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轟洋介のオタク、HiGH&LOWへの感謝を大いに語る⑤


 ①HiGH&LOWの世界の外、そこは荒地の果て。

 そしてついに『HiGH&LOW THE WORST』が、前日譚『HiGH&LOW THE WORST EPISODE 0』を引きつれ、あらわれた。
 筆者は当初、見たものがまったく信じられない思いだった。

 映画は、ドラマは、HiGH&LOWは誰よりも轟洋介の話をしていた。
 轟洋介の話ばっかり、といっても過言ではない。
 そのうえ轟は勝って勝ってかちまくった。
 なんとも言えず『負けない轟洋介』はうれしいのだが、だが今回はそこが主題ではない。
 轟が新世代と旧世代の架け橋にならざるを得ない以上、村山と互角の勝負を繰り広げた轟を貶めてしまえばSWORDへのマウントになる。轟の強さは、そのままSWORD第一世代とそのファンたちへの(いくばくかは政治的な)思いやりであろうとあっさり納得できてしまったからである。もちろん納得できても美味い酒は飲める。
 だが問題はそこではない。

 眼帯の下は琥珀色の瞳になっていることさえ覚悟した筆者の前で、轟洋介はずば抜けてあのころのままの轟洋介だった。
 延々と描かれるのは、2016年の頃のまま、村山から拳を受けたときのまま、辻と芝マンの手を取れなかったときのまま、定時と全日があることも知らぬ日のまま…ヤンキーたちの世界で拳の意味を理解できずに生きている轟だった。
 
今回は前日譚『HiGH&LOW THE WORST EPISODE0』のことを書く。


 ②筆者、ようやくドラマの感想文を書き出す。


 身勝手なオタクは常に期待を上回る不安をもって新作に挑む。
 善良なファンがただ楽しみにするのとはわけが違う。世界が終わるのか?視聴はその覚悟だ。
 轟洋介が敗北することはおそろしい。轟洋介が典型的な「二次元黒髪インテリ眼鏡くん」というテンプレートに回収されていくこともおそろしい。どうやってドラマを去るのか?卒業もおそろしい。
 だが、筆者にとって最もおそろしいことは何か?
 もちろん、轟洋介がHiGH&LOWの文脈に回収され、空気を読める物分りのいいヤンキーになってSWORD地区に馴染んでいることであった。
 身の程を知ってテッペンを狙うことを諦め、地元・仲間・鬼邪悪高校のために拳を振るう男になっていたとしたら、その時こそ一つの価値観が死んだ日である。
 筆者は「マイルドヤンキー以外のすべてはここに死んだ」と墓を立てるだろう。
 
 ドラマ『EPISODE 0』においては、時間軸は『THE MOVIE』直後に戻る。
 そのせいで、ということもあるのだが、めまぐるしく変わり行くHiGH&LOWの世界において轟洋介の歩みは遅い。
 轟は変わらず村山に執着している姿が描かれる。全日のアタマとして振舞ってくれと要請する辻と芝マンにもすげない素振りだ。そして胸中で思うのは村山への敗北。『拳が強えだけじゃ駄目なんだよ』という言葉。
 この言葉、筆者もよく意味がわからなくて発狂していたっけな…と共感してしまうのだが、轟もその意味をつかみかねている。『THE MOVIE』を経たというのに。

 厳密には、『THE MOVIE』を経て鬼邪高校(定時)への愛情を抱いたのかもしれない。だが轟は変わらず『仲間』とか『絆』地獄・拳で語るHiGH&LOW文法にはまったく馴染んでおらず、したがって周囲とは何一つ意思疎通できない。
 それは筆者の思い過ごしではない。
 轟が「人望がない」という形でしっかり「周囲とズレまくってる」姿が延々と描かれる。これが筆者にとってどれほど嬉しかったであろうか。 
 それ延々と描写される、ということはつまり確信的である。
 そのやり方は例えばこうだ。鬼邪高校全日の生徒Aが八木工業と揉めてボコボコにされ轟に泣きつく。轟は「なんで揉めたの?」と返す。すると「揉めんのに理由なんかないだろうが/やられたらやりかえす/それだけだろうが」と返答される。この世界ではこれが正解なのだ。モブAはHiGH&LOWを生きている。
 なんで揉めたかの答えを轟が得ることはない。周囲も轟洋介が何を考えているか知ることはない。ほとんどギャグの域である。
 そのズレは無数に描かれ続ける。
 轟の問いに答えないのは生徒Aだけではない。
 清志に「誰おまえ?」と聞いて無視される。全日のアタマを清志に譲れば清志は刺され、清志の怪我を「どうした?」と尋ねれば「関係ねーだろ」と泰志に返される。村山には怒られ、生徒たちには敬意を持たれず、すべての行動は失敗し、すべてのコミュニケーションは断絶しており、その上浮き方は言葉の上だけではない。なにをしても浮く。傘をさすだけで浮く。
 その有様は、日本語がしゃべれない人間が日本にやってきて「Is this a pen?」とたずねて無視されているように明らかな問題である。視聴者は「轟さん、たぶんそれはペンですよ!」と教えたくなるような奇妙な同情心を抱く。
 なぜなら、轟が物事に真面目に取り組んでいることもまた「これでもか!」と描かれるからだ。
 『THE MOVIE』での活躍がなかったことにならないよう定時生との関係性は良好であることでフォローされる。すべての描写は丁寧で、そもそも視聴者が「轟が冷たい人間である」という誤解をすることがないように配慮されている。
 もし「轟が冷たい人間だから周囲に人がついてこない」という状況であれば、轟は八木工業との問題を冷たく無視するであろう。だが実際には「なんで揉めたの?」と声をかける。その上実際に八木工業に行く。
 HiGH&LOWは轟を「クールすぎる性格」(※1)から人の上に立てないと説明しているが、この「クールすぎる性格」とは、周囲の問題をどうでもよいと思っていることではなく、周囲と意思疎通できない性格を示している。
 轟の中では態度は一貫している。仲間の危機には理由もなく飛び出さねばいけない、という感覚は轟にはない。そもそも生徒Aを仲間とは認識していない。HiGH&LOW『仲間』地獄という概念がない。そういう価値観の違いからくる摩擦が、HiGH&LOWの世界を生きる上で大きな問題になっていく。

 登場した瞬間から異物感はあった。
 しかし今なお轟がHiGH&LOWの世界で浮いているのはすごいことだ。HiGH&LOWが轟を面倒くさがらず大切にしているという意味に他ならないからだ。尊重されている。
 しかも轟自身はHiGH&LOW文脈を嫌っていない。むしろ素直だ。
 状況に対して見ないふりはしない。常に周囲のとの摩擦の中で最善手を打とうというキャラクターとして描かれる。雨が降れば傘をさす。これが最善手でなくてなんであろう。なのにHiGH&LOWの世界では浮く。なんでだ?
 EPISODE0はその連続だ。
「拳が強えだけじゃ駄目だ/勉強しなおせバーカ」と言われれば本を読む「轟が全日のアタマだってことをわからせてやれ」と言われれば読む本は『アタマのための君主論』に変わる。行動は周囲の要望をストレートに反映し、最短距離で、しかも一人で結果を出そうというアプローチが続く。
 八木工にやりかえしてほしい!といわれれば次のシーンでやり返す。放送室を占拠した泰清一派が「俺たちが今日から鬼邪高のアタマだ!文句があるやつは来い!」と煽れば、そこに赴きアタマを譲る。
 そのことがきっかけで事件がおき、唯一の仲間である辻と芝マンに轟の統率力の問題だと指摘されれば村山のもとに直行する。轟の中で人間の価値と「強い」ことは完全にイコールなので、当然村山に勝つことこそがアタマとして君臨し崇拝されることとイコールになっている。
 「統率力」も「リーダーシップ」も「アタマの器」も「人に好かれること」もなにもかもすべては轟にとって「誰よりも強いこと」と大差はない。村山にさえ勝てばアタマとして誰もが認めると思っている。しかし一方で、校内では轟は強い、とにかく強い、やばいくらい強い…でも下に付きたくないよね、という話でもちきりだ。強いことは皆知ってるよ。でもそのことを轟は知らない。
 轟は、こんなに間違え続ける人間がいる?というくらい間違え続ける。 

 ことに5話で描かれる価値観のズレは明らかだ。
 村山は定時(大人)と全日(子供)のルールは違うと轟に伝える。轟には周りを見ろ、放送室から挑発した泰清一派の相手をしろ、と伝える。格下には興味がない伝える轟に、村山は頭ではなく拳で、ハートで考えろと伝えるのだが…。
 出たね…! HiGH&LOW。
 言葉ではなく心で、拳で交わすコミュニケーション。
 村山は端的に、上司なんだったらもっと回りや部下としっかり向き合ってコミュニケーションをとりなさい、と言っているのだが、これは拳で語るHiGH&LOWの文脈が理解できなければ、絶対に理解できない助言だ。なぜ挑戦受ける必要があるのか?どうせ勝つのに?そう思う轟には当然いまいち響いておらず、むしろ轟は同シーンでSWORDのテッペンを巡る争いから自分が疎外されていることに思いを馳せる。

 自分がやるべきことは今の段階では「全日のアタマ」で、しかそれを行うためには人望が必要だとも理解している。でもそれは本来やりたかったことなのか? 本当の自分の望みはなんなのか?村山に勝つことだけが全てを一度に解決できる道なのではないか?そういう轟をめぐるあれやこれやが異様な物量で投下される。 

 異様な物量で!

 ③強いものでもなく賢いものでもなく変わり続けるものだけが生き残れる。

 ここまで至れり尽くせりで日常パートを描いてくれる。
 この感動が言葉に尽くせるであろうか?

 HiGH&LOWは尺を得たのである。

 『HiGH&LOW THE WORST』において、メインどころのキャラクターは全日10人、定時6人、鳳仙6人、希望団地6人の合計28人で、映画1本で描ききるにはなかなかな人数なのだが、いつものHiGH&LOWなら余裕であろう。なにしろ1地区の話なのだ。SWORD+リトルアジア+九龍+DOUBT+雨宮兄弟+元MUGEN…それぞれのドラマを同時に動かす必要はない。それなのに公開への盛り上げ施策として「鬼邪高校の全日の前日譚」(24分×6話)を作った。
 キャラクターを売り出すために絶対に必要な「尺」を用意してくれたこと、それ自体がキャラクタービジネスとしての圧倒的な進化だ。HiGH&LOWが弱点をはっきりと強化してきている。
  これまでのHiGH&LOWでは考えられないことだが、このドラマにはやや尺が余っているようにさえ感じられ、したがって泰清一派も、中園一派も、司もジャム男も描写は細やかだ。なにげないやりとりからバックグランドが想像できるだけの情報量がある。HiGH&LOWは前回筆者が感じた問題を完全に解決していた。

 同じ感覚が『HI-AX LAND』にあった。
 この『超汐留パラダイス!-2019 SUMMER-』内に設置されたHiGH&LOWブース最大の売りは、”映画キャラクターが登場してオリジナル写真が撮影できるAR”だ。
 これは2017年のHiGH&LOW LANDにも設置されていた人気サービスで、キャラクターたちは掛け合いをしながら客と写真撮影に応じてくれる。
 今回は筆者のようなオタクが憧れの轟一派と写真を撮れてしまうのだ。こんなこと神が気付いたらどうする?
 辻が「写真?いいねぇ」とオタクに撮影許可を与えてくれる。
 案外優しい轟が芝マンに指示、三人でキメまくって「いくよ~!」「ハイ、チーズ!」と写真を撮ってくれる。写真を撮る瞬間、轟は眼鏡を外してくれる。このワンアクション入るだけで、轟という非日常的なキャラクターの「あっ、外したほうがいいかな(そのほうが俺カッコいいかな)」という「気遣い」が、日常が、いかに面白いか。
 写真を撮れる!といううれしさもあるのだが、この「掛け合い」は何気ない日常の一コマで彼らがどんな生活を送っているのかを想像させる。日常シーンが極端に少ないHiGH&LOWにおいて、写真を撮ること以上に面白い部分だ。
 2017年ハイローランドのARでは、非常に良いエピソードもあった。九十九さんが琥珀さんに「琥珀さん写真とりましょうよ、龍也さんとばっかりで俺とは一枚もないじゃないですか」とねだるのだが、琥珀さんは「恥ずかしいからみんなで撮ろう」と通りがかかった筆者に声をかける。そこは九十九さんと二人で撮ってあげたほうがいいですよ!琥珀さん!と恐れながら、しかし琥珀さんの頼みを断れず筆者も写真に映る。MUGENのマークが描かれた壁の前で。ひと時、筆者は確かにMUGENの一人だった…。
 たびたび過去の写真を見返していた琥珀さんや九十九さんにとって、今ここで「写真を撮る」ことが1つのエピソードとして成立している。何年か後に見返すことになる記念の写真になるであろう場所に、筆者もまた立ち会えたのである。

 しかし、ハイローランドに設置されていたときには、ARには問題が多々あった。
 なんとこの目玉ともいえる「掛け合い」が、スマホを構えた撮影者しか聞くことができなかった。
 つまり、「自分が撮影される時」には掛け合いは聞こえない。だから掛け合いを聞くには「人を撮影する」しかないのだが、一人参加者はどうするのだろう。そもそも、撮影する/されるのどちらかしか選べないのであれば、「撮影する側」のほうが断然面白いというのは『キャラクターと写真を撮ろう!』という主目的とは矛盾した仕様である。
 それ以外にも、音の聞き取り難さ、読み込み不良のストレス(特に達磨のAR!達磨の法被を着て立ち尽くしたあの時間…!)、アプリを入れる面倒くささ、人間と出演者の画像の解像度違い……これら様々な問題はあった。ストレスは多いのだが、まあなんとかぎりぎり成立しているサービスだった。
 しかし、今年度のARブースではそれらがすべて一つ残らず解決されていたのである。
 誰かが不満を述べ、それが金をかけて、解決されている。
 筆者の職場ではまず考えられないことである。
 不満を全員が共有していてさえなお、「ぎりぎり成立している」のであれば当然無視。物事が2年で改善されることなどありえないし、あっても一歩ずつ前進が当然である。
 しかしHiGH&LOWは全てを解決した。
 HiGH&LOWは非を認め、即座に物事の解決にあたる。金はある。フットワークは軽い。ブレない価値観をもったHiGH&LOWは判断するだけの力があり、即決できる。そういうこわさがあるのがHiGH&LOWだ。だからこそができたものの集大成が、現代においてありえない採算度外視コンテンツであるHiGH&LOWだと知っていたはずではないか。
 変わり続けていく強さがあればこそ、まっとうに作品そのものの価値を・魅力を高めていく。轟は変わっていなかったが、ARは変わっていた。そしてARの価値と魅力は上がっていた。
 『HI-AX LAND』は手狭で、雑然としていて、さほど混雑しているわけでもなかった。だが、非常に満足のいくものだった。
 それは映画公開に向けて、とても良い予感をもたらしていた。

④『HiGH&LOW THE WORST』前夜


 筆者がドラマ『EPISODE0』で(あるいはドラマ・映画を通して)最も感情を揺さぶられたシーンは第6話だ。泣いたといってもいい。
 6話、定時校舎が焼かれ全日生は意気消沈している状況だ。
 轟は自身の不甲斐なさに苛立ち、そして村山との再戦を望み、放送室で一心不乱にサンドバックを叩く。なぜかワイシャツ姿だ。そこに村山がやってくる。
 来るや否や轟は「ババア勝手に入んじゃねーよ」状態で焦る。学ランをあわてて着て、髪の毛まで整え、眼鏡をかけ、身だしなみを整えて村山を迎える。カッコつける轟。村山はそれを静かに見守る。なんともいえないシーンだ。異様なまでに生活感がある。
 筆者はこのシーンを最初に見たとき、笑ってしまった。ギャグではないか?そもそもワイシャツでサンドバッグを叩くなよ。
 だが、これまでのHiGH&LOWにおいて、ギャグは「かっこいいやつ」と「かっこわるいやつ」の2種類しかなかった。
 かっこいいやつ、は雨宮雅貴や九十九に代表される魅力的な男を表現するための魅力的な隙としてのギャグである。計算されたチャーミングな欠点と言い換えてもいい。「かっこわるいやつ」は縦笛小沢のようないじってもいい格下の男を弄り倒したりやカレーとクソを一緒くたにするようなシーンのことで、端的にいってHiGH&LOW的な教養がなければ耐えられるものではない。
 しかし、このシーンはいずれでもない。筆者がHiGH&LOWを見てきた中でも屈指の「作中でカッコいいポジションにいる男が、かっこよくないことを、しかも真顔でやってる」シーンである。 
 「人を見た目で判断するな!」とかいいながら、見た目に誰よりもこだわってないか? だが「プライドとナルシズムが入り混じった男」を演じるとしたらこういう形しか描けないのかもしれない。とはいえ、轟らしい面白いシーンだ。
 何度も見ていると、 轟が「自分が人からどう見えているのか」に信じがたく注意を払っているんだなと気付かされる。それを見る村山の目線は暖かいものではない。強くなりさえすればと集中してサンドバッグを叩き、クールな自分でいるために身なりを整える。このシーンまるごとひっくるめて「それじゃ駄目だね轟くん」というシーンなのだ。そして校内放送を通して村山の「お説教」がはじまる…。

 そこまですべてを否定され、ただ喧嘩だけはむちゃくちゃ強いやつである轟は、かつてあれほどいきいきしていた轟とは別人のようである。
 「こんばんは」と定時に挨拶にいった轟が「挨拶なんていらね」とザコをハイキックで沈める。あれほどおしゃべりだった辻と芝マンは放送室で無言で音楽を聞く…。轟一派は徒労に終わる文脈を超えたコミュニケーションそのものに絶望してしまったかのかもしれない。沈黙の王国を築いて籠城し、数々のつわものが荒地の果ての城を訪れようとする。

 轟洋介について描かれたドラマは、まさに周囲と異なる価値観を持つことからくる交流不可能な状況からスタートする。
 だが、ほとんどの人間にとって「なんで揉めたの?」のほうこそが正解なのではないか?「わけなんかねーよ!」と言われて納得できるだろうか? アツくなれるだろうか?ほとんどの人間は雨が降れば傘をさすのではないか?
 轟はHiGH&LOWの世界にトリップした現実世界の人間のように思われ、それこそが筆者が思い入れた姿であった。
 HiGH&LOWの世界って、やっぱ変だよな。轟。

 この状況は、筆者の胸を熱くした。
 いよいよである。
 ドラマの続編となる映画は、轟洋介が自身の価値観を保ったままで、他人と本当の意味で触れ合うことが期待されたからである。こうまで拗れ、ついには「お前全日のアタマになりたいのか?」BOTと化している状況の轟を、誰が、どう打破するのだ。
 まったく意外なことなのだが、これこそが、『轟洋介のオタク』である筆者がHiGH&LOWと長く語らってきた焦点であり、この映画はそれを主題の一つにとらえている!
 こんなことがありえるだろうか?
 HiGH&LOW、お前は轟をどうするつもりなんだ。満を持して、映画で轟をぶん殴ってマイルドヤンキーにしてしまうというのか。腕一本で東京に出て行くなんて止せよ、ここがお前の故郷だろ、俺たち一生ダチだろ、と喧嘩を通して矯正してしまうのか?二十歳をすぎたらパパになりデカいファミリーカー(土禁)でイオンモールに行く男にしてしまうのか?
 勘違いしてほしくないが、筆者は轟洋介に孤独でいろといっているわけではない。マイルドヤンキーが嫌いなわけでもない。
 だが、マイルドヤンキーではない人間がマイルドヤンキーではないままでマイルドヤンキーと触れ合うことだってできるだろう。そうあってほしい。
 話が逆でも同じなのだ。オタクばかりのサークルにヤンキーがやってきた。ヤンキーがオタクになったからお友達になれました、では筆者にはつまらない。相互に影響を与え合いながらも、ヤンキーがヤンキーのままオタクと友情を結べるほうが筆者にとってははるかに意味があることなのだ。
 轟洋介が「ただ自らのために」強くなったことを否定することの是非を巡るHiGH&LOWとの終わりのない問答…拳が強いだけじゃ駄目なら、なにが正解なんだ?HiGH&LOWこれこそが『轟洋介のオタク』である筆者にとってのHiGH&LOWなのである。
 筆者の気持ちとしては「え?HiGH&LOW、HiGH&LOWにとってもこの話題…興味あるんだ!?」という驚き、興奮、感謝、絶え間のない高揚で胸はいっぱいだった。しかしどんな答えが出せるというのだろう?
 この種の問題に答えが出たことはない。作品世界が変わるか、轟が変わるかの二つに一つだ。
 どこまでも四の五のうるさいオタクである筆者は、映画が自分を満足させることはないであろうとどこかで諦めていた。答えが出せない問題かもしれない。そんなふうにも思っていた。
 その気持ちではじめて挑んだ視聴は、忘れもしない9月18日RAMPAGE×HiGH&LOWのライブビューイング。緊張する筆者の前で、映画では見たことのない形で明確な解答がなされた。


⑥へ続く
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※1『HiGH&LOW THE WORST』パンフレット。