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#40 世界遺産+国宝の「富岡製糸場」に行ってみた(凝り性の建築訪問記Part①)

僕は「セミナーに呼ばれて」とか、「出張に出掛けて」とかで、色んな土地に赴くことも多いのだが、そのついでと言ってはなんだが、ちょっと寄り道して気になった建築や公共施設、公民連携事例などをみて回ることも多い。

noteのプロフィールにも建築は趣味のようなものと書いているとおり、凝り性な建築オタクなだけに、建築を見に行くことは趣味や娯楽に近い感覚なのだが、一方で普段関わっている仕事に通じるようなインプット活動とも言え、実際に現地に行ってみることで、ネットや書籍では感じることのできない空気感や人の動き、細かいデザインなどを知ることができ、実に有益な寄り道なのである(笑)

そんな寄り道で訪れた建築の旅日記的なものを、シリーズ的にnoteで発信してみようかと思い、今回はその第一弾となる建築訪問記Part①をお届けしたい。

Part①でお届けするのは、先日の東京出張に合わせて、ほんのちょっとだけ(笑)寄り道してきた群馬県富岡市の富岡製糸場について。


富岡製糸場に行ってみた訳

そもそもどうして富岡製糸場に行ってきたのかというと、我がまち、津山市でこれから保存・整備が予定されている国指定重要文化財の旧苅田家住宅に対して、何らかの有益なヒントを得るためである。

文化財に色んなカテゴリーが存在していることは、前回のnote「公共施設としての文化財という存在(の導入編)」でも書いたとおりだが、登録有形文化財なんとか違って、国指定の重要文化財や、まして国宝ともなると、活用よりも保存のウエイトが非常に高くなる。
当然ながら文化庁の許可も必要で、指導を仰ぐこととなる。

実際に富岡製糸場(繰糸所・東置繭所・西置繭所が国宝に指定)の保存・整備は約30年という気が遠くなるような期間を要するという。津山市の旧苅田家住宅においても、10年以上の年月を要すると聞いている。

重要文化財や国宝建築では、外観だけでなく内装についても原則当時のものを保存することが主眼とされ、現代仕様への改変が認められないため、大胆なリノベーションは非常に困難であり、活用についても大きな制約を受けることとなる。
保存・整備工事についても、一つ一つの材料や工法を時代考証と共に行う必要があるため、期間も非常に長くなるのである。

富岡製糸場については、保存と活用を併存させるため、国宝に指定されている西置繭所では、屋根・外壁・床の大きな空間の中に、ガラスの入れ子ハウス(鉄骨による耐震フレームも兼ねる)を挿入する「ハウス・イン・ハウス」という手法により、この難題を解いている。
保存された部分と現代的に造られた部分が、どのように共存し、空間を構成しているのか確かめるべく、現地に訪れてみたかったという訳である。

ちなみに、西置繭所の保存整備工事には6年の歳月を要したそうだ!

現地へ行く前に読んでいった書籍

ここまで、さも知ったように書いているが、ハウスインハウス工事以外のことや、富岡製糸場にまつわる歴史などについては、実際に行ってみようと思う前まで、恥ずかしい話ほとんど知らなかった。
それこそ、子どもの頃に歴史の教科書で見たことがある、くらいの知識しか持っていなかったのであるが、富岡製糸場という工場建築で、何年もの間、受け継がれてきた歴史を綴った書籍が、つい先月の6月に出版されたのは、何かの縁だったのかもしれない。

津山にもゆかりが深く、直接何度かお会いしてお話やお付き合いをさせてもらっている紀行作家で一級建築士の稲葉なおとさんの新刊「絹の襷(きぬのたすき)」である。

もしかしたら、富岡製糸場という近代産業遺産や国宝建築が現存していなかったかもしれないという歴史を乗り越え、どのような経過を経て世界遺産として登録されるまでに至ったのか?
そんな歴史の糸を紡ぐかのように、信じられないような時間と綿密な取材があってこそ書けるような内容の濃さで、建築の記述はもちろんのこと、それに加えて、そこに関わってきた人物やその想いが透けて見えるような壮大なノンフィクション物語である。
その中で中心的人物として記述されているのが、市の所有になる前の建築所有者である片倉工業の元社長の栁澤晴夫氏、1995年から2006年まで3期の市長を務めた元富岡市長の今井清二郎氏、元富岡市役所の職員で当時関係がこじれていた片倉工業と富岡市の間を取り持った津金澤正洋氏の3氏。

書籍の中には一枚の写真も掲載されていないが、稲葉さんの濃密な記述により、富岡製糸場という建築のこと、その歴史に関わってきた人物のこと、色んなイメージを持つことができた上で現地を訪問できたのは、非常にありがたかった。

稲葉さんが職場に遊びにきてくれた時の写真、そういえばこの時、骨折真っ最中だった(笑)

この本が思いがけない出会いとなるのは文末に記するとして、読み終わったばかりの本もバッグに入れて現地に向かうこととした。

東京~上州富岡駅

東京からは北陸新幹線で高崎まで行き、そこからは上信電鉄に乗り換えて、上州富岡駅を目指す。
約2時間の旅である。

JR高崎駅から少し離れた位置にある上信線の高崎駅、ノスタルジー感溢れるプラットフォーム。

往復の乗車券と富岡製糸場の入場券がセットになった割引チケットがあり、そちらがお得である。

割引チケットを購入して乗車

高崎駅から上信線に乗り換えると、あたりはすっかり田園風景。
高崎駅では大勢の乗降客があり、ほぼ満席に近かったので、ほとんど人が富岡製糸場を目指しているのかとビックリしたが、大半は高崎から5駅目である高崎商科大学前で下車していった。
どうやら地元の大学生だったようである(笑)

揺れ具合といい、窓の外の風景といい、JR津山線のようなのどかさを感じる上信線に揺られ約40分、上州富岡駅に到着。

上州富岡駅のプラットフォームは赤と白と青のチャーミングな色使いでほっこりする

上州富岡駅~富岡製糸場

上州富岡駅から富岡製糸場までは徒歩約15分。
ただ、直接向かうのには惜しいくらい、色んな建築が建っているのも富岡市の魅力。

まずは、上州富岡駅
こちらの設計は武井誠+鍋島千恵 / TNAで、富岡製糸場の木骨煉瓦造を参考にした鉄骨煉瓦造の非常に伸びやかな建築、美しい。

薄い屋根の水平ラインと鉄骨煉瓦造が美しい上州富岡駅の駅舎

そこから目線を背中の方に動かすと目を引くのが煉瓦造の歴史的な建造物。
こちらは群馬県立世界遺産センター(SEKAITO)富岡倉庫が軒を連ねている。
富岡製糸場に行く前に、こちらで歴史の事前学習をして、その後こちらで食事をすることに。
ちなみにこちらの建築のリノベーションは隈研吾さんの設計によるもの。

赤煉瓦のSEKAITOと大谷石積みの富岡倉庫
リノベーションされた内部空間は古い部分と新しい材料が共存
こちらもリノベーションされている富岡倉庫の内部
こちらのカフェ(Merci Cocon & Cafe)で昼食をいただく

そこから一本道を挟んだ向こう側には富岡市庁舎が建っている。
2018年に完成したばかりの新しい庁舎で、設計は隈研吾さん。

隈研吾さん設計の富岡市庁舎
隈研吾さんらしいファサードデザインだが、裏の方は意外とシンプルだった

庁舎建築は仕事にも直結するので、もうちょっと時間をかけて見学したかったが、ちょっとだけ内部の様子を見学して、駆け足で次の建築へ。

庁舎から富岡製糸場に歩いていく途中には、富岡商工会議所会館がある。
設計は手塚建築研究所(手塚貴晴+手塚由比)で、元々建っていた呉服店を再生(蔵はリノベーション、母屋は建て替え)したもの。

左の蔵はリノベーション、右の母屋は建て替え新築となっている
母屋の横に回ってみると三角屋根の連なりが目をひく外観にびっくり

建築オタクとしては、ここまででお腹いっぱいであるが、今回の旅の主目的である富岡製糸場の前にくたばる訳にはいかない。
かなり体力は消耗してしまったが、元気を出していざ富岡製糸場に。
しかし、この日は死ぬほど暑い!

それにしても、この徒歩圏内に建築マニアが好きそうな建築が密集しているとは、富岡市恐るべしである。

現地に行ってみて感じたこと

すでに汗だくではあるが、いよいよ富岡製糸場に到着。
門越しに見える建築は想像以上にデカい!

門の向こうに東置繭所の大きな建築がそびえる、想像以上に大きい

広い構内を回るだけでもずいぶん時間がかかりそうであるが、ルートも分からず一人で動き回るよりはと思い、個人でも参加できるガイドツアーに申し込みをしてみた。
この日は平日で概ね1時間おきにガイドツアーが開催されていて、タイミングよく13時のツアーに参加することができた。

ガイドさんの小気味よいトークで、東置繭所から繰糸所(いずれも国宝)を巡っていく。
この巨大な建築が、ほぼ近代建築の施工経験がない明治5年という日本において、わずか1年4カ月で建設されたというのは驚きでしかない。
そんな短工期にも関わらず、完成から150年以上を経てもなお、その大半が丁寧に保存され、現代に継承されているということは、それ以上の驚きである。
明治政府の官営から、三井家(三井銀行)、原合名会社片倉工業を経て、富岡市に移管される現代まで、数えきれない多くの人の手によって、大事に大事に維持管理されてきたというのがすぐにみて取れる。

東置繭所の入り口となる煉瓦アーチ
アーチ中央の楔石には明治五年としっかり刻まれている
長さ104mもある東置繭所の外観、これが明治初期の建築スケールかと思うと驚嘆しかない
木骨煉瓦造の構造は、こんな風に組まれている
無柱空間とするためトラスの小屋組、明治5年にこの空間ができたことも驚き
片倉工業時代のニッサンHR型自動繰糸機が大事に保存されている

約40分のガイドツアーを終えて、ここからは一人でハウスインハウスのある西置繭所へ。
こちらは6年間の整備を終えて、資料展示室(ギャラリー)と多目的ホールが整備されている。

西置繭所も長さ104mと巨大、繰り返しになるが明治期のスケールではない!
こちらがハウスインハウスの様子、外壁側は古いものがそのまま保存されている
ベランダに出ることも可能で、ここでもスケール感に驚かされる
保存・整備工事で塗られたグリーンが映える。明治にこの近代的な建築を目の当たりにした人は何を想っただろう。

帰りの電車のこともあるので、少しの名残惜しさの中、富岡製糸場を後にする。
しかし、上州富岡駅についてから、約5時間、真夏の太陽が照り続ける酷暑日に、これだけ歩き回ると流石にぐったりである。
とはいえ、その疲れも吹っ飛ぶくらいの強烈な物を見学でき、テンション高いまま帰路に着くことに。

いやはや、富岡製糸場、恐るべしである。

襷(たすき)はしっかり繋がっている

さて、ここからは旅のちょっとしたこぼれ話。
たまたま富岡製糸場に着いた時間に参加したガイドツアーで、ガイドを務めていただいたのは、斎藤さんという方。

ツアーが終わった後、少しお話をする機会があり、前述の稲葉さんの「絹の襷」をバッグから取り出して、この本に感銘を受けたことをお伝えすると、斎藤さんは、元々富岡市の職員で、本の中の主要人物である津金澤さんの元部下だとおっしゃられる。

稲葉さんは、津山にも関係が深くて、僕も何度かお会いしていることを伝えると、今度、津金澤さんに会う機会があるから名刺を頂戴できないかと言われ、僕の名刺を2枚お渡しした。

その後、津山に戻り、数日後、職場にガイド役の斎藤さんから電話が入る。
「ガイドの斎藤ですが、覚えてらっしゃいますか?」と言われ「もちろんです」とお応えする。
津金澤さんに僕の名刺を渡し、稲葉さんとの話を伝えたところ「また襷が繋がりましたね」と非常に喜ばれれていた旨をぜひお伝えしたかったということをわざわざ連絡してきてくださったのだ。

150年を超える歴史の中で、本当に多くの方々の襷が繋がれて現在に至る富岡製糸場。
そんな人から人へ繋がれる襷の一部を垣間見れたような気がして、色んな縁が繋がった気がして、胸が熱くなった。

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