから。人類皆兄弟で世界平和だから。

でも、無理なんだよ。僕らの認知はせいぜい150人くらいしか把握できないのに、80億人がみんな同じ偏見を共有できるわけない。国が違う、気候が違う、文化が違う、それなのに同じ認知尺度を共有できるわけがない。それを強要するからみんな息苦しくなるし、いくら頑張っても平等にならない。

自分の価値観が通用しない、仲間ではない存在がインターネット村の中にあることを受け入れなければいけない。許容するわけではないけど、存在を認める、寛容な姿勢が大事。これが最近の私のテーマだった。

そして偏見を受け入れるときがきた

今月の発見は、そこから更に一歩進んだところにある。一周まわって戻ってきたともいう。私たちは、偏見を受け入れ、偏見にまみれて生きていかなければいけない、というフェーズだ。

みんなが平等にはなれない、だから偏見のある他者の存在も認めなければならない。でも自分はなるべくフラットな存在でありたいと思っていた。自分だけは偏見のない、公平な基準を持って世の中に接したいと思っていた。

それではダメなんだ。

私は会社員なので、会社という一つの村の中で暮らしている。そうである以上、私は会社の偏見を身につけて、会社の仲間にならなければいけない。会社に勤めながら、会社の偏見と距離を置いて客観的に冷ややかに見ている限り、私は会社員でありながらも、真の会社員仲間になれていないんだ。当たり障りなく対応することで会社員に擬態しているだけなんだ。

朱に交われば赤くなる。むしろ、きちんと交わって赤くなれ。それが嫌なら、さっさとそこから離れて、自分の気に入る村を見つければいい。この村で暮らそうと決めたにも関わらず、どこかで距離を置いて、常に寛容な態度で接するだけでは、私は強くなれないんだ。

そんな気がした。

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