生きる意味

「なんのために生まれて なにをして生きるのか
 こたえられないなんて そんなのはいやだ!」
(やなせたかし アンパンマンのマーチ)

幼稚園に入る少し前くらいの私は、自分の生きる意味が分からずにいました。家事をする母、仕事に向かう父、小学校に行く姉には自らの役割が与えられていて、それぞれがかっこよく任務に励んでいるのに対して、自分はただぼーっとアニメを見たり、生産性のない遊びをしたりしているようで虚しさを覚えました。もちろん、3〜4歳の私は「生産性」という言葉も「虚しさ」という表現も知らなかったのですが。毎日同じような意味のない平凡なことの繰り返しで、ある時、姉に向かって「死にたい」と口にしました。結局、当時、小学校2〜3年生くらいの姉に諭されて「死にたい」という言葉を封印しました。幼稚園に入ると朝から昼過ぎまでの時間を毎日、集団生活で忙しく過ごすことになり、それ以前のような虚無感を覚えることも少なくなりました。流れるように充実した毎日を過ごしました。

サルトルは「人間は自由の刑に処されている」といいます。椅子は座るために存在している、ペンは書くために存在しているというのに対して、人間は各々の存在の理由が予め定められておらず、自らの力によって自己の生きる目的を決めることができるという点において自由であり、それゆえに自己のあり方や生き方について悩むのです。

幼稚園入園前の私は、自由な時間を嫌というほどもっていて自由であるからこそ苦しんだのではないかと思います。そして、幼稚園という集団生活の場では、個人の自由の時間が少なくなったことで余計な考え事をする機会が減ったのかと今になって思います。

ただし、サルトルや先人の思想に当てはめて考えるのであれば、幼稚園に入る前の「自由」に苦しみ様々な思いを重ねた時期はネガティブなことでも無駄な時間でもなく、むしろ一生の生き方を定める礎を築く時間であったといえるでしょう。また、幼稚園という集団の輪の中に所属することで自らの悶々とした思いが解消されたということは良いことでもありますが、自らを省みる機会が減ってしまったということでもあります。このことは、職場などの集団の輪の中で動き続ける今も一つの戒めとして意識すべきなのではないでしょうか。すなわち、他人と接すれば接するほど、自らの意識が自分の内側から他人へと移っていく傾向がありますが、どんな時でも自省する余裕をもって自分と向き合う時間を残したいです。

集団、他人という存在と関わりながらも、自らと向き合うことが、冒頭の「アンパンマンのマーチ」の歌詞に対するヒントになるのではないでしょうか。

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