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命の理由を教えてくれた 祖父との習慣

私の自宅には、1995年にあった阪神淡路大震災で全壊したおじいさんの家から運び込んだ「大きなのっぽの古時計=おじいさんの時計」を玄関横にかけている。

私の命の前にあったこと

私が生まれるずっと前から私の故郷淡路島(北淡町)の祖父の家で時を刻み続けていたこの「おじいさんの時計」は130センチあまりの背がある代物で、振り子が刻む音も鐘もばかでかく、小学校の校長を退いてから書道教室と貸本屋をやっていた祖父と店のシンボルだった。

ところで「祖父」という存在は、普通なら2人なのだろうが、私にはおじいさんが4人もいた。順不同で、一人は母の実父。母が生まれて1歳にもならないときに戦死。後に再婚した祖母の夫つまり母の義父が2人目。3人目は私が4歳のときに亡くなり先日50回忌法要をした父の実父。そして4人目が「大きなのっぽの古時計」のおじいさん。たくさんの戦死者が出た太平洋戦争後の一つの養子縁組によってできた、このおじいさんはつまり私と血のつながりがない。

私の命に注ぎ込まれたもの

お盆と正月に帰省するたびに、祖父の貸本屋の店頭で漫画を好き放題に読めるという恵まれた環境の中で、小学校に上がる頃にはすっかり漫画の虜になっていた。祖父の店に到着するやいなや、「店番しとくわ…」と、恩着せがましくさもお手伝いをするかのように、一日中店の古時計の下で漫画本を読み漁る、この習慣は最高にハッピーだった。そんな私をいつもただにこにこして見ていて、寝る前には決まって一日のお駄賃5円をくれた。祖父もまたこの習慣を楽しむ、とても優しい人だった。昼食後には、書道。これも習慣だったが、後ろからやさしく私を抱きかかえるようにして筆を一緒に持って筆の運びを教えてくれた祖父。祖父と過ごす時間の一瞬一瞬、習慣化した毎日のルーティンに、私は血の繋がりもなく「愛される」というこの上ない幸せを感じていた。

しかしそんな幸せな時間は短く、残酷なほど儚い。数年後、私が小学校5年生の秋に祖父は亡くなり、淡路を出て墓参りぐらいしか帰らなくなった実家で、時計はいつしか動かなくなっていた。

「大きなのっぽの古時計=おじいさんの時計」は、人に与えられる時間の有限、儚さとともに、愛の無限大と永遠とを教えてくれた。

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100年前、住職から祖父へ渡された一枚の繪

中学生の頃だったか、私は、祖父に無償の愛を注いでもらった幼い頃には知らなかった祖父の人生を知る。祖父は、淡路島ではまれにみる秀才だったらしく、生福寺という地元のお寺の住職に取り立てられ、寺と同じ弘法大師の教えをルーツとする京都の東寺中学(現洛南高校)で学び後に教育者となるのだが、何せ苦学をしたようで、生福寺の住職は「とことん金に困ったら勉学をあきらめるのではなくこれを金に換えて勉強せよ」と一枚の絵を祖父に手渡していた。

祖父もまた、なんらの血の繋がりのない一人の住職から、おそらく人を遺さんという意思からであろう、まさに無償の愛を注いでもらっていたのである。感受性の高い少年期に、このことは祖父の人間性に大きな影響を与えたと思われる。その後祖父が、育ての親とも言ってよいであろう住職の思いを見事に受け継いだことは、戦争で父を失い養女に出された母、農家の子だくさんで貧困の渦中にあった父との縁組みをして我が子たちとして引き受けた実践で明らかだ。

そして祖父と血のつながりのない私が「本物の愛とは、祖父の愛のことそのものである」と、一緒に過ごした時間の一瞬たりとも疑ったことはなく、今日に至るまでその破格の人格を尊敬し続けている。そんな祖父は私にとって、「大好きなおじいちゃん」であるとともに、「人生最高の師」として、私の生き方のお手本となってきた。書道では、自分で硯に向き合って硯で墨を擦る、墨汁は便利だが使わない習慣。お店を訪れる人に笑顔と元気な声で「いらっしゃいませ」という挨拶をする習慣。毎食前後に手を合わせ、感謝の言葉を口にする習慣。そして「人それぞれ得手に帆をさすが良い」「大切な決め事ほど本人に任せる」という重大な習慣も。私は、たった5年間の祖父との日々から身につけた。

一枚の繪は祖父が

その絵が、関西の絵画界に大きな足跡を残した田能村直入(住職の友人)の小作品だったことを知るのは、忘れもしない19歳の春だった。私はその頃、大学(関西大学)の学生になっていたが、残念なことに生きる目的や将来の目標を見失い、祖父に顔向けのできない状況に陥っていた。そんな19歳の春のある日、芸術方面に進もうなどと一度も考えたことがなかった私が一人でぶらりと彦根城の桜を見に行った時に奇跡は起こる。

私は駅前商店街の一角に、祖父の古本屋に酷似した古本屋を見つけた。いるはずのない祖父がそこに居るような気がして店に入ってみた。無造作に並べられた棚をぼんやり眺めていると、大阪の大学より祖父が学生時代を過ごした京都の大学にできれば進みたかったという、まさにどうでもよいレベルの後悔があったのだろう、そこで「京都市立芸術大学」と書かれた、ひときわ薄っぺらい「赤本」の背表紙が目にとまって、その本を手にとった。

私は芸術の専門大学というものがこの国にあることを初めて知り、そしてこの京都市立芸術大学が京都市の文化政策からあまりに安い学費設定になっていることに驚き、実技と学科からなる入試の内容をむさぼるように読み進めた。そして、この大学の歴史と歩みを記したページで手が止まり、あまりの衝撃に身が震えた。この京都市立芸術大学の前身である京都府画学校の創設者であり初代摂理(校長)をつとめた人物こそは、1920ごろ生福寺の住職が祖父に持たせた一枚の繪の作者・田能村直入その人であったのだ。

初めて考えた、命の理由

このことを、たまたま訪れた見知らぬ地で、偶然にも祖父の店に似た古本屋が気になって入り、偶然そこにあった「赤本」を立ち読みして知る。こんなことはただの偶然では起こるまい。この店を出た瞬間、私は京都市立芸術大学の受験を決意していた。

それから9ヶ月間というもの、この奇跡を仕掛けた祖父の何かが私に乗り移っていたとしか思えないほど、私は生まれて初めて不眠不休の努力をし、取り憑かれたようにデッサンに励んだ。運良く京都芸大に合格するが、結果はともかく人生で初めてした努力らしい努力は、モラトリアムだった私に初めて目標ができたことであったと知った。生きる気力の厳選は、希望であると。このことをきっかけにして、長期的に変わらない目的とは別に、年単位、月単位で目標を設定する習慣が自分のものになる。そして、何か不幸なことが起こっても、意味のないことは起こらないと捉える習慣、自分は何のために生きているのかという命の理由について考える習慣がつくのだが、すべては祖父の導きではなかったか。

一枚の繪は、100年の時を超えて我が子へ

祖父はどれだけお金に困っても、この一枚の繪だけは売らなかった(だから今もあるのだが)。この繪は、きっとそこまでの施しをくださった住職の思いや精神の象徴であり、祖父にとってはおそらく人生の糧、かけがえのない存在だったのだと思う。その思いのバトンを直接受け取った父はいま90歳。自らの命の理由の象徴であるかのようにこの繪を大切に壁に掛け、毎朝晩これを静かに眺めること、仏壇に手を合わせることを習慣にして、余生を送っている。

「田能村直入の一枚の繪」は、生福寺住職と祖父による後世に対する愛の伝承を象徴する一枚であり、越生姓は万事を越えて生きよという祖父が遺したメッセージ。ならば血の繋がりはなくても、孫としてそれを受けとる私は、その伝承を決して絶やしてはなるまい。

ちなみに私の長女の「寛子」という名前には、祖父の育ての親とも言える生福寺住職の「寛い心」をいただき、長男「誠也」には祖父がもっとも大切にしていた「誠の心」を受け継いでほしいとの願いを込めた。

時は流れ続ける

1995年のあの阪神大震災で北淡町は壊滅的な被害を受け、おじいさんとの思い出が詰まった実家も全壊したのだが、この一枚の繪と古時計だけは祖父の形見として大切にしてきた。

おじいさん、ただいま。帰ってきたよ…。私は、外出から帰宅して自宅の扉を開けるとおじいさんの時計に向かってそう呟くことが、この家を立てて15年間続けてきた、毎日の習慣だ。嬉しいことや悲しいことがあって、何かおじいさんに聞いてもらいたいことがあったら、ゼンマイを少し巻き、振り子を左右に振ってみる。しばらく動く。動いている間は、そこにおじいさんがいる気がして。

今日も雨。時計の前で聞こえるのは降りしきる雨の音と、豪雨災害で命を落とした人たちのことを伝えるテレビの声。しかし淡々と、時だけは淡々と。何も言わずに静かに流れて行く。被災した古時計を前に、被災した人たち一人ひとりの人格や人生の源泉であり続けた習慣と、一人ひとりの命の理由とを思うと、泣けてきた。

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