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22.境界線を越えて

講義を終えて教務室に戻り、とりあえず空いているデスクに座りました。ただ、ただ疲れました。ほんとうに、ぐったり疲れました。
わずか90分なのに、朝からぶっ通しで研修生100人くらいの研修を担当したような疲労感でした。
これが、これから週2回、2月まで続くのかと思うと、ゾッとしました。

しばらく放心状態でしたが、回収した自己紹介に再び目を通しました。そして、またあの1枚のところで釘づけになりました。

それは、あやちゃんという女子学生が書いた自己紹介でした。
クラスの中で、一番大きな声でおしゃべりをしていた学生。講義が始まっても、最後まで前を向こうとしませんでした。いつもそうなのかは定かではありませんが、彼女は私と目を合わそうとしませんでした。時折顔を向けることがありましたが、軽蔑したような冷ややかな目でした。

 

「どうだった?」
私のことを気にかけてくれていたのか、帰宅した夫が仕事の様子を聞いてくれました。今日あった出来事を、堰を切ったように話しました。すると、

「趣味がSEXかぁ~。アハハハハハ!!そいつかわいいなぁ。そりゃ絶対おまえに抵抗してるわ。面白いヤツじゃないか」

真剣に悩んで話している私を 一笑するような返事に私はカチンときました。しかし夫は、

「彼女たちにとっては、先生と学生なんやで。おまえがどんなに真剣でも、一生懸命でも、先生はキライ、うっとおしいもんなんやで。俺も、おまえもそうだったんと違うか?おれらは、くだらん講義をサボって抵抗したけど、あの子は、趣味はSEXって書いて抵抗してるだけのこと。同じことなんやで。でも、おまえは あの子らの気持ちがわかるんと違うか?優等生面してる真面目講師が大嫌いなおまえやったら・・・」
「好きで始めた仕事にやっと就けたんだったら、自分なりにやってみたらいいじゃないか。最初からうまく出来ないのは 当たり前のことだろうが?別に、あーしろ、こーしろっていう制約はないわけだし・・・・」

愚痴を聞いてもらうつもりが、最後は説教される羽目になり、さらに私は凹んでしまいましたが、夫の言うことは最もなことでした。

Sさんとの仕事は、Sさんの会社を通してやらせてもらっている仕事で、そのことが自分に大きなプレッシャーを与えていて苦しかったです。でも、この仕事は、わたしがこの学校と直接契約を結び、私の采配で出来る仕事なのです。
どんな風にすればいいかのアドバイスはもらえないけれど、自分でそれを考えながらやることが出来るのです。それが,自分らしさに繋がればいいのです。

「失敗しちゃいけない」「うまくやらなきゃいけない」「講師らしく振舞わなければいけない」という気持ちが私のことを、がんじがらめに縛り付けていたことに気づきました。
私らしく、失敗しながら作り上げる気持ちで、頑張ればいいのかと思うと、少し気持ちが楽になりました。

それでも、講義をすすめるのは至難の業でした。
相変わらず、声を張り上げないと聞こえないほどの、おしゃべりの嵐。

とくにあやちゃんとその取り巻きは、酷かったです。
しかしわたしは、講義内容を準備し、いろいろなプリントを作ってやってもらい、提出された課題を添削していきました。

講義を進めていくうちに、25人全員が、わたしの講義にそっぽを向けているのではなく、何人かは一生懸命聞いてくれていることに気づき始めました。彼女たちのためだけでもいいから、講義をしようと思うようになりました。

教卓にしがみついているのではなく、配付するプリントや返送するファイルは、できるだけ一人一人に手渡しながら、顔を見て話す機会を作りました。
少しずつですが、返した瞬間、彼女たちの表情に笑顔が浮かぶようになりました。また、嬉しくなりました。そんなことを繰り返しながら、1ヶ月がたった頃のことです。

「結婚はしたくないけど、子どもは欲しいよ」
「え~~やっぱり結婚でしょうが~~。子どもはいらんよ。二人でラブラブでずっといたいもん」
「やっぱり、子どもが欲しい。かわいい服を着せて一緒につれて歩くもん」

いつものように、課題のプリントを配っていると、あやちゃんたちが、そんなことを話していました。

「私は 結婚はしたくないけど、子どもは産みたい!」
あやちゃんが、いつになく表情を輝かせてそんなことを話していました。彼女たちのおしゃべりに、今まで口をはさむことなくやり過ごして講義をしていた私でしたが、

「でも、妊娠してるときは幸せな気分でいられたけど、産んだら地獄だったよ」と話しかけてみた。

「え~~~そうなん?赤ちゃんはかわいいじゃない。そんなに大変なん?」

驚きました。今まで、わたしのことをずっと無視し続けていたあやちゃんが、いきなり話しかけてきたのです。

「わたしは・・・育児ノイローゼになったからね。大変だったよ。今でも大変だけど、いろいろ考えさせられた。子どものことを憎らしく思ったことがあったよ。でも、寝顔見てると、昼間辛くあたったことをものすごく後悔して、『ごめんね』って言いながら、よく泣いたよ。今はちょっと楽になったけどね・・・」

いつの間にか賑やかだったおしゃべりが止まり、みんながシーンとして私の話を聞いていました。

「あ・・・ごめん。早く配らなきゃね。こんなに時間が過ぎちゃった!」

どれくらいわたしは話してたのでしょう?気がついたら、夢中で自分のことを話していました。今までのことを、彼女たちに話しているのではなく、自分自身に言いきかせるように話していました。

「そんなことあったのは、意外だったよ。いつも真面目でキチンとして、何でもできる人だと思ってた。ねぇ、もっと話して。そういうこと,いっぱい聞きたい」

“この子、かわいいなぁ~~”
あやちゃんの表情を見てそう思った。穏やかで人懐っこくて、これが本来の彼女の姿なんじゃないかなと、思いました。その瞬間、わたしには、彼女のことしか目に入っていませんでした。

「こういう話は、親にも恥ずかしくて聞けんもんねぇ。うちの学校の女の先生って、私らと変わらんでしょ?聞いたら引かれるしね(笑)」
「ねぇ、またいろいろ教えてね。今日は楽しかった~~」

「いいけど、こればっかりじゃ、前に進まないから、適当にね・・・」

「は~い」

その日の講義は、大半が雑談で終わってしまい、それはそれで罪悪感が残りました。でも、初めてみんなが一生懸命話を聞いてくれたような気がしました。

“立ち止まって待ってないで、自分から歩み寄っていけばいいんだ。彼女たちの話や気持ちに、もっと耳を傾けて、自分から心を開いていけば・・・・”

この日の講義を境に、少しずつですが、彼女たちとの距離が縮まっていきました。

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