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弱いヒューマンに社会を教えること

弱いヒューマンというのは、ざっくり、社会に適合するのが苦手な人間というイメージです。人間は社会性の動物なので、集団で行動できないと基本的には不利です。ただ、人間は知恵を持ったので、昔のように異端な存在を排除するのはよくないよね、ということで様々なセーフティーネットを築いてきました。人間はみんな平等、基本的人権を持つ、差別はよくない、とか。

多様性の尊重というのは、人間が種族として長く続くためにはとても重要で、いまの社会には異端に見える存在でも、社会の変化の際には役立つかもしれないから、コストをかけてでも守る意義はある。それは、賢いヒューマンなら分かっている。

でも、世の中には賢くない、ただ社会に適合するのが上手な、強いヒューマンがたくさんいる。強いヒューマンからすると、弱いヒューマンの存在はあまり価値が分からない。自然界は弱肉強食であり、自然淘汰されるのがあるべき姿だと思うけ。ただ、昔から儀礼として弱者救済した方がいいよって言われてるからとりあえず救済する。でも、コロナとかで自分も危機に瀕したら、弱者から切り捨てても仕方ないでしょ。

さて、あなたは、こんなnoteを読むくらいだから、賢いヒューマンです。おめでとうございます。賢いヒューマンに課せられた使命は2つ。弱いヒューマンに社会を教えて鍛えることと、強いヒューマンに儀礼の意味を説いて多様性を守ること。それはノブレス・オブリージュです。賢いヒューマンの使命です。

自分は賢いけど、別に人間を永続させる意味もないし、そんな使命に従う気はない、という人もいると思います。愚かなヒューマンです。でもいいです。それも多様性です、止めはしません。

さて、私には娘がいます。子供は、まだまだ弱いヒューマンです。身体的にも弱いし、知識も十分ではありません。だから教育をして、少しでも強く、賢くなって欲しいと思うのです。

ああ、なるほど。「強い」と「賢い」はベクトルが違うんだ。x軸とy軸くらい目指す方向が全然違うんだ。両方とも大きな値を取れればいいとは思うけど、適性もあるだろう。うちの子は強くはなれないかもしれない、でも賢くはなってほしいと思う。それが私の願いだ。学校教育は、比較的「強さ」に重点が置かれてる気がする。富国強兵。でもこれからの時代は、賢さが重要だ。

そういう視点で考えると、弱いヒューマンに教えるべきは社会ではない。哲学だ。SocietyではなくPhilosophyだ。誰だよ「社会科」って名前付けたやつ、センスなさすぎだろ。いや、センスの塊なのか。哲学を社会の中にいれやがって、賢さを封印して強さだけを強調する教育になってしまう。道徳とかSocietyの塊じゃないか。そうじゃない。それじゃないんだ。やっと気づいたよ。

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