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轟洋介のオタク、HiGH&LOWへの感謝を大いに語る④


 ①二人で走る時間が永遠に続けばいい。


 ここまで読まれた読者諸兄姉は、さすがに筆者の気味の悪さに驚かれたことと思う。
 オタクはしばしば主観的な長文「怪文書」を書くが、それをそのように自虐するだけの客観性がある。しかし、これほどボリュームのある客観性なき『怪文書』は、事実として稀なことではないか? しかも、その目的は「感謝」だと言って譲らないが、感謝は何万文字読んでもはじまらないという。
 筆者は『轟洋介の限界オタク』などと書いてしまったが、これはおそらく筆者固有の問題であろう。
 いつだって筆者は間違いだらけなのだから。
 振り返ればこのときもまた、筆者が間違っていたのだ。
 戦う理由、HiGH&LOWの倫理観、『仲間』『絆』地獄…様々な問題が筆者の胸中に渦巻いていたが、結局ところ「ありのままの轟を受け入れてほしい」というのは無成長主義、無変化主義にほかならない。「日本はもう充分…成長しなくていいですよ…」とか言い出す老人か?
 若く怒張したHiGH&LOWの世界に老人の居場所はない。
 つまるところ、筆者にとっては(すべてのオタクにとってそうであるように)世界の中心は轟洋介だったのが、おそらく客観的に見れば筆者は『HiGH&LOW』のファンではなかった。『轟洋介のファン』でもない。『ドラマ版シーズン2の轟洋介』のファンだったのである。
 それゆえのHiGH&LOWとの対立だったのだ。

 この一瞬よ永遠になれ…。
 何一つ変わることなく……。

 これはHiGH&LOWでは巨悪を超えた悪、絶対悪、純粋な悪である。対立は避けられない。
 HiGH&LOW聖書を捲れば、まず巻頭にド派手な金箔押しで『変化をおそれるな-Change or Die-』と書かれているはずだ。固執すること。変われないこと。これらを原因とする苦しみは人間を惑わし、あらゆる悪徳に引きずり込む『悪』そのものとして定義されている。
 悪に囚われるとどうなるか?
 シーズン2の轟洋介よ、辻よ、芝マンよ。幼馴染などではない、今まさに筆者の目の前で出会った三人…HiGH&LOW文脈の外からあらわれたデカい夢を持つ男……永遠であれ…それをゆるさない世界すべてがにくい…HiGH&LOWの世界が、その理が………

 筆者は、琥珀さんになっていたのである。
 

 ②主役、準主役、まあ大事なキャラ、そして脇役。


 今日はHiGH&LOWに思い切って言わせてもらおうと思う。
 当時、悪に囚われていた筆者が考えていた『現実』のことを。

 HiGH&LOWはLDHのスターを売り出すための企画であり、特に初期にはそれが顕著だ。LDH以外のキャストはいかにカッコよくとも「勝てない」(「負ける」という描写を極力避けているのでこういう言い方になる)
 異なる文脈ではあるものの、先日、轟洋介を演じる天才であるところの前田公輝さんも(村山演じる山田裕貴さんに続き)まさに「かませ犬」という言葉を使っていて、いたく心に沁みた。本当にその通り。だがこれは本来使ってはいけないはずの言葉だ。
 なぜならHiGH&LOWは「全員主役」をキャッチフレーズにしているからだ。

 でも、全員主役なんて嘘ではないか?

 これまではHiGH&LOWに遠慮していたが、当時感じていた絶望をはっきり言わせてもらおう。見てわかるようにこの文章は『#PR』ではない。筆者は無用なご機嫌取りはしない。こちらも本気で書く。良識的なファンがその人間性と知性の高さからあえて口にしなかった不満を、全員が全員、わかっている中でわざわざ説明させていただく。

   実は、HiGH&LOWのキャラクターは全員主役ではない。驚きである。
 役者の格、集客力、LDH所属かどうか、ストーリー上の立ち位置、HiGH&LOWファンの人気、年齢…あらゆる状況がはっきりと主役と端役を峻別する。だからこそドラマが成り立ち、面白い映画になる。驚くべきことだが、実は主役以外にも準主役、脇役などが登場することで成り立っているのだ。
 そして、筆者が轟洋介を応援しているだけであって、HiGH&LOWの世界の中でにあっても轟洋介はとりわけあきらかに主役ではない。端チームの中の端メンバーである。準主役でもない。脇役である。
 そして、筆者が轟洋介についてああしてほしいこうしてほしいと思うように、他の脇役キャラクターのファンもみんなそう思っている。
 ユウのファンも、カイトのファンも、キリンジのファンももっと尺さえもらえれば…!そう思っているに違いない。HiGH&LOWの過酷な尺の奪い合いにまずは勝てねば、テッペンを狙うその候補にも入るのが難しくなるのが脇役だ。
 とにかく尺が足りない世界だ。
 要点はそこだ。
 尺さえあれば一応は「全員主役」の建前を守れるはずなのだが、何をどう作るにせよ、尺はない。その中でどこまで「主役かもしれない脇役」を描き出せるのか?
 現実的に考えれば、こういう「全員主役といいながら本当は主役じゃないキャラクター」は、「登場はしない(登場しても本筋にはまったく絡まない)」か「登場するけど誰かのかませ犬」のどちらかしかない。十分な説明はされないし、されないまま気がついたらフェードアウトしているかもしれない。それもしょうがない。尺がたりないんだから。切り捨てるられるものがあるからこそ面白い映画になることは、筆者も承知している。
 そもそもキャラクターが多すぎるのだ。
 『新登場が多すぎる』、HiGH&LOW!! まさにその通り。
『HiGH&LOW THE MOVIE 2 / END OF SKY』『HiGH&LOW THE MOVIE 3 / FINAL MISSION 』公開時に、HiGH&LOWはキャスト100人超え!と誇っていた。
 だが、映画2本(240分前後)でそれをどう捌いていくのか。勝算はあるのか。メインストーリーに絡むキャラクター以外の魅力をどう拾い上げていくのか、さすがにこれでは役者や脚本にも限界がある。
 アクションシーンで爪痕を残せばファンは注視して全てを解釈してくれるかもしれない。だがそれだけのアクションシーンを作ってあげられるのか。それこそあらゆる要素を整理しながら厳しい目で峻別することになる。
 そもそも筆者はアクションシーンはそこそこ好きだが、好みは狭いし(人間同士が殴りあうものだけが好きだ)、楽しむためには文脈が不可欠だ。
 極端な話、『琥珀さんの新しい髪形をdisるヤツがあらわれて、それを九十九さんがボコボコにする』なら最高にノれるのだが、同じくらい素晴らしいアクションであっても『九十九さんがなんかよく知らんヤツをなんかあやふやな理由でボコボコにしている』では「なるほど」で終わり。でも、熱狂的なアクション映画ファンでなければそれが普通というものではないか? 
 だがHiGH&LOWには各人のバックグラウンドを描く時間はない。
『九龍がSWORD地区を地上げ、カジノを建設するらしい!』『無名街爆破セレモニー!?』すなわち『SWORD地区共通の敵があらわれた!』という状況をその集団はどう見るか?で敵と味方を描くしかない。
 ここにおいて、たとえばユウがいつRUDE BOYSのあらわれたのか、どんな人物なのかなどを掘り下げて描く隙はない。事件を前にし、RUDE BOYS全員の考えは大まかに言って、まるっきり同じとして表現するしかない。

 だがそもそもキャラクターを増やすというのは作品内に存在する価値観を増やすことではないのか?
 価値観が多様に入り乱れなければ、結局100人超のキャストも意味がないのではないか? 同じ価値観のキャラクターが100人になれば、結果的にキャラクターに1~100位と順位をつけることが容易になってしまう。それでは増えた意味はない。
 100人超え、たしかに楽しい。豪華な言葉である。
 でもHiGH&LOW、その『多い!=豪華!!=派手!!=最高に楽しい!!!!!』みたいな考え、筆者はどうかと思う。だってそうなった結果として現れたのはもとより抱えていた尺!尺!尺!!!!というジレンマの強化ではないか。
 HiGH&LOWにおいては、いつだって時間が足りない。
 1本10時間の映画にするわけにはいかない。このせめぎ合いの中で、新作に新しく登場したキャラクターに関して何がしかの満足を持ち帰らなければならないのは骨が折れることだ。稀な成功と、即座に忘れられる無数のキャラクター…。
 言うまでもないが、映画がつまらないという意味ではまったくない(特に『FINAL MISSION』はめちゃくちゃ好きである)
 そうではなく、勿体無いというか、意味がわからないというか、超豪華な牛肉を買ってきたのに冷凍庫に入りっぱなしであるとか、トリュフ塩まで用意されたキッチンなのにカップラーメンを作る時間しかないとか、そういうことである。
 そういう状況の中で「轟洋介を特別贔屓してもらうわけにはいきませんか?」などと誰が言えるであろう。そんな暇ないよ。LDH所属でもないのに。


 ③HiGH&LOWはもうここにはいないよ。

 
  それともう一つ、HiGH&LOWと朝晩語らっているうちに気が付いたことがある。
 HiGH&LOWの歩みはものすごく速い。新陳代謝のスピードが速い。

 例えば、HiGH&LOWは決して去年と同じ服を着ない。
 真におしゃれでパワフルな遊び人でありトレンドリーダーだからだ。
 ”前回会ったときと同じ服で会う”なんてダサいことは考えもしないので、登場するたび全キャラクターが必ず髪型を、衣装を、イメージを刷新する。1枚のjpgを5年はありがたがって舐め回すオタクは『前の髪型のほうが好きだな』などと言う暇もない。言っている間にそれは『前の前の前の髪型』くらいになっている。

 固執すること・変われないことを何よりの悪とするHiGH&LOWらしさだ。
 教義を実践するHiGH&LOWは現実的にもフットワークが軽く、その変化はめまぐるしい。
 こちらはがっぷり話し込んでいるつもりだったのに、気が付くとHiGH&LOWは全く違う話をしはじめていることがある。HiGH&LOWはすぐに今を過去にしてしまう。
 もちろんオタクだってものすごいスピードで今を過去にしてしまうし、だからこそ一瞬が永遠になるファンタジーが好きだ。
 だが、オタクのそれがあくまで美しい幻想の一つであるのに比べ、HiGH&LOWが提示するものはもっと切実だ。あまりにも切実で、狂気さえ孕んでいる。HiGH&LOWは恐れているのだ。「暴走族は19歳になったら止めなければいけない」とかそういうことを。琥珀さんは「友達がみんな就職した」から狂った。筆者にはその気持ちがよくわかる。
 友達がみんな就職したら狂う。当たり前の話だ。
 だからこそ、オタク向けコンテンツでは、往々にしてモラトリアムを肯定する論調を見かける。癒される。だが、HiGH&LOWにはその選択肢はない。
 異常なほどHiGH&LOWが(そしてヤンキー物一般が)この「世代交代」というテーマを重要視するのは、「事実としてそうだから」なのだろう。
 卒業し損ねること、世代交代に失敗することは、大きな恥だ。どの作品でも卒業し損ねた男たちはバカにされる。
 肉体を実際に動かしている人間たちは、肉体のパフォーマンスの低下に敏感である。だからそれがドラマになる。これはHiGH&LOWから受け取ったメッセージの中で、とくにオタクとは違う、まさに身体性がドラマに直結しているのだなと感心したことのひとつだ。生きる上でのあらゆる物事の中で、避けがたい宿命としての肉体の老いがあり、「ヤンチャを卒業」という通過儀礼、退くべきものは退くことこそがドラマになる。
 筆者は『ガチバン』シリーズが大好きなのだが、このシリーズの『ガチバン WORST MAX』で、窪田正孝演じる主人公・勇人は19歳で「おっさん」と呼ばれ出す。30歳は女子ですか?とか40代はまだおじさんじゃないよ、とか言っている場合ではない。19歳でおじさん。HiGH&LOWにはこの厳しさがある。
 そしてそれはLDHでも同じことだ。
 話は少し前後するのだが、今年、LDHはこれまで以上に本気で「世代交代」を打ち出している。
 Jr.EXILE世代を売り出そうとあの手この手で仕掛けている。筆者も『THE RAMPAGE』が大好きだ。筆者は『PRINCE OF LEGEND』『BATTLE OF TOKYO』も拝見した。だから天才・川村壱馬さんを売り出したいのがよくわかっている。当然のなりゆきとしてHiGH&LOWは今後、Jr.EXILEたちの輝く場所になるだろう。

 これら様々なことから導きだされるのは、筆者にとっては特別なキャラクターである脇役・轟洋介は、きっと次に出番が来るとしたなら「かませ犬を見事にやりとげ・そしてご卒業されるであろう」という憶測である。悪にも囚われるというものだ。
 改心しないでくれ、どころの話ではない。
 シーズン2よ永遠なれ…。

 畢竟、誰かを推すということは、そのキャラクターを通して作品世界を解釈することである。
 HiGH&LOWのようなビッグプロジェクトは様々な文脈の上になりたつものであるが、一視聴者としてそれを理解することは難しい。自らの価値観との間でおきた摩擦の熱だけがリアルである。それこそが核心であると受け止めることしかできない。アクション映画ファン、LDHファン、若手俳優ファン、様々な見え方のHiGH&LOWがあるだろう。
 筆者は轟洋介という男に目を向けたことで、筆者だけのオリジナルなHiGH&LOW体験を得た。そのことがどれほど筆者の人生を燃やし、魂に癒されることのない焼き印が押されたか、言葉には尽くせない。この焼き印は聖痕である。
 だが次に轟洋介が登場するときには、おそらくはこの全てが終わるときだ。
 筆者はまだまだ話足りないが、HiGH&LOWは「話かわるけど、川村壱馬くんイイよね」と話し出すに違いない。HiGH&LOWの切り替えの早さはすごい。
 そっけない別れを悲しむこと自体がおこがましいことでもある。川村壱馬さんはもちろんイイし、筆者の思いに応じてもらえないことは当然なのである。

 HiGH&LOWのファンには本当にいろいろな人がいる。それぞれにオリジナルなHiGH&LOW体験がある。
 各人なりの視点や理由があり、とにかく雨宮兄弟の再登場と大活躍を願う人、SWORD地区の歴史・設定を考察し続ける人、アクションのメイキングだけが見たい人、日向と加藤の過去を描いてほしい人、李がもし登場し続けていたら…というif・HiGH&LOWを想像し続けている人、芝マンが2035年から来たって何事だよ!?2035年のSWORD地区はどうなってる!?轟支配してる!?と思う人(これは筆者である)…様々な要望があり、考察があり、感情があり、感想がある。
 そこに上下や正誤はなく、ほんのわずかなファンを除けば、いずれも同じように答えてもらない。人の数だけ作品との間で起こった物語が違うというのはそういうことである。
 しいて言えば、応えてもらえる可能性が限りなく高いのが、「主役」のファンであり、轟洋介は「脇役」だ。
 全員主役ではないからしょうがない。
 どのようなコンテンツであっても『公式に文句を言うオタク』は生じるし、それはそのコンテンツがそれだけの魅力的な膨らみを持っていることの証なのでしょうがない。しかしだからといって『お前の固執したHiGH&LOWは終わった』といわれるオタクの気持ちは簡単ではない。

 変わっていかねばいけないのだ。HiGH&LOWにとってそれは絶対だ。
 切り替えられるのか?
 筆者のようなオタクがHiGH&LOWと同じペースで歩いていけるのか…?

 いや、変わるといっても、もしかしたら筆者の望む方向に轟は変わるかもしれない。SWORDのテッペンをとるかも……いや、ありえない。しかし筆者の望みを叶えるとすれば、それは轟洋介のために新たな世界を創ってほしいという願いに等しい。それは司でなくとも「無理」の二文字で決めつけてしまうだろう。

 こうして振り返って考えてみれば、轟洋介が映画2本に登場しなかったことは逆に幸運だった。
 その間は時が止まっていたのだから。
 だからこそ、筆者はずっと問い続けていられたのだ。
「轟洋介のことHiGH&LOWはどう思う?」と…。
 しかし今や「轟洋介?いや、そんな話してる場合じゃないよ」とHiGH&LOWは言うだろう。


 ④言葉遊びに興じる筆者の傍らで、しかしHiGH&LOWは今日もガチ。

 そんな筆者にとって、驚くべき展開があった。
 『DTC -湯けむり純情篇- from HiGH&LOW』という映画の存在である。
 概要は下記のようなものである。

" 最新作は心機一転、“アクションなし”でお送りするハートウォーミングな青春ドラマ。
企画プロデュース・EXILE HIRO、シリーズ全作品の脚本を手がけてきた平沼紀久が長編映画初監督を務め、お馴染み山王連合会のダン(山下健二郎)・テッツ(佐藤寛太)・チハル(佐藤大樹)の3人組(通称: DTC)がバイク旅で巻き起こす奇跡の連続に、スカッと笑えてホロッと泣ける、ファン必見の“純情”ムービーが誕生!"
公式サイトより抜粋
https://m.tribe-m.jp/common/movie/2018/dtc_yukemuri/index

 

  HiGH&LOWは馬鹿ではない。
 むしろ現実において理想を実現せんと思考する、真の意味での強靭な知性の持ち主である。
 そんなHiGH&LOWがこの映画に対して「絶対イケるでしょ!HiGH&LOWファンに馬鹿ウケ、DTC最高~!wwwwwwwwww」と思っているはずがない。むしろ悲痛な面持ちで取り組んだはずだ。「アクション抜きのHiGH&LOW」……「肉抜きのステーキ」である。ヤバイことになる。暴力大好き人間集団HiGH&LOWにわからないはずないではないか。筆者は、相当の覚悟をもってこの映画を作ったのではないか?と身構えた。
 この映画をきちんと見たことのない方もいるかと思うので、改めて筆者があらすじを記載させていただこう。少し長くなるのだが…


 DTCはバイクで温泉宿に行き、金がないので働かせてくれと強引に泊り込む。
 頼まれてもいないのに温泉宿の若女将の再婚話に口を出し手を出し、最後は達磨やラスカルズの若手も巻き込んで無事再婚をさせるのだった。


 この映画は、おそらくはHiGH&LOWプロジェクトの間を埋めるための省エネ作品なんだろうが(そしてさりげない形で『THE WORST』に鳳仙が絡むことへの前フリをかねる)、筆者を狼狽させる作品だった。そして”畏怖”のような気持ちを抱かせるに至った。

 なぜなら、『DTC -湯けむり純情篇- from HiGH&LOW』はHiGH&LOWのキャラクターたちのうち幾人かは、実際に「暴力を捨てること」ができるのかもしれないという話だからである。
 アクションがないのが予算の問題だったとしても、内容に見るべきところがなくても、筆者はこの映画が心底おそろしい。

 「復讐の連鎖から逃れよ」と言ったナオミの、そして常に悩み苦しみ逡巡したコブラの、その下の世代は本当に憎しみの連鎖から解き放たれてゆく可能性があるのだと描かれる。
 「俺だってほんとは喧嘩なんかしたくねえだんよ!」というテーマがたびたび描かれたとき筆者は言った。「ありえない、なぜならアクション映画だから」「形ばかりのお題目は止めろ」と。だが、HiGH&LOWはマジで言っていた。「アクション映画である」ことのほうを止めた。マジか?

 この映画を見たい!と思うHiGH&LOWファンは多くはないだろう。何度も言うがアクション抜きのHiGH&LOWである。だがそれでもHiGH&LOWは「SWORD第一世代が作った世界において一部キャラクターは実際に暴力の連鎖から開放された」ことを1本の映画をかけて見せる。そんなことのために映画を1本。いやそんなことではない。
 HiGH&LOWはあんなに悩んでいたのではないか!
「本当はもう、喧嘩とかやめたいんだよね…これ、マジな話…」と。
 真面目に話を聞いていないのは筆者のほうだったのだ。

 ダン・テッツ・チハルは達磨の、そしてラスカルズの新世代と手を取り合うことを選ぶ。
 ストーリーは『SWORD地区の土地が地上げ!カジノ!』『全員が憎むべき共通の敵(ヤクザ・汚職警官・政治家!!)があらわれた!』という『HiGH&LOW THE MOVIE1~3』のアホのようななストーリーと相似を描くように『みんなが強力して助けようと思える相手があらわれたぞ!』『それは、両親の再婚が嫌で思い悩む小さな女の子なんや!』とアホのように語られる。昭和か?
 そのためなら達磨もラスカルズも山王(というよりDTCはもはや別チームなのかもしれない)と手を結ぶこともやぶさかではない。誰かを叩きのめすためではなく、救うためにひととき手を取りあう。 
  いったいそんなヌルいSWORD地区を誰が見たいというのだ?
 むしろ……もっともっと争え! 日向と村山の決着、ちゃんと見せろよHiGH&LOW、チキってんじゃねえぞ!SWORD地区の高ランクキャラ同士の派手な喧嘩を見せてくれや!好カードはまだまだ残ってるだろうが!… おそらくそういった飢えた獣のような声が多数派であろう。
 しかし映画はおかまいなしに見せ付けてくる。
 相変わらずチハルは図々しい、そして元気そうだ。チハルはきっとどこでも生きていけるだろうな。テッツはかわいいのでおばさんにモテる。ダンはいいヤツだから少女に懐かれ、自分自身の家庭と少女の境遇を重ねる繊細さを持ち合わせている…。ラスカルズは福利厚生がしっかりしている…。端的に言ってどうでもいい話なのだが、どうでもいい世界を描くことの『意味』が背後にあり、これは改めてHiGH&LOWの『マジ』を筆者に感じさせたのである。

 へえ…!
 やっぱり怖いね、HiGH&LOW…!
 思想映画の面目躍如である。

 HiGH&LOWはカッコいいアクションとカッコいい音楽を軸におき、おきながらも自らの悩みに対して真摯な回答を出さずにはいられない、そしてそれは浮世離れしたメッセージなどではなく、真に人生に必要だとHiGH&LOWが信じることなのだ。筆者は知っていたはずではないか?この映画の本質はカルト宗教映画と変わらないと嘯きながら、その言葉の意味を理解していなかったのは筆者自身だったのだ。
 
 そもそも筆者は、なぜHiGH&LOWを愛したのか?
  自分にとって未知の世界を雑ではあるがありのままに見せてくれるからだ。どのような分野であれ、筆者にとってはその正直さが作品を鑑賞する上で何より重要である。
 筆者は、なにもかも自分にとって「正しい」「美しい」と思えるような作品にはほとんど惹かれない。見たことで自分に何も起こらないからだ。社会性がないのでその作品によって社会になにかを期待することもない。
 鑑賞とは、対話であり、異なる価値観のぶつかり合いであってほしい。しかしそれはつまり、HiGH&LOWとの日々を通じて筆者自身が変わってゆくことを、筆者自身もまた期待していたのではないか?
 それなのにHiGH&LOWの中でHiGH&LOWの価値観に染まらない男、轟洋介、イイよね、などと言い出したことからねじれがうまれ、結果的に『価値観の違いを楽しめない』という本末転倒な事態に陥っているのではないか? 初心にかえってHiGH&LOW本人をもっと知ろうとするべきなのではないか?

 HiGH&LOWにおいて『比喩』は存在しない。まずはそれをよく理解することだ。
 争いをやめたいといったらそれは争いをやめたいという意味であるし、変化しなければいけないと言ったらそれは変化しなければいけないという意味である。

 考え直さねばならない…。
  筆者は再び『DTC -湯けむり純情篇- from HiGH&LOW』に取り組み始めた。筆者は大きな見落としをしていたことにも気がつく。
  HiGH&LOWの言う「変化」とは、「ヤンチャを卒業」とは、ただ変わることではない。決まりきった当たり前の世間のルールの上をしっかり歩んでいくことだ。そうだ、作中でそれはひときわ「マトモ」な倫理観をもったロッキーもたびたび口にしていたではないか。
 そういえばDTCの冒頭でははっきり「この旅の終わりは青春の終わりだ」と示唆している。サウナのシーンを思い出してみよう。彼らは「住宅ローンを支払うだけの毎日」「家族のために生きる日々」に突入する前の最後のチャンスである今、青春旅行に出ようと画策するのだ…。
 言葉を額面どおりに受ければ、この分だとHiGH&LOWにおいては近く誰か結婚し、子供を生み、家を、家庭を持つのではないか?

 つまり…。
 つまり…HiGH&LOWはもしかすると今後、本当にDTCをーーいや、もしかすると前節で懸念したように…"大人”の象徴として、まずは琥珀さんを、家庭に入れてしまうかもしれない。稼いで、出会って、子供ができて…。ロッキーは保育所を作るといっていた。そこを最初に利用するのが琥珀さんではないと言い切れるのか?

 HiGH&LOW、もしかして時間は進むのか?

 HiGH&LOW…。
 筆者は…筆者は…。

 そういう中で、『HiGH&LOW THE WORST』の告知は解禁された。
 そして『THE RAMPAGE』のライブ終演後のに流れた予告映像に轟洋介が姿をあらわしたのである。

 筆者はもう轟洋介が学生結婚していても驚きはしない。
 ここはHiGH&LOWなのだ。

 見える景色はめまぐるしく変わる。その速度についていける人間だけが楽しめる世界だ。
 学生結婚で終わるなんてヌルい展開ではないかもしれない。
 轟洋介は誰よりも早く家のローンを組み、誰よりもはやく子持ちになっているかもしれない。それはない(笑)といったい誰が言い切れるであろうか?轟洋介はやるといったらやる男だ。「やるしかねえだろ」、その気概でローンくらい組む。だれよりも組む。手取りの45%をローン返済に回すかもしれない。誰にも想像できないほど世間知らずであり、かつ、大胆な男だからだ。
 眼帯、それくらいがなんだろうか?
 眼帯をとったら目が琥珀色(薄いブルーのこと)になっている可能性まで筆者は覚悟しなければいけない。眼帯の下に眼球がまだあえれば僥倖である。

  変化を受け入れろ。
 そしてHiGH&LOWと歩いていきたいのであれば、轟洋介の終わりを見届けるべきなのだろう。変わらないことはありえない。
 琥珀さんの凍った時が拳で動き出したように、筆者の時もDTCという思想色の強い映画で動き出したのだ。過去に留まることはできない。何が起こるかはわからないが、轟洋介は、すなわち素晴らしいものは形を変えて受け継がれていくはずだ。継承もHiGH&LOWのテーマの一つである。

 時は2019年にもなっていた。『HiGH&LOW THE WORST』公開数ヶ月前の出来事である。

 ⑤へ

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