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『こんにちの民藝 TODAY'S MINGEI』 日本語公式テキスト

石田/蔵内淡「こんにちの民藝 TODAY'S MINGEI」4/25-18:00-21:00, 4/26-5/1-12:00-18:00 at FILET, 103 Murray Grove, LondonN1 7QP, United Kingdom グラフィックデザイン、写真: 蔵内 淡

本展では、3つの要素を並行して紹介している;
1. 本展の中心テーマである「エグさ」の感覚を誘発する、あるいは内包するオブジェクトの展示
2. その感覚の中で私たち(私と石田)が制作した作品の展示.
3. 「エグさ」の本質を解明し、説明する試みとしてのこのテキスト.

世界を偏見なしにフラットに見る

自分が他の惑星から来た地球外生命体だと想像してほしい。この世界の社会や人々をどう思うだろうか?おそらく、目にするものすべてを奇妙に感じるだろう。我々は、留学という経験をすることによって、異国間の文化の差の中に挟まれて日々生活している(特に石田はハーフだ)。このようなどっちつかずの生い立ちや経験は、我々を偏見や常識から強制的に開放し、まるで宇宙人のように、世界をフラットに見ようとする姿勢の獲得を促した。我々が共有するもう一つのもの、それは両者とも「新しさ」好きということだった。誰もが驚くような「新しい」(まさにiPhoneのような)作品や、誰もやってのけたことのないことやものを生産したいという欲望があった。それは夢のように輝かしいモチベーションだった。しかし、年を重ねるにつれて残酷な事実が我々の前に立ち塞がっていていることに気づく。「新しい」とされるものは本質的に、それと比較されるものとの差異でしかない、という認識である。おそらくこのことには、ずっと前から潜在的には感づいてはいた。我々の半端なニヒリズムはここから出発した。「新しさ」という大きすぎる虚構の前で我々は絶望しながらも、多少の希望を片手に、モノとモノ、自分と他人、とか、この社会で発生しゆるありとあらゆる差異の大量消費と生産に勤しみ始めたのだった。しかし、そうして進み続けた結果、我々はその「多少の希望」さえも、失った。希望の追求は、徐々に自暴自棄な消費へと変わっていった。

(奥) 蔵内 淡「あたらしい祭壇画 01(New Altarpiece 01)」2024, カンヴァスに油彩, 合板に木炭, アクリル、Aesop. (手前) 石田「朝とストローク(Morning and Stroke)」⑤, 2024, 椅子, 合板に布.

以上に挙げた2つの要因一1.海外生活による文化的ジレンマ、2.差異のはてなき追求、そして後述する「さらなる理性」の獲得一は重なり合い、我々に新たな感覚を与えた。それは新しい視点であり、それまで誰も注目しなかった感覚だった。それは美しくもなく、驚きでもなく、刺激的でもなく、まったく馴染みのないものだった。もはやそれが感覚なのかどうかさえ、はっきりしなかった。我々はこの感覚をとりあえず「エグさ」(英: Mindfuckness)と呼ぶことにした。これは日本語の「エグ味」に由来し、しっくりこない奇妙な味を意味するが、より広い意味での不快感や違和感を包含している。ここ一年ほど我々は「エグさ」という奇妙な感覚を引き起こすあらゆるもの、「エグい(Mindfucking)」と感じたオブジェクトや概念の総称を、「民藝」と呼び、それらの民藝品を収集することにした。民品がリールであれモノであれ、とにかくそれを互いに共有し、それが真に意味するものを解明しようと試みてきた。我々はおよそ2万本以上のリールを査定し、旅先で購入したエグいお土産一民藝品を送り合った。

「さらなる理性」なるものの獲得

映像技術の発展とスマートフォンカメラによるその浸透+ソーシャルメディアの民主化と普及は、ごく最近になって急速に進んだ。この映像とソーシャルメディアの民主化およびその普及というコンビネーションは、私たちの日常生活において「撮影すること」と「撮影したコンテンツ(映像)を見ること」の両方を常態化させた。特にTikTokやInstagramのリールなどのショート動画系のコンテンツによって、私たちは(良くも悪くも)大量の映像を短時間に消費できるようになった。**こうした映像の視聴/消費は、体験から主体性のみを排除し、その映像の内容及び表層をより俯瞰的に観察することを促し、従来の理性よりも更に立ち止まって考えることー「さらなる理性」なるものの獲得を可能にした。**我々の場合、この「さらなる理性」の獲得を促したのは、Instagramのリールに流れてくる発展途上国の人々が撮影・編集したと思われるめいたコンテンツ群、cringeと呼ばれるような共感性羞恥心を感じさせる動画やソーシャルメディア内のみで発展したハイパーコンテクストなミームの大量消費だった。インターネット・ミームで使われる極端に誇張された動画編集や極端に低画質な画像に対するユーモアは、しばし「Broken humor(壊れたユーモア)」と呼ばれるが、これらの現象は、人間がいかに奇妙な存在になり得るかを教えてくれた。この視点はそうしたロウブロウな動画から、GRWM(私と一緒にお出掛けの準備をしよう)、トレンドのティックトック・ソングに合わせて踊る民衆、ASMR、旅行系リール、自撮り動画など、ほとんどあらゆるタイプのコンテンツにも徐々に適用されるようになった。この「さらなる理性」は、基本的には映像の消費上のみに根ざしていたが、のちに映像メディアだけでなく、それを現実世界の現象にまで拡張し、応用することができるようになった(というか、我々はスクリーン上で見るものと現実との境界が分からなくなった)。

人は生まれ、やがて死にゆく。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言った。本質とは人生の内容、虚無主義者風に言えば暇つぶしである。実存のナンセンスを忘れた人類が種の単位で膨大な時間をかけて行われてきたこの「暇つぶし」の連鎖が、人々を驚くべき行動、習性、技術、社会へと導いた。私は、実存とその喪失、すなわち生と死という目的のない2つのイベントの間に起こる全て一文字通り全て一に驚愕している!

石田「In and out ~playground~ 交わりの広場」⑦, 2024, レジンプリント
(上) 石田「男」③, 2024, 合板に鉛筆

エグさは何によって構成されている?

多くの議論と考察の結果、「エグさ」(Mindfuckness)は、3つの種類に分類できると推測した。
1.通常のエグい (Normal Mindfuck)
2.逆にエグい (Reverse mindfuck)
3.カモフラージュ型のエグい (Camo mindfuck)である。

  1. 一つひとつ見ていこう。まず前提として私たちは、社会的構築物(socialconstruction)に囲われて生活してきたし、これからもそうなるだろう。しかし私は、ヒトの自然状態と社会構築物一(もしくは現実とシミュラークル*1、もしくはシミュラークルとシミュラークル*2)ーとの間に生まれている大きな乖離に目を背けることができなかった。つまり、対象の社会的構築物と自然状態一アダムとイブが禁断の果実を口にしたその時より前の状態と表現しようーが乖離していればいるほど、エグいということになる。これが1つ目の「通常のエグい」である。

  2. 私たちはどんなに暑くても外では服を着る。私たちは同時に社会構築物の浸透しきった社会に囲まれ生活しているため、社会構築物に慣れきっているのだ。そのため、逆に自然状態がエグいと感じることもある。例えば、路上で生肉を食べている全裸のヒトがいたらどう思うだろか。このようなケースはより自然状態に近いが、社会構築物に慣れきった私たちにとっては直感的に「エグい」と感じてしまうだろう。我々はそれを2つ目の「逆にエグい(Reverse-mindfuck)」と呼ぶことにした。

  3. 3つ目が「カモフラージュ型のエグい」である。これは1つ目の通常のエグさーつまり人工性を回避するため、人工的なものをよりナチュラルなもののように見せかけることで発生しているエグさである。現代における自然性の模倣、iPhoneはその好例である。Androidなどのスマートフォンは通常のエグいに分類される民藝品だが、iPhoneの場合、その形やユーザーインターフェースなどが非常に直感的なため、ヒトはそれをナチュラルだと思いこんでしまう。他にもオーガニックのシャンプーなどがこのケースに当てはまるかもしれない。

ともあれ我々はこのようなエグい民藝品を、1-10の範囲でスコア化することにした。しかし、この指数はあくまでエグいという概念の理解促進のために使用しているにすぎないため、指数はあまり正確ではない。というか、何を持って1とするか、10とするか、明確な基準が存在していない。また、上記のように、私たちは社会構築物の完全に浸透した社会の中で生きているため、「私にとって」あまりに当たり前になりすぎていること一例えば言語やファッションなどーを正確に指数で示すことは出来ていない。これは個人の経験やインプットの量や種類によってエグさを感知する対象や範囲や異なることを示唆している。加えて重要なのは、この指数とエグい感覚の関係は必ずしも一定ではないということだ。このエグい指数は、直感以外の考慮すべきさまざまな要因によって、私たちの直感に反する結果をもたらすかもしれない。

エグい指数(Mindfuckness Index)は、対象を取り巻く様々な要因(どのようにそれが提示されるか)と、採点者によって大きく異なる。以上は蔵内による採点。

民藝の視点一なぜ「民藝」なのか?

我々は柳宗悦のつくった造語「民藝」という言葉を展示のタイトルにも借りているが、それは柳の示した美しさ、すなわち柳の定義した美しい民藝品を現代において見つけようとする試みではない。我々がエグさを持ったオブジェクトや概念の総称を「民藝」としたのは、柳の「民藝」を一下手物に美的価値を見出した一姿勢に(もしくは西洋が東洋に見出したオリエンタリズムに)私達が現代のエグさを見る姿勢を重ね合わせたからという理由に過ぎなく、柳の「民藝品」と、私たち自身が「民藝品」と認めたものとの間には、明確な価値基準の違いがある(例えば、私たちは「美しいかどうか」でモノを集めているわけではない)ことに注意する必要があるだろう。

最後に

この文章を読んだ人は、私たちが自然中心主義のイデオロギーの提唱者、オブジェクト指向存在論の信奉者、あるいはプリミティヴィズム(原始主義)を信奉する若者であると思うかもしれない。しかし、我々にはそのような主張を推進する意図はないことを留意したい。私たちは、エグい指数が低ければ低いほど良いとか、高い方が優れているというような善悪の二元論的な価値判断に基づき物事を判断していない。「エグい(Mindfuckness)」という言葉は一見ネガティブに聞こえるかもしれないが、そもそもそのネーミングは適当だし、私たちは単に視覚情報から生じる感覚に反応しているだけである。繰り返しになるが、まず「エグい」という感覚がまず先にあった。展示会場においてあるオブジェクトが、まさにそのアイディアを包有している。しかしこのテキストは、私がそれを解明し、説明しようという試みの中で作られた。このテキストは「エグさ」そのものではないし、私達はまだ「エグさ」を完全に理解していない。それ故にこのテキストは非常に曖味であり、未だ混沌の中にあるだろう。
この文章をほぼ書き終えたころ、私はとんでもないことに気づいた。私と石田は、無自覚にもボードリヤールとは異なる、非常に感覚的なアプローチでーシミュラークルを大量に消費し、その差異を求めすぎたせいかーボードリヤールの消費主義的世界観と大差ない現代社会への視点を採用していたのである。しかしこのテキストは、彼の理論的枠組みを超越しているのでもなく、いやむしろ彼の言説と我々の世界の重なり合いの中で、我々は大いに混乱しているということを記したい。
*1「シミュラークル」とは現実との対応関係から解放され、もはや現実を反映する必要のない純粋な記号としての「もの」やイメージまたはそれらのシステムを意味する。語源的には「表象、イメージ」を意味するラテン語シミュラークルムsimulacrumに由来し、歴史的には主にキリスト教からみた「異教の偶像」を指して用いられたが、この語にまったく新しい現代的な意味作用を与えたのはフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールである。彼は『象徴交換と死』L'Echangesymbolique et la mort (1975)で、シミュラークルの展開を、(1)ルネサンスから産業革命までの「模造」(オリジナルの価値に依存するコピー)、(2)産業革命と機械制大工業時代の「生産」(機械によって大量生産されるオリジナルと等価な複製)、(3)生産が差異のコードによって支配される現段階の「シミュレーション」(差異の変調を指示するコードにしたがって生み出されるオリジナル不在の記号)に分類した。 ボードリヤールはさらに進んで、『シミュラークルとシミュレーション』Simulacra's et simulation(1981) では、現実とそのイメージの関係を、(1)現実の忠実な反映としてのイメージ、(2)現実を歪めるイメージ、(3)現実の不在を隠すイメージ、(4)いかなる現実とも無関係なイメージに区別し、(4)をオリジナルとコピーの二項対立を超越した純粋なシミュラークルと呼んでいる。そして、現実と記号の等価性の原則から出発する表象(リプレゼンテーション)とは異なり、もはや客観的現実を必要としないこのシミュラークルの産出過程をシミュレーションと名づけるのである。このような思想の前提には、あらゆる財とサービスが情報メディアのネットワーク上で差異表示記号として機能する現代消費社会では、現実と記号の関係が逆転し、現実世界自体が記号化されてしまったという認識がある。(https://kotobank.jp/word/シミュラークル-523864)
*2 「(もしくは現実とシミュラークル、もしくはシミュラークルとシミュラークル)」と書いたのは、ボードリヤールが指摘したように、シミュラークルの浸透しすぎたこのハイパーリアルな社会一シミュレーションの時代(l'ère de la simulation)—の中で、私は現実の経験や事象とシミュラークル、シミュレーションとの違いを、もはや区別できなくなりつつある(できなくなった)と感じるからである。例えば私がカフェでコーヒーを買うとき、その動機が「コーヒーが飲みたい」という実利的なモチベーションを超えて、SNSに蔓延したシミュラークル(おしゃれな雰囲気のカフェの写真、カフェのロゴなど)の影響を受け、それを私がシミュレーションする、というような構図のあり方は否定し難い。そのような影響がどの程度わたしの現実の認知に変容を与えているか把握し切れないという点において、私たちはヒトの自然状態と社会構築物との間にあるギャップを見ているのか、それとも現実とシミュラークルの間にあるギャップを見て「エグい」と言っているのか、はたまたシミュラークルとシミュラークルの差異を見ているのか確かではなく、もはやこの不確定さは混沌の中にある。このカオスが整理されたとき、上記のエグさの種類(1.通常のエグい (Normal Mindfuck) 2.逆にエグい (Reverse mindfuck) 3.カモフラージュ型のエグい (Camo mindfuck))というカテゴライズは、全く持って無意味なものに転覆する可能性が十分にあり得ることを明記しておく。

テキスト:蔵内 淡

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