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悪意と善意とわたしと時間

もう何年も通い写真を撮っている桜の木がある。
いえ、正確にはあった。ということになる。

自宅から、カメラを片手に、ポッドキャストを聴きながら
散歩もかねて何百回も通った桜の木。

木に新芽が芽吹くころ
花がひとを引き寄せるころ
緑の濃さにむせるころ
風がつよくなるころ
葉が削げ木が華奢に見えるころ

二年前の十一月、その桜の木は枝という枝を
力まかせに何ものかに静かにだれにも気が付かれず
「いたずらされ」
失っていた。。。


区役所にいき担当部署の担当しゃに事のいきさつをききにいった。

単純ではあるが何故そんな区分になるのか理解できない

公園内のトイレを境に行政の担当が区と市に分かれている
という事実。

わたしの桜は市の担当だった。

もちろん市役所の担当部署の担当しゃに話を聞きにいった。
担当しゃは説明してくれた。
「あれは専門業者ではなく何も知らない素人の仕業です」
枝の切り口や、折られ具合、あらわになった断面の処理、がその理由。

納得したが怒りは収まらない。

凌辱された桜を悲しみ
また花を咲かせてくれることを願い
何度も通った。

でも、写真を撮る気持ちにはなれず
通うたびに悲しくなった。
もちろん花をつけること、は、なかった。
そのうち足が遠のいて数か月たち

お別れの日が訪れた。
あるべき場所にその痕跡は跡形もなく
もともと何もなかったかのように消失していた。

ああっっっっっ


ああっ、今度は間違いなく行政の仕事だろう。
つまり、存在を残しながらも桜はすでに
息を引き取っていた。ということだろう。


ああっっっっっ、
もしかして、
つまり、
そういうことなのか。

桜はよわっていた。
すこしでも生きながらえてほしいと
善意の誰かの枝打ちだったのか。


真実はわからない。
市所にもいかない。
桜はない。
花も咲かせない。
わたしのさくらはもういない。

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