2021年11月24日 - 一期一会~人の皮肉や自虐癖の理解

1.最初に

言動には、二種類ある。直接的言動と間接的言動である。皮肉や拗ねなどは、間接的言動になる。

人は、人格と言動からなる。簡単に言うと、人格は内面で、言動は外面である。間接的言動は、言動を肯定したり否定することで、人格を否定したり肯定したりすることだと思うのである。肯定とは、かけがえのないもの、代替不可能なものとして扱う、否定とは、代替可能なものとして扱うものとする。

2.他人一人に対する間接的言動

皮肉は、人の言動のみをあえて肯定することで、それ以外は否定しますよという意思表示である。つまり、人格を否定するために、言動を肯定するのだ。例えば、すごいという一言にも、まったく逆の意味が含まれる。君にしかできないよ!すごいね!と言う場合と、ほーよくそういうことができるね、すごいね。と言う場合である。前者は、言動を君なら他のこともできるよ!と否定し(ここでは前向きな否定)、人格をかけがえのないもの、代替不可能なものとして肯定しているが、後者は、言動をかけがえのないものとして捉え、逆に人格を代替可能なもの、使い捨てのようなものとして扱っている。

3.自分に対する間接的言動

拗ねとは、自分の言動のみを否定することで、自分の人格を肯定するという自己愛的な行動である。例えば、どうせ自分なんか…という言葉は、自分のなすことやること全てを否定して、本当ならもっとうまくやれるのに…と代替可能性を示している。ただ、そのような自分を愛しているのである。そして、それは、他人に対する攻撃性、もしくは、自分に対する攻撃性に発展する場合がある。

3.1他人に対する攻撃性

拡大解釈というのは、攻撃性に発展しやすく、さきほどの例だと、自分はなにをやってもだめだ、本当はうまくやれるはずなのに、それを阻止するのは、周りのせいだ。という風に。そうやって、他人を変えようとしている限り、他人は変わらないし、当然自分も変わらず、事態は良くならない。

3.2自分に対する攻撃性

一方で、自分に対する攻撃性に発展する場合は、人格までも否定する場合である。自分は、他に替えがきく。なんで生まれてきたのだろう。生きていても意味がないという風に。自分の人格を否定してしまうと、何をやっても自己破壊的になり、建設的な言動をすることは少なくなる。

4.複数人の相手に対する間接的言動

人は、何かしら共同体に所属している。例えば、家族、地域社会、コミュニティ、会社などである。それは、自分と相手がいればそこに共同体が成り立つ。夫婦などがそれである。その共同体に対して行う間接的言動とは、当てこすりである。

例えば、学校で、贔屓されている子が居たとする。裏でお金をもらっていたりなどいろいろあるかもしれないが、この場合、先生は、贔屓している子供(A君とする)と、B君がテストで100点を取ったとすると、A君にだけ、よく頑張ったね!次も頑張ろう!という風に、A君の人格を肯定することで、B君の人格を間接的に否定することになるのだ。先生は、A君しか見えていない。そのため、他のだれが100点を取ろうがどうでもいいのだ。

他の例だと、親子が学校の廊下を歩いていて、子供が走ったとする。そのとき、他の親子が居て、同様に子供が走らせているのをそのままにしていたときに、最初の親が見せつけのように、子供の言動を否定する。その背後には、その子供の人格は肯定しており、他の子供の人格を否定しているのである。そして、遠回しに、その子供の属する家族という共同体も否定しているのである。

5.相手の否定から逃れるには

このように相手の共同体を否定するのは、先ほどの、他人に対する攻撃性で説明したように、自分の人格を否定することを免れるために、人の人格を否定してしまうということである。このような場合は、相手が、当てこすりのように自分やその共同体を否定してきていることに気づき、相手の人格を肯定してあげることが大事である。また、直接的行動として、自分を否定する、つまり、個人攻撃してくるときは、話し合いができるときは、どこを直せばよいか聞いて、直せばよいだけだし、それが納得いかなかったり、話し合いができない場合は、自分を否定したら、どれだけの人を否定にすることになるのかな?と心の中で思い、萎縮しないことである。人は、一つの共同体のみに属しているということは少なくて、必ず、逃げ場となるような共同体を見つけることができると思う。もし、そこしか逃げ場がなかったら、自分から、自分の居場所となるような場所を見つけていけばいいと思う。ホームレスの方たちでも、家がないからどこにも属していないことはなく、少なくとも、市や自治体は、味方である。その上には、国もいるし、どこかの集会に出て行ってもいい。

6.相手の人格を肯定するには

相手の人格をかけがえのないものとして扱う(相手の人格を肯定する)ためには、少なくとも、今の相手の言動をかけがえのないものとして扱う必要がある。例えば、相手がものすごく怒っていたとして、どうせいつか鎮まるだろうと思いながら聞いていると、たとえ相手が先生や親のように、心のどこかで尊敬、つまり人格を肯定していたとしても、今の軽く聞き流す行為が積み重なって、相手を侮ってしまうことになる。そのような態度だと、いつまでたっても上司の指示を忘れてしまったり、記念日を忘れてしまったりする。今というのは、二度とこない、かけがえのないものと思うことができれば、人だけでなく、この世界全体を肯定することができるのではないか。一期一会(同じことは二度とこない)という心がけでいると、人間関係もよくなるのではないだろうか。

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