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轟洋介のオタク、HiGH&LOWへの感謝を大いに語る③

 

 ①オタク、オタクがむき出しになる。

 卑怯な手段をとることさえ厭わずに自分のための喧嘩をする男、それでいて村山良樹に負けた轟洋介が好きだ。

 筆者はオタクとして、HiGH&LOWとの関わり方を大きく変えはじめていた。ついに最後の変貌を遂げようとしていたのである。それはこれまでの、自分は傷つかずに好き勝手言う批評家ヅラの立場とはまるで違う。もはや批評どころではない。迸る身勝手な感情に身を任せ、ご覧の通り『轟洋介の限界オタク』になったのである。


 ②HiGH&LOWと筆者、ついに口論をはじめる。

 悪役に惚れ込むということは、ほとんどの場合、固唾を呑んでその退場を見送るか、あるいは悪役ではなくなることを受け入れるいずれかを選ぶことになる。
 轟洋介特有の問題として今更言うまでもない手垢のついたトピックであり、べジータのファンも、飛影のファンも同じ問題に直面してきたはずだ。
 筆者が『ブルマを愛してるべジータ、イイですね』なんて気軽に言えるのはベジータのファンではないからで、古参であればあるほどその変わりように動揺しただろう。
 結局はどの時期にそのキャラクターを知ったのか、そしてどれほど思い入れたかの問題なのだ。
 たとえばもし琥珀さんが家庭に入り、妻を愛し、穏やかな性格に成長を遂げたとしたらやはり筆者は寂しく感じるはずだ。

 そもそも筆者が懸念するあらゆる問題は、すべて目新しいものではない。
 だが、あの夏の夜、友人宅で朝まで見た、気がつけば朝になっていたHiGH&LOWとの時間がお互いの関係を嘘がつけないものにしていた。いつもなら見過ごせることであっても、相手がHiGH&LOWではそうはならない。
 オタクとHiGH&LOW、これは本来、水と油であると思われていたほどである。お互いにリアルをさらしあえば、おのずと視聴は拳を握りしめながらの対話になっていく。ここにいたって、筆者はHiGH&LOWと対立しはじめたのだ。様々な価値観の違いが浮き彫りになっていく時期であった。

 確かにHiGH&LOWは思っていたような人物ではなかった。筆者の想像の100億倍くらいすごいやつだよお前は。その上オタクににまで異様に親切とくる!ご立派!
  だが世の中は常に、真顔で『Love, Dream, Happiness』などという人物にこそめちゃくちゃにされてきたはずだ。これを冗談で言っているならいい。だがHiGH&LOWは本気で言っている。せめて『Love, Dream, Money』といってくれたならわかりあえるものを。
 そういうHiGH&LOWの世界の中で語られる『暴力をふるわざるをえない正しい理由が必要だ』というテーマは、脚本上の要請ではない。いわば宗教上の問題であるはずだ。
 そして筆者の側の問題もまた、オタクとしての宗教上の問題である。オタクは、自分の好きなキャラのことばっか考えるし、最強厨だし、作品世界の中で特別贔屓されてほしいと考えているし、でもそのことで作品世界がめちゃくちゃにならないでほしいと思っている。なんとかこの全てを解決できないか?
 本題に戻ろう。
 ヒールとして登場した時点での轟洋介はそれほど『悪』であろうか? むしろ、だからこそ生まれえた端正なファイトスタイルは誰よりも魅力的ではないか? 
 誰しもがこの世界では『仲間』『絆』地獄の一員に加わり、そのために殴りあわないと駄目なのか?HiGH&LOW文脈が理解できず、拳で心を通じ合わせられない人間でのままでは駄目なのか?
 これが『轟洋介の限界オタク』である筆者の考えである。

 その件をより具体的に考えるためにはHiGH&LOWの持つ倫理観をより深く知ることが必要だ。HiGH&LOWにありのままの轟洋介を認めてもらわねばならないのだから。

③HiGH&LOWとの夜

 HiGH&LOWの倫理観。
 大雑把に言っても、これはかなり難しい問題である。

 HiGH&LOW自体もおそらくそれを自覚している。場当たり的であり、ダブルスタンダードである。
 たとえばナオミに『復讐の連鎖を断ち切れ』と言わせたとて、結局HiGH&LOWはナオミの意見を採ることはない。なぜならアクション映画だから。喧嘩が終わることはない。
 したがって形ばかりの悩みを繰り返し、最後には殴りあう。「退けなければならない巨悪」を常に求めるHiGH&LOW。ヒーローものの運命である。
 だがHiGH&LOWの文脈において拳は巨悪を退けるためだけのものではない。拳と拳のコミュニケーション、言葉は不要、尊敬すべき相手と殴って対話、信愛を深める! 道を踏み外した仲間は殴って正す!こういった暴力も存在している。愛も戦いも憎しみも苦しみもなにもかもすべては暴力。
 暴力とはなにか?
 暴力をしたことがない筆者にはわからない。わからないが、HiGH&LOWの暴力への愛憎はわかる。引き裂かれたコブラは自らの姿を映る鏡を拳で叩き割る。
 宮崎駿が抱く「兵器は大好きだが戦争は大嫌い」問題に等しい。本当は戦争のほうで抜いているのではないか?などと疑えば駿は筆者に向けてお気に入りの7.92mmシュパンダウ機銃を向けるであろう。間違いない。HiGH&LOWにとってもここは急所だ。
 そして、これもまたありふれた問題だ。暴力を娯楽にしている人間全員にとっては長く親しんだトピックであろう。
 『キングスマン』ではコリン・ファースを洗脳までするお膳立てをして虐殺ファイトを楽しませてくれた。『ジョン・ウィック』も尊い犬を殺す配慮を見せた。最近は『アナと世界の終わり』では相手がゾンビなら殺すのが楽しくて楽しくてしょうがない!という周知の事実を隠さなくて誰にも怒られないという発見をミュージカルで教えてくれた。
 逆にいえば、それらの作品ではさすがにわけもなく人は殺せないよねという倫理観(あるいは性癖)がはっきりしている。

 しかしHiGH&LOWでは人は殺さない。殴るだけだ。(※1)
 だからこそより善悪の判断基準が非常にあやふやなままで終わることができる。属人的にも見える。
 しかし細かなルールは無数に存在する。
 「武器を使ったら巨悪」「女を不幸にしたら巨悪」「銃を手にしたら巨悪」「ドラッグを使ったら巨悪」とHiGH&LOWは体験に基づいたリアルな「踏み越えてはいけない一線」を提示してきた。しかし、逆にいえばこれらの一線に抵触しなければかなりのことが許され得る。
 そして、これらのルールは大抵は自分たちの仲間を許すために使われているように見える。
 筆者にはもとより一つの懸念があった。
 HiGH&LOWは同じことをしても琥珀さんなら許し、『仲間』ではない誰かなら断罪するのではないか? 
 そういう仮定は無限に渦巻く。起こした抗争の規模を考えた上で、ノボル(銃さえ使った)を、チハル(ドラッグを作りさえした)を、そして琥珀さん(最大規模の抗争を起こした)をどうして許せるのか? その行いの「動機」を知っているからこそ全てを受け入れられたのだろうが、たとえばスクラッパーズに動機を聞こうとしたことはあるのか?『どうしちまったんだよ?』と相手が仲間でなくても聞けるのか? スクラッパーズだってMUGENの下っ端に妹をレイプされたとか、もしかしたら事情があるかもしれないんじゃないのか?
 ドラマのすべては内向きで、俺と俺の仲間だけで物事が進む。筆者が思うには、HiGH&LOWは多分「よく知ってるヤツ」が好きだ。好きなやつと正しいやつの違いも大してつけていない。HiGH&LOWは言う。『あいつ、ほんとはいいヤツなんだ…今回に限ってなんで…』
 幼馴染が好きなのも同じ理由だ。「どれくらい相手を知っているか」が「その人物がどれくらい正しいか」と密接するこの世界では、長い年月をともに過ごして相手に与えられるアドバンテージはとてつもなく大きい。
 もしかしてHiGH&LOWは、外から来た人間なんて本当はいらないんじゃないのか?
 そもそもである。「拳が強いだけじゃ駄目」というメッセージまでをも強い拳で伝えるか?普通に考えて?昨日今日あったヤツに?これはもはやギャグではないか?

 愛も憎しみもすべてを暴力で解決するくせして!! 『拳が強いだけじゃ駄目』! きれいごとを言うなよ!

 
 だがHiGH&LOWは「ガチ」、「きれいごと」は言わない。なおさらこっちも「ガチ」で挑まなければいけない。これは対話なのだ。HiGH&LOWはいつもマジ。こっちもマジで、頭ではなくハートで受け止めなければならない。

 ハートで!!!!!!
 オタクにハートはない!!!!!

 HiGH&LOWと筆者は轟洋介を交えて、毎夜話し合った。
 仲間、絆、倫理観…正義…暴力、愛、夢、プライド、アタマ……。拳は大事なもん守るために使え…。だったらお前は助からない…。
 語らうことはいくらでもあった。オタクにとってハマる、というのは「全て」になることである。HiGH&LOWには「全て」があった。
 時に難題や許しがたい事実にぶち当たり「自分はこんな重箱の隅ばかりつついてまでなぜHiGH&LOWを見るのだ? いっそ格闘技漫画か何かを読んでいたらいいではないか」と自らを省みることもあった。
 この世にHiGH&LOWしか娯楽がないわけではない。スポーツみたいな純な喧嘩がみたいならスポーツの漫画を、たとえば「はじめの一歩」(初期)を読んでおればよい。轟が好きなら別に「ホーリーランド」だっていい。どんな不良漫画であってもHiGH&LOWほど筆者を感情的にさせはしないだろう。
 だが!筆者がHiGH&LOWにこだわるのは、今の会社を辞めたら次に雇ってくれるところがないから辞めないのとはわけが違う。
 オタクとしての筆者はどこにでもいけるのだ。今すぐメギド72のところにだって行ける。それなのにHiGH&LOWのもとにいるのだ。つまり、つまり、言わせるなよ…

 HiGH&LOW…
 お前を「好き」ってことだよ!!!!!!!!

 筆者はHiGH&LOWに毎夜そう囁いた。
 筆者の友人たちもそうであった。誰もがみなそうであった。2016年。誰もが毎夜HiGH&LOWと寝ていた時代である。


④夢中! …そして脳、完全溶け始める。

 またたく間に2016年はすぎた。
 続く2017年も一瞬であった。
 友人ともども時の感覚を消失していた。
 毎日鬼邪高校全日制のことを考えていた。轟洋介のことを考えていた。感情のすべてがHiGH&LOWに基づいていた。
 基本的には繰り返し視聴する。HiGH&LOWの空気を絶えず吸うこと、まずはこれが大切であった。皆そうしていた。あのころのひと時、間違いなく我々はSWORD地区に存在していた。

 全くの余談だが、『燃えよ!価値あるものに』という言葉を掲げる学校がある。電車の窓から見るたびにえらく感心していたのだが(調べたら『文化学院大学杉並中学』だった)、この『価値あるもの』とはHiGH&LOWのことかもしれない。筆者の魂は燃え、人生が燃え、金が、仕事が、時間が燃え尽き灰になっていったが何の後悔もなかった。
 こんなに清々しい時間はなかった。
 人生で一番何かに打ち込んだ時間だったかもしれない。喜怒哀楽の全てがあった。

 筆者は時々、轟洋介が撮っていた写真のことを考える。

 ぶちのめした『形ばかりの不良』たち。写真を撮る、ということは当然ながら「後に見返す」ということだ。轟は、いつ、どんな気持ちでそれを見返すのだろうか。スマホのカメラロールはその写真でいっぱいに違いない。
 復讐の記録であり、強くなった自分を証してくれるコレクションであるはずだ。弱かったころとは違い、もう何かを強要されることはない。
 村山に負けて悔しかっただろう。
 轟の立場から考えてみれば、意味のある負けなどないに等しい。勝たなければ何事も意味はない。実力を見せ付ける勝利という実績以外に居場所はないからだ。轟にITOKANはない。
 たとえば当日轟に付き従った全日生たちはその後どうなったのだろう? 傍に控えていた辻と芝マンは轟に手を差し伸べたが、それほど距離が近くない全日の生徒たちから見れば「武器まで用いて定時にカチこみ、自信満々だったのに結局負けた転校生」である。その後も付いてけるか?
 負けるかもしれない挑戦だったからこそ意味があると誰が理解を示してくれるだろうか?

 写真は夜寝る前に見返すのではないか?

 自分が自分を強いと信じられなければ、いったいどうやって翌日から強者犇くHiGH&LOWの世界を生き抜いていけるというのだ。

 答えを求めひたすらHiGH&LOWを見た。時々、HiGH&LOWの脚本は杜撰、そこまで考えていない、などと言われもしたが、それは違う。HiGH&LOWを舐めているというものだ。識者が話し合って作った作品とは違う。ピクサーが作っているわけではない。HiGH&LOWはマジ。脳直というのはそういうことだ。

 正解は絶対にある。

 それがオタクが理解できる言語に落とし込まれていないだけなのだ。
 そしてそれは優劣の問題ではなく文法の問題である。


⑤ハート

 しばらく、轟洋介の露出はなかった。
 
 だが、筆者は変わらずの妄想に忙しかった。
 もちろん、続く『HiGH&LOW THE MOVIE 2 / END OF SKY』『HiGH&LOW THE MOVIE 3 / FINAL MISSION』の2本の新作映画に登場しないことに対する寂しさはあった。
 だが、轟が再登場したとして、本人がかつて目指した『SWORDのテッペンを取れる可能性』があるだろうか? 琥珀・九十九と雨宮兄弟が手を組み、ついに日本刀まで抜かれはじめたこの世界で…。
 そればかりではない。魅力的な強キャラが続々追加されもしたのだ。たとえば轟はジェシーに勝てるだろうか? 蘭丸には?ブラウンには?

  そこで筆者は、HiGH&LOWの持つ思想ついて考える傍らで、僭越ながら轟洋介にSWORDのテッペンをとらせることも検討していた。
 つまり、「このような道筋であれば取れるのではないか」という架空の道を模索したのである。
 現実的に考えれば、コブラに負けた村山に負けた男に、テッペンはあまりにも遠すぎる。だが道はどこかにあるはずだ。轟洋介はあんなにも強く、あんなにも努力家であり、立派な人物なのだから。
 筆者がまず最初に目をつけたのは、「格闘技」である。
 HiGH&LOWの世界には『鎖はSSSランク武器』『すのこはCランク武器』といった強さヒエラルキーがあるのだが、人間が持つスキルでもっとも強力なのはまず間違いなく「格闘技」である。
 雨宮兄弟の強さの秘密は龍也さんから「格闘技をやってたんだって…」と語られる。太田と古西の強さも格闘技由来だ。
 すなわち、格闘技履修者は100%伝説級の実力の持ち主、轟洋介も格闘技をやっていればSWORDのテッペンをとれる可能性がある。我々がまだ知らないだけで、轟が格闘技を習っていたことにならないか? 
  可能性はある。
 その余地があるキャラクターだ。そう思いながら過去シーンを確認する。アクションシーンのキレのある仕上がりは喧嘩ファイトとは違う。これを格闘技由来として理解することは無理はない。だが、過去回想シーンは「独り」で強くなったという文脈に見え、違和感は残る。
 筆者は熟考した。
 実のところ、筆者のハートは「違う」と告げていた。筆者には轟の喧嘩は浮世離れしたものに見えていた。ICEの「こんなやつ六本木のクラブとかでイワせてそ~!」というリアルな迫力とは全く違う。もう少しショーアップされ、およそ実戦的ではない……。
 おそらく格闘ゲームを見本とした独学の喧嘩ではないか?
 不良どもを蹴散らすシーンの轟の小キック連打はハメ技で勝利するシーンそのものだ。対村山戦も、お互いが挑発モーション、鬼邪高モブは腕を上下に上げる動きを繰り返す背景、ロッカーはドラム缶よろしく触れる背景で、勝負が決まれば紙ふぶき、YOSHIKI MURAYAMA IS WINNER!!!!……なにもかも、格闘ゲームがベースであると考えるほうがしっくり来る。
 だが、これは完全に筆者の精神世界の問題である。筆者さえ「いや、ちがう、格闘技をやっていた可能性がある」と思えば「ある」ことになる。だがそれでいいのか?
  それだけで轟は(筆者の精神世界では)SWORDのテッペンを取りえる可能性があることになるのだ……だが…。

 HiGH&LOWの前でそんなことができるのか? 
 いったい誰がHiGH&LOWの前で嘘をつけるだろう。

 筆者もまた僅かながらハートを持っていたのか……。それともHiGH&LOWに与えられたのか? この自覚は驚きであった。

 気持ちを切り替えていこう。考えることはいくらでもある。可能性が「格闘技」だけのはずはない。筆者が次に目をつけたのは、若さである。
 驚くべき事実なのだが、HiGH&LOWの世界で「辻・轟・芝マン」は圧倒的に年齢が若い。あまりにも貫禄があるのだが、ショタ枠である。したがって、誰よりも伸び代がある、とするのはまったく問題なく、この考えにはHiGH&LOW倫理に抵触しない。むしろニッコリするであろう。

 だがいったいそもそも何歳なのだ?

 後日、当時の轟は高校1年生だったとわかったのだが、当時はまったく手がかりがなかった。これだけ推してる人間の年齢もわからないとは!
 しかし、HiGH&LOWのメインキャラクターに関しては、本名・年齢などが不確定ながらに雑誌に記載されたこともある。もしかしたら轟に関しても、まだ見ぬ作品外のどこかに手がかりが残っている可能性がある。筆者の得意なインターネットの出番がきたのだ。
 しかしそこで筆者を待ち受けていたのは、非常に不思議な光景だった。

 読者諸兄姉は、村山がアメリカンドッグを食べているファンアートを見たことはないだろうか?

 筆者はある。今現在は数は多くはないのであろうが、当時はしばしば見かけるものであった。
 だが、それがなぜかまったくわからないのだ。
 ファンの間での流行なのか、あるいは役者さんのインタビューや雑誌のちょっとした記事などで明かされた情報か? 普通にHiGH&LOWを見ている限りは出てこない情報で、そもそもHiGH&LOWには山王以外の食事のシーンがほとんどない。
 そこで思い切ってたずねてみたところ、親切なファンの方にとても丁寧に教えていただいたのだが、これは『HiGH&LOW THE BASE2016』のコラボメニューで明かされた情報だというではないか!
このイベントの公式サイトは現在も存在する。https://high-low.jp/thebase/

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 毎日!
 食べている!実はケチャップが大好き!

 毎日である。コブラとタイマンした日も、雨宮雅貴とすれ違った日も、轟洋介とタイマンした日も、村山はアメリカンドッグを食べていたのだ。

 HiGH&LOWに『HiGH&LOW 10.5巻』はない。『ファミ通の大丈夫だよ!HiGH&LOW』もない。自らの足を使って追いかけない限り、キャラクターの情報を得ることもままならないのだ。
 
 ここにおいて、筆者は、HiGH&LOWには無数のキャラクターグッズが存在することや、イベントでふいに明かされる情報が多々あることを知ったのである。年齢や血液型といったいわゆる「プロフィール」は出てこないのだが、中には轟洋介がどうやって女を口説くか?といったものさえあった。
 その中で、一つ戦慄したことがある。
 このグッズを見たことがあるだろうか?

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 筆者はこのイラストこそが、HiGH&LOWとオタクの違い、民族の文化の違いを端的に語っているように思う。
 HiGH&LOWは「この絵を見て本人を思い出すように」線を整理している。
 絵そのものが鑑賞対象ではない。
 この記号の向こう側にいる轟洋介(演:前田公輝)が脳裏に思い出されるように、気を配っている非常にレベルの高いイラストだ。本人の容姿を尊重するからといって、本人そのものを写実的に描く必要もないのだろう。なぜなら本人そっくりであっても「絵は絵だから」である。それはあくまで思い出をふりかえるためのきっかけであり、絵そのものは消費されない。
 だがオタクは絵そのものを鑑賞する。絵をそのまま食う。言うまでもないことだが、オタクの中では絵そのものが生きている。
 このイラストを用いたグッズを筆者と友人が買いあさったのは言うまでもない。それは外国人商人が浮世絵を買い付ける姿にも似ていただろう。    HiGH&LOWが作品外においても、オタクとはまったく異なる文法で動いていることを知った瞬間であった。
 
大変なことになった…。
 ここはツイッターをチェックしアニメイトに向かえばいいという住み慣れた世界とはまるで違う。あらためてそれを実感したのである。
 『情報を得る』という場外乱闘もまた、盛り上がったことは間違いない。筆者と友人は情報を求めてHiGH&LOWランドに住まんばかりであった。
 

 苦心の末、轟は17~18歳ではないかということに当時は落ち着いた。
 これは、作品知識の深いファンの方が「転校してきた轟洋介を案内する先生が持っている日誌の表紙に”第3学年”と記載されている」ことを発見したからである。
 とすると轟は再登場の予定がない可能性も高い。
 轟の持つドラマは『THE MOVIE』のエンドロールをもって完結しており「あいつなら卒業したよ」というあっけない処理でフェードアウトが可能なのが学生という設定だ。
 だが卒業していないとしたら…
 筆者の考えは迷走していた。どうやったらテッペンとれるか?という架空の道を考えていたはずなのだが、筆者にハートがある限り、結局これは『今後轟洋介が本編でどう描かれてほしいのか?』という問題と大差はない。
 もちろんSWORDのテッペンをとってほしいし、HiGH&LOWの文脈を知らない、『仲間』『絆』などと言わない轟のままでいてほしい。自分より弱いやつらが勝ちをあげるのを見て、馬鹿にしたようにパチパチパチパチ言っていてほしい。辻と芝マンを後ろに連れて偉そうに鬼邪高校を闊歩してほしい。
 しかし夢想ではなく、現実的にそれを考えるのなら難しいといわざるをえないではないか。さすがにそれをわからない筆者ではない。

 次にはついに、『現実』の話をしなければならない。
 轟洋介がテッペンをとることが、それどころか大活躍することがいかにありえないかと考えていたかを、わざわざ書いてみようと思う。かえって今こそ文章にするべきだと思うからだ。

 <④へ続く>
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 ※1 殺す人もいる。例えば『RED RAIN』での雨宮尊龍。