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049 仏教を考える

 仏教について考えて理解することがなぜ難しいのか。難しいのは、仏教の教えを説いている経典つまりお経の内容が難しいからではない。そもそも難しいかどうかも分からない。日本語に翻訳された経典が無いことが最大の理由である。私達が目にするお経のほとんどは漢文で書かれている。だからチンプン漢文である。このことが仏教の大きな問題である。もう一つの問題は、経典のボリュームである。お釈迦様によって説かれた教えが、数百年経って経典として綴られていった。その数が膨大な量となっている。
 主にサンスクリット語で綴られた経典が、三蔵法師らによって中国に持ち込まれ、それらが当時の中国語、つまり漢文に翻訳された。漢文に翻訳された経典は、最澄や空海らによって日本に持ち込まれている。千数百年前のことである。ところが、持ち込まれた経典が日本語に翻訳された形跡はほとんどない。何故か。当時の日本語がどのようなものであったかはほとんど知る由もない。最古の史書とされる古事記は漢字で書かれているが、当て字のようでもあり何ともはっきりしない。日本書紀は漢文で書かれている。
 文字が無かったからとされているが、逆に考えると、漢字や漢文で書かれたものは、現代人が考えるほど不自由なく読めたということではないだろうか。だから、翻訳する必要が無かった。ところが、かな文字が発明されてから日本語が大きく変遷して、漢字や漢文との乖離が次第に大きくなって理解が難しくなってしまった、ということではないか。結局、現代に至るまで経典の多くは日本語に翻訳されることはなかった。
 お経は漢文のまま読まれる。意味が分からなくてもともかく唱えれば良い。お坊さんも、そのようにする。その方が何となく有り難い気がしてくる。読み方は、中国語とも違うし、何とも不思議な読み方をする。私達が、学校で漢文を習う時は、ほとんど書き下し文で読むが、それとも違っている。
 お坊さんが私達に経典の内容を説明してくださるときは、逐語的な解説ではなく、全体を意訳して伝える。私達がお経を逐語的に勉強する機会は皆無である。それは最もポピュラーな般若心経ですらそうである。キリスト教徒にとって聖書を勉強する機会は多い。イスラム教徒もコーランを勉強する。仏教が優れた教えを説いていると信じたいが、そのことに触れる機会はどれだけあるだろうか。

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