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轟洋介のオタク、HiGH&LOWへの感謝を大いに語る⑥【完結】


 ①フェイク野郎(筆者)HiGH&LOWを語る。

 『HiGH&LOW THE WORST』についての感想より先に、なぜこの文章を書こうと思ったのか?を書こうと思う。
 筆者はオタクとして何かを外に発言することはほとんどない。ツイッターもしない。わかりみは浅く尊くもない。それでも何かをしなければと思うだけの映画だった。

 映画は、筆者が勝手に考えていた「大人の都合」「かませ犬」「ご卒業」などはまるで感じさせない。それどころか「轟洋介のオタク」への配慮に随所に満ちていた。
 ドラマも含め、見たものが信じられない思いであった。なぜこんなことがありえるんだ。あまりにも手厚い。描写が細かく、そして丁寧だ。
 怪訝がる筆者に、さまざまな関係者のコメントにてはっきり答えが返された。
「轟洋介は人気があった」「SNSで活躍を望む声がたえなかった」「ラブコールが轟いた」といった言葉で、端的に「ファンの声援を受け、ファンの為にそうしてくれた」ことが示されている。
 筆者はオタクが長いのだが、正直に言って、こんなにまでファンとして報いられたことはない。
 人気投票で1位だったからカラーイラストが手に入る、とかではない。本当の意味での「報い」である。
 筆者は轟洋介のオタクなのでこの件に関して絶対にSNSで感謝を述べなければいけない。HiGH&LOWは「声」を聞いているし、「ファンの声」はおそらくSNSのことだからである。ならSNSに感謝を書く。それが今回の記事を書こうと思った発端である。
 筆者はこれまで、「声」はあげていた。だがそれはオフラインの、リアルの「声」であり、主に自室で、しかも一人で上げていた。
 これは大きな間違いだった。
 そうして今これを書いている。
 
 書くにあたって考えたこもある。
 考えてみれば、伝わらないとか伝わるとか言う前に、筆者自身がHiGH&LOWのことを"リアルに"他者に伝えようとしてこなかった。
 たとえば「ハイロー好きらしいけどどこがいいの?」と聞かれても、「脚本が意味不明だけど正直なのでそこが芳醇、憎らしいけどマジな”体験”」「轟洋介を殴っても変わらぬクズ(作品内で)なところが感動した、拳が強いだけでいい!絶対そのまま行け!と応援してます、推してます!」と応えたらまったく意味が伝わらないであろう。
 だが、HiGH&LOW、あんたイカれてるよ。でもそこが最高にいいんだ、といったい誰にどう伝えられるというのか?
 だから「お金をかけてしっかり撮られたアクションシーンがすごくかっこいいですよ!美術とかもすごいので、キャラクターのビジュアルがすごいですしみんなイケメンですよ!顔がいい!」「まずは絶対、RUDE BOYSのPVをyoutube見てください!」「ストーリなんか気にしなくていいですよ(笑)」といった上っ面の言葉で応じていた。自分にとってのHiGH&LOWはそんなものではなかったはずだ。自分はストーリーのことばかり考えていた癖して、フェイク野郎そのものである。
 あるいはもっと気心の知れたオタク同士の間では「ハイローはドラッグ」「ハイローは救済」といった定型文に終始し、筆者とHiGH&LOWの間におこった様々な出来事を伝えようと考えたことさえもなかった。
 筆者はHiGH&LOWとの間柄の中に、他人を入れようと思ったことはない。
 オタクにはそれぞれファイトスタイルがあると思うだが、現場主義の方、文章が上手い方、絵が上手い方、面白ツイッタラー、考察される方、名プレゼンター、そういうパワーある人々とは筆者は違う。筆者はがぜん「物思いに耽る」ことに軸足を置くタイプである。稀に例外はあるが、基本的には絶対に一人で考えている。一人が一番。
 世界にはHiGH&LOWと筆者だけがあればいい。
 そういう頑なで閉ざされた筆者の態度に比べ、HiGH&LOWのなんと大らかで柔軟ことだろうか。
 HiGH&LOWはいつも人々の声に耳を傾けている。
 
 いざ書き始めると、筆者にとって最も骨が折れたのは「正直に」書くということである。これまでのフェイク野郎としての時間が筆者を幾度となく惑わせる。
 実際のところ大げさな誉め言葉、なにからなにまでの全肯定、多幸感とネットミームに溢れたテキストにしないということは根性が必要だった。そのほうが読みやすく、わかりやすく、HiGH&LOWのためにもなり、共感を得ることもあるかもしれない。そもそももうちょっと短くまとめられないのか?
 だが、HiGH&LOWに対してフェイクは無し、と決めたとき、現実として筆者とHiGH&LOWの関係は愛憎あざなえる縄のごとしであり、どちらか一方だけを抽出すればそれは全く違う種類の感情になることに改めて気付かされた。だが全く違う感情なら容易に書けたりもする。思ってもみないことを書かない、というのは大変なことなんだな。やってみなければわからないことが多い。
 作品とそれを鑑賞するものの間では、関係性は一対一であるはずだ。
 だから、これを書いたらどう思われるだろうか?先回って謝罪か自虐をしておくべきか?なども考えるべきではない。それは自分を守るかわりに結局は体験を損なう。これは『#PR』でもなく感動の共感のための文章でもないとたびたび書いたのは自戒でもある。筆者のような力無きものは、であればこそ筆者個人の経験を、筆者が価値を感じるものの"リアル"を書くべきである。もしこの文章に価値があるとすれば、その1点だけにかかっている。文章の技巧は問題ではない。
 それこそがHiGH&LOWが教えてくれたことだ。


 筆者のような声をあげない/あげる力を持たないファンは実は多数派でもある。
 多数派であっても発言しないからまったく外側からは観測しえない存在だ。だが観測しえないからといって何も考えていないわけではない何も感じていないわけではない。「オタク」こんなことを考えていたのか、とHiGH&LOWが思えるものになればよいと思う。筆者がHiGH&LOWにそう思ったように。
 筆者は、HiGH&LOWに対して、極貧ながらに自分のできる範囲で、課金はしてきたつもりだ。ブルーレイやグッズを記事のヘッダに使ったのはその意図である。だが、鍵のかかっていないツイッターで「轟洋介くんかっこよかった!」と呟いたことはない。おそらく「轟洋介」と言ったことさえない。課金だけがコンテンツを良く生かす唯一の血液だと考えていた。だがそれは間違いだった。
 筆者は常に間違っており、HiGH&LOWは正しい。

 また、まずは轟洋介のファンの方々には感謝しかない。筆者は初期深夜ドラマ時代からの古参でもなければ熱心に発信するタイプでもない。声を出していったファンの方の熱意があってこそかなった『轟洋介の』映画だったのだのだと感じた。
 ファンの方々、すべての関係者の皆様、本当にありがとうございます。前田公輝さんありがとうございます。


 ②『HiGH&LOW THE WORST』

 最後に、映画の感想を書く。
 世代交代の話でもある。

 ドラマでは、HiGH&LOW文脈に回収されていない轟が細やかに描かれているが、映画も丁寧だ。
 エンディング、楓士雄と轟の間の絆だけが描かれたのではない。デコピンの後に楓士雄に肩を貸す轟。明確にシーズン2のエピソード8、前述の村山VS轟戦直後が思い起こされる作りだ。
 あの時の轟は、村山に負けても、仲間たちに肩を貸されることを良しとしなかった。
 「仲間」も「絆」もよくわからなかったのだろう。だが、いまはそれをわかってしまった。それを轟が「誰かの肩を貸してもらうことを受け入れる」ではなく、「自然と肩を貸したくなる男に出会った」ことで見せてくれた。爽快な展開だ。

 なぜ楓士雄とはそれほどまでにうまくいったのか。

 筆者は何度か映画館に足を運び、何度目かにようやく理解した。
 端的にいって、この二人は喧嘩をしていないから。それが理由である。
 代わりに楓士雄と轟は会話をしている。

 『目が治ったらアタマをかけて喧嘩しよう』と言う楓士雄、自分のもとへ病院までやって来た楓士雄、素直に助力を求める楓士雄、楓士雄の行動には誤解の余地がなくHiGH&LOWの世界の住人ではない轟にも理解できた。筆者にも容易に理解ができた。
 轟洋介 VS HiGH&LOWの絶対にわかりあえない世界に新しい風が吹いたのである。
 エポックメイキングな出来事である。
 楓士雄は「大切なことを拳で伝える」というタイプではない

 轟側の反応も念には念の入れようだ。身体的・文脈的なコミュニケーションはすべて失敗する。何を考えているか理解されず、村山に触れられればびっくりし、缶に石を投げるゲームに興じる楓士雄の横から缶を一撃で倒す。絶対に空気は読まない。多分読めない。
 これまでHiGH&LOWが何度も何度も伝えてきた拳・心のコミュニケーションは轟には無縁であることがこれまでのおさらいとして再度説明されている。
 しかし楓士雄はこれまでのHiGH&LOWには囚われない男だ。
 そういう男が主人公をつとめている。
 その一方で、新作のすべてがこれまでのHiGH&LOWらしさを捨てたわけではもちろんない。 
 例えば司は、主にドラマ版において正統派のHiGH&LOW文法にのっとって物語を進めていく。誰にも考えを打ち明けることなく悶々とドラマ複数回に跨って悩み続ける。幼馴染である楓士雄との『無限』を求めて空虚を生き、学生生活の大半を屋上で過ごすほど立派なHiGH&LOWだ。ついには楓士雄と最も大切な話をするためにに拳を用いる。タイマンが終われば「お前も強いな」「お前もな」。これで物事は解決だ。これを完全なるHiGH&LOW仕草といわずしてなんと言おう。
 司はあきらかに琥珀の、コブラの血統である。だから轟ともうまくいかない。はっきり「あいつの下にはつけねえ」と断じるのが司であることは爽快である。HiGH&LOWの正当後継者である司には認められない価値観だ。
 しかし楓士雄はそうではない。
 助けてほしければ助けてほしいとはっきり伝える。それを受ける轟も轟だ。「ドロッキー」とよばれても怒らないし、助力を求められれば受け入れる。周囲との齟齬が何に起因していたかがはっきり見えていく。普通に話しかけられれば、普通に応えるのだ…。
 村山とのタイマンによって塞がれていた片目は、あけっぴろげなな楓士雄の素直さによって開眼する。すべてが明快にひらけていく。
 それは楓士雄に村山以上にカリスマ性があるとか、轟を理解できているとか、轟が楓士雄の漢っぷりに惚れこんだとか、そういうこととはまるで違った次元の話として展開される。


 HiGH&LOWに『言葉』が到来したのである。


 初めに、拳があった。言葉は後からやってきた。

 時は令和である。HiGH&LOWに『言葉』も到来する。
 新しい時代が来たのだ。
 『会話』がはじまったのである。

 
 HiGH&LOW、お前、こういうのもできたのか…!?と驚いてしまうが、そんなはずはない。HiGH&LOWは変わらず「やっぱり大切なことは拳で…」と折に触れて提案してくる。しかし、楓士雄はHiGH&LOWの住人でない。だから意に介さない。
 楓士雄は『クローズ』の、高橋ヒロシ先生の世界の住人なのだ。

 これは茶化して言っているのではない。
 ここが今作の成功の芯なのだと思う。

 HiGH&LOWの世界に『クローズ』がやってきた。
 そのことで新しい目線・価値観が加わり、本当の意味で「世界」がひろがっている。
 そしてHiGH&LOWの世界で浮いていた轟は結局クローズの世界で回収された。なんだそれ。そんな展開がファンに予想できるであろうか。
 定時と全日もしらない、『キドラ!? なんだそれ!?』なSWORDをまるで知らない轟が、異様に『クローズ』の世界に詳しいのも象徴的である。誰よりも鳳仙や鈴蘭について詳しく、説明役まで買ってでる轟。
 もしかしたら轟はもともと『クローズ』の世界の人間だったのかもしれない。あるいは本当に轟は現実世界から俺TUEEEEE異世界トリップしてHiGH&LOWの世界にあらわれたのかも。我々視聴者も『クローズ』のことはよく知っているが、SWORD地区のことはよく知らない。轟と同じだ。
 そもそも『クローズ』の世界のほうがずっと現実的であることは間違いない。なにしろお墓が我々の知る墓なのだ。もしあそこがSWORD地区だったらサダ婆の墓だって『SADA 1945-2019』でなければならない。その上『クローズ』の世界にはどうやら偏差値の概念もあるようだし、家庭環境が悪くとも本人がまともでさえあれば未来が暗いばかりではない。円は名門女子高校に進んだ。誠司が特別なわけではないのだ。
 轟がクローズの世界に居つくのはわからないが、見事な描かれ方だった。
 筆者は轟が変わるか作品世界が変わるか二つに一つだと思ったのだが、結果として、まさかの「作品世界が」変わった。『DTC -湯けむり純情篇-』と同じだ。しかし広がりの方向は違う。進んだのではなく変わり、変わった結果として、轟は世界と調和している。

 『強さだけではないアタマ』である楓士雄は事実一つとして価値ある勝利をあげない。
 村山にも挑めない。佐智雄には負ける。轟ともやれない。しかし人の心を纏め上げるだけのカリスマ性と「まともな言語力」を持っていて、何より喧嘩が好きだ。強くなりたい。テッペンとりたい。ヤンチャで魅力的な『クローズ』的キャラクターだ。
 轟にとっては、楓士雄は、喧嘩をしないこと/勝たないことで、逆説的に「拳が強いだけではない」アタマを体現しているキャラクターになるだろう。村山の言葉の意味が理解されたかもしれない。そして、理解しようがしまいが、『クローズ』においてはその強さだけで轟に居場所は用意されている。轟洋介はリンダマンなのかもしれない。
 HiGH&LOWの進化は常に予想のはるか上を行く。
 筆者は『轟洋介のオタク』として暴力のことばかりを考えていた。つまり、次はどんな抗争で「何のための暴力」を描くつもりなのだ?と。暴力のための暴力、仲間のための暴力、そんなのいずれも一緒だろ、「拳が強いだけじゃ駄目」ってなんだよ!と難癖をつけようとしていたともいえる。HiGH&LOW、『拳で会話』、お前の考え意味不明だよ!!
 だがそんな筆者にHiGH&LOWは「今回は言葉で語ろうとおもうわ」とアッサリと言ってのけた。
 拳>>>>>>>>>>>言葉、これを言い出したのはお前じゃないかよHiGH&LOW!!!!!!!と筆者は焦ったが、同時に「HiGH&LOWすげえな…」と素直に思ったのだ。

 やっぱりこわいね…。
 HiGH&LOW…!

 本当にHiGH&LOWはすごい。
 本作も相変わらず粗雑でデリカシーがないし、今回も何の理由もなくチャリをパクったり幼馴染こそが最高の関係性で両親が共働きなら団地は荒廃の世界だ。でも前よりもよいものをつくろうと細部まで真剣に考えている。HiGH&LOWは人々の声に耳を傾けるのみならず、友達に素直に悩みを打ち明ける素直さがある。
 今回HiGH&LOWは、自分に足りない部分を『クローズ』という友達に補ってもらうという手段をとって、世界をひろげた。尊敬する友達に言われれば、これまで自分がこだわっていた部分さえも簡単に覆す。
 この事実をもって、HiGH&LOWは「仲間」や「絆」の凄まじさを、表現の次元を上げて伝えてくる。制作方法さえメッセージになる。それもそのはずで、HiGH&LOWのメッセージとは現実をそのように生きろというメッセージである。当然製作者たち自身が実践していることもあるだろう。確かにすごい。価値観の多様さからくる作品の強度がある。単純に優れた脚本でもある。佐智雄のキャラクター描写など模範的で、ある種教科書的だ。
 HiGH&LOWの脚本が教科書的!?
 さすがの筆者も「仲間、絆、いいものですね…」と言わざるを得ないではないか。轟洋介も普通に話しかけてくる、普通に意思疎通ができる楓士雄に対してそう思ったのかもしれない。思わなかったのかもしれない。


 ④轟洋介を好きな轟洋介

 ものすごく良いな、と思ったことがいくつもある。
 会話そのものの内容が非常に洗練されているのだ。
 例えば、楓士雄が目が治った轟に「鳳仙とやるから力をかしてくれ」と頼み込みにいくシーンだ。
 このシーンにおいて轟は「鬼邪高のアタマになりたい男が俺に喧嘩を手伝ってと頼むのか?」と問う。
  凡百の青春映画であれば楓士雄は轟の目を見て「お前も鬼邪高校の仲間だろ?」「鬼邪高が大切だろ?守りてえとおもわねえのか?」といった陳腐なハート問答をはじめてしまうところだ。
 だが楓士雄は言う。
「馬鹿な俺でも皆(仲間)が動揺してるから(相手がすごく強いと)わかる」これは「たしかに本当は轟には頼みたくないが、仲間のために、仲間ではない轟の助力を請う」という意味に他ならない。轟はそういう楓士雄に納得し「足をひっぱるんじゃねえぞ」と快諾する。
 時は鬼邪高校戦国時代。楓士雄は轟に「仲間になってくれ」とは言わない。
 鳳仙戦を終えた後も、轟は「お前強いな」「お前もな」(笑)みたいなシケた話はしない。
 自分以外全員負けてボロボロの中、轟(一人ほぼ無傷)は「もっと強い学校がある。鈴蘭っていうんだけど」というあまりにも空気が読めない話を切り出す。しかし楓士雄はそれを聞き、さらなる強い相手への挑戦に胸を熱くし、いつしかその熱は皆に伝播していく。この人たちは「喧嘩が好き」という若い絆で結ばれており、それを言葉で確認しあえるほどに知的だ。

 そして、キドラのアジト絶望団地に向かうシーンで、轟は誘われてもいないのにやってくる。

 このシーンはあまりにも衝撃的だ。
「今度はお誘いなしか?」という轟が「じゃ~~~ん!みんなの大好きな最強の俺がきましたよ!」という陽のオーラに満ちているからである。

 対して皆は「ああ、来てくれたんだ、心強いな」「団地とは無関係なのにありがてえな」といったムードだ。

 ここにいたり、筆者は轟洋介に一つの決着が付いたことを理解した。

 「お前は強い、だから助けてほしい」と請われて抗争に赴き「事実誰よりも強かった」、そして「喧嘩っていいよね」と語らい、轟はついに「強いだけの自分」を好きになれたんだな。

 轟の人生を思い返してみれば、そもそも「弱かった自分」を憎んで強くなり、弱い自分を貶めてきた人間たちを暴力でねじ伏せてきた。
 だがその「強い自分」を今度は「拳が強いだけじゃ駄目」という言葉が刺す。だがHiGH&LOWとコミュニケーションが取れない轟は「なにがどう駄目なのかわからない」「何すればいいってこと?」という無限回廊を右往左往していた。
 「拳が強い」ことと「駄目ではない」ことを兼ね備えている村山に「勝つ」ことで村山より自分が優れていることを、周囲に、そして自分に納得させるくらいしかアイデアがない。でもそれは結局強さの問題でしかない。
 結果的に村山から完全に分断された映画開始当初、轟にやることは一つもない。自分のための喧嘩はSWORDにしかないからだ。
 格下ばかりが集う興味の持てない全日でやることもなくすごしていた轟は、もし楓士雄と出会わなければ鬼邪高校を辞めていたかもしれない。そんなからっぽな轟に、自分が恥をかくことも厭わず鳳仙戦への助力を求めてきた楓士雄。結果的に轟は楓士雄の言葉に理解を示し、他人のために喧嘩することになる。
 鳳仙戦の轟はシンプルに俺TUEEEEEEだ。この抗争に轟が積極的にかかわるだけの感情面での理由(たとえば辻や芝マンが襲撃された)などは作られない。
 もし仲間が、たとえば辻が襲われ、それを見て轟が復讐の怒りを自覚するのであれば話は簡単だ。それはシーズン2において村山が轟によって傷つけられた仲間を前に自らの力の使い方について目覚めた話をなぞることになる。だがそうはならない。轟はもう村山の影ではない。轟の物語において力は仲間のために振るわれない。それは轟の欠落を補うことを必要としない(そうなれば全日のアタマは轟以外ありえない!)脚本上の要請でもある。
 結果として鳳仙戦で轟が得たものは轟個人の勝利でしかないのだが、仲間にとっては必要な抗争での活躍だった。鳳仙戦では轟の純粋な強さが、頼もしさが圧倒的なものとして認められる。
 そして、その後のシーンを知って見返せば、それこそが轟の自己肯定に必要だったのだろうとわかる。そこにはある種の「名誉と栄光」があったに違いない。轟から見れば『格下』の世界での轟無双が必要なことだったのだ。轟は強く、そしてもはや自分にとって価値のなかったはずの強さが、村山に勝てない強さ、拳が強いだけの強さであるにもかかわらず、いかに人々を圧倒し、それが求められるのかを体感しただろう。
 そういう風に見えるだけのすがすがしい明るさと自信に満ちた("調子にのった"といってもいいほどの!)「今度はお誘いなしか?」である。

 轟は変わった。

 だがまさかのここにきて「強い俺」で「別に良い」という結論なのか?

 「拳が強いだけでいい」のか?村山が懇切丁寧に教育・お説教してきた意味とは? HiGH&LOWが散々っぱら言ってきた理想とは?
 だがここは『クローズ』の世界でもある。
 そして奇しくもこれは「人のために力を使った結果、自分自身も変わった」という村山の出した「自分が変わらなきゃ駄目」「拳が強えだけじゃ駄目」という言葉へのアンサーになりうるエピソードだ。順序は逆なのだが。
 轟はそういう全てから自由になり、別にアタマとかまあ楓士雄もいるしどうでもいいや、俺は強いし最高だね、という場所におさまっていく。本当だね。最高だね。

 轟洋介、お前本当に『最高の男』になってしまったのか…?

 筆者がこのときに感じた感動は語りつくせない。
 HiGH&LOWに対して反抗的なヤツをそのまま「まあぎりぎりそんなかんじでいいでしょう」とOKするHiGH&LOW&『クローズ』。あまりにも配慮が行き届いていやしないか。これが「ファンの声」を聞いて描いてくれたということであるのなら、あまりにもすごすぎる。こんなに身勝手な思い入れにまで応えてくれるのか。
 HiGH&LOW、これは筆者の夢なのか?
 それとも…それともまさか、轟洋介は『実在』していた…?
 そういう納得がある。
 その後も轟はのびのびと轟らしく喧嘩していた。『仲間』とか『絆』とかしゃらくさいことは言わない。
 HiGH&LOWのアクションシーンではキャラクターの内面があからさまに示される。優しい人間は喧嘩の最中でも優しい。楓士雄や司が仲間を慮る喧嘩をする一方で、轟洋介は敵を圧倒するだけ。
 例えば、佐智雄、楓士雄、清志、仁川、そして司(司にいたっては2回!さすがHiGH&LOW継承者)らは味方をかばうアクションを取る。端的にいってこれがリーダーの資質をもつ男たちだ。轟はそうではない。勝利のためだけに暴力を用いる。ただし強い。圧倒的に。そしてそのことが尊重されている。
 尊重される場所こそが居場所だ。
 それを与えてくれる人々こそが仲間だ。たとえ轟が気がついていなくても。


 ⑤『全員主役』って俺(HiGH&LOW)が言ったら『全員主役』なんだよ。

 筆者はこの映画を完全に「轟洋介が主役の映画」として楽しめてしまった。 
 だからHiGH&LOWには、「全員主役なんて嘘である」と考え、書き、言ったことも正式に謝罪したいと思う。
 HiGH&LOWはスピンオフという大英断のスケールダウンを断行したことで、その上ドラマ版まで作成したことでキャラクターを尺の問題から開放した。登場人物全員にできる限り細やかな配慮をしてくれた。誰しもが主役になれるポテンシャルだ。主役にれるか否かのスタートラインにたてるだけの出番を全員に確保してくれたのは、スケールダウンしたことの大きな成果であり、成功だと思う。
 おそらくHiGH&LOWも今後SWORDの物語を『プリキュアオールスターズ』と位置づけ、スピンオフをTVシリーズと位置づけなおすことで真の意味での『全員主役』を目指すのではないかと予想される。そもそもいきなり『オールスターズ』を作成していたHiGH&LOWが変なのだが、派手好きなHiGH&LOWらしい間違いで、間違っていたからこそファンもついた。
 それだけではない。今作は今後のHiGH&LOWシリーズにおいて、非常に重要な価値観の変換点であり、それは実際に「全員主役」でありえる可能性を示唆したと思う。
 最初から轟洋介はSWORDのテッペンをとるつもりだといっていたし、HiGH&LOWは全員主役だといっていた。それなのに筆者は「無理」の二文字ですべてを決めつけていたのだ。
 
 筆者は、HiGH&LOWが真剣に悩んでいる『世代交代』という言葉を、単純に下が上を突き上げ、若者が老人を追い落とす厳しさに結び付けて理解していた。
 だがそれだけではない。HiGH&LOWにおいては、世界は横にもひろがっていき、それも世代交代なのである。価値観の交流が生まれ、その中でHiGH&LOW自体がより強く・新しく進化していくのである。文法が少しずつ変わっていく。
 文法が変わっていくということもまた「全員主役」に対する一つのアンサーであり、それこそが価値観の多様性を受け入れ得る回答でもある。
 例えば、次回は太鼓協会とコラボするかもしれない。そうすればおのずと主役は達磨一家であり加藤であろう。楽曲のテイストも変わるだろうな。たとえば次回は「嬢王」とコラボするかもしれない。無論White Rascalsの話だ。これまで描かれえなかった価値観が流入してくる可能性はいくらでもある。穢れとして退場を余儀なくされたミホが男を殺戮する戦闘狂になって戻ってくるかもしれない。しかも過去に時間が戻ってもいいのだ。死んだキャラクターが主役になる可能性もある。事実、久保監督はスモーキーの過去を撮りたいといっている。
 死亡キャラも含め、全員主役。
 HiGH&LOWにおいてコラボとは、うわべだけの着せ替えごっこではなく、真に価値観がコラボレーションすることであると映画は見せてくれた。それはすなわち、明日HiGH&LOWを支配する常識が、ルールがまったく別ものに変質し、根本から覆るかもしれないということである。
 といってもちろん筆者はHiGH&LOWを全肯定できない。できるか?『Love,Dream,Happiness』とかいってるヤツを。脳直の金使い放題映画とはつまり現代のピラミッドだ。偉大すぎる王による仕事であり、それを支えたのは支配された奴隷たちの献身だったかもしれない。そもそもその金はどこからきたんだ。使い道はHiGH&LOWでいいのか?異常な世界だ。
 第一、現実と架空をまったく別物であると考えるオタクには、「現実をそのように生きよ」などというメッセージをマジで発するHiGH&LOWのことは、控えめにいっても「ヤバいヤツ」としか思われない。
 だがそうであってもやっぱりすごいのだ。まちがいなくリアルガチであり、それを追いかける筆者もガチでなくてはならない。ガチでおいかけるべき価値のあるシリーズだ。HiGH&LOWには必ず何かがある。
 それがいかに豊かな可能性を持ちえるか、今後もシリーズを追いかける筆者にとっては恐怖であり、もちろん楽しみである。

 そういうさまざまなことがらが轟洋介を通して伝わり、轟洋介のオタクである筆者を圧倒した。
 こと、エンドシーンにはあまりにも様々な事柄が詰まっている。
 音は切られているが、ここで「かつて肩を貸してくれた相手」であった芝マンと、轟は笑顔でしゃべっている。「俺たちが肩を貸したとき、怒って振り払ってたくせによ」「あの轟が」とか言われているのかもしれない。「お前人に肩かすの下手だな~」と言われているのかもしれない。そういう想像ができるほどに、轟洋介に尺を割いてしっかり描写する。楓士雄を通じて世界と意思疎通できている様は眩しい。楓士雄がいることで、仲間がいることで得た「アタマとかまあどうでもいいわ、なぜなら俺は強いから」という自尊心が轟を輝かせている。
 そこには一つの物語を完結させたキャラクターが次のステップに踏み出す前の『無限の可能性』だけがある。
 お前は全日のアタマとかいうところに収まる器じゃないし、当然道具のままいられる人間でもない。楓士雄を担ぐとかねむいこと言わずに辻と芝マンと三人でSWORDのテッペン目指してくれよ…と筆者は願う。何を願ってもいいはずだ。

 『クローズ』の世界からやってきた楓士雄を、「ずっとHiGH&LOWの世界で生きてきたのにHiGH&LOWの世界とは馴染めなかった轟」と、今シリーズからの登板であるとは思えないほど「HiGH&LOW文脈の中で生きている司」が支える。そのバランス感覚が全体を通して透徹されている。
 今作は、HiGH&LOWの価値観が代わり行く中で、HiGH&LOWらしさは決して手放さない、という宣言もされる映画なのだ。
 なんと轟は、村山とは相変わらずこじれっぱなしなのである。本当にすごいねHiGH&LOW。普通和解させてしまうだろ。
 変わるものは変わり、変わらないものは変わらない。
 村山と轟は一度も通じあわない。言いたいことは伝わらず、そのまま終わった。轟から見れば1度目と大きく異なる意味を持つ2度目の対マンは、実質1度目の対マンとなんら変わることがない。轟が笑っている間に村山は卒業した。確かな影響を相互に与え合いながらも進捗のない二人の関係は、だからこそ特別なままで高止まる。これは、いつの日か、改めて3度目のタイマンがHiGH&LOWの世界で見られるかもしれない、という意味でもある。「因縁」が結ばれたということだ。勝ち逃げするなよ村山。

 旧世代は旧世代として進化し立ち去り、新世代が輝かしく生まれていき、その繋ぎ目にたっていた轟洋介はいずれの目撃者にもなっている。「轟洋介のオタク」として筆者は、轟洋介を通して、世界がひろがる瞬間を目撃し、オタクとして報いられた。
 村山はバイクでどこへいくのだろう?轟はこれからどうなるのだろう?楓士雄はすぐ鈴蘭にかちこむのだろうか? このメンツで再度鳳仙とやる日は来るのだろうか?
 いや、違うな。
 次はもしかするとHiGH&LOWのキャラクターの前世を描くロマンチックなファンタジーかもしれない。あるいは未来、2035年あたりを舞台にした芝マン主人公のSFスピンオフかも。アニメになるかもしれない。ジャンプで連載するかも。SWORD地区を舞台にしたオープンワールドゲームなんてどうだろうか?
 あらゆることは起こりえる。
 ここはHiGH&LOWなのだ。

 様々な予感を胸に、また轟洋介がHiGH&LOWの世界で活躍することを、一オタクとして心待ちにしている。きっと今後このように声を出すことはないと思うのだが、筆者はずっとHiGH&LOWを見ている。
 
(終)