バックカントリー、コマに乗ったトトロと不思議な水音の話 第九話
(第八話から続く)
若干の不安を孕みつつも雪山を登り続けた私達4人は、標高2000メートルを幾らか超えたあたりで、滑り降りるのに良さそうな斜面を見つけた。
その斜面はオリンピックなどで目にするハーフパイプを斜め40度に傾けたような、巨大なUの字型をしており、正月に降った大量の新雪に覆われていた。
登山用語ではルンゼ、もしくはクーロワールと呼ばれる溝状の地形だ。
かなりの標高を登り、低い気温に体力を奪われつつあった私達は、理想的な斜面を見つけた事に歓喜した。
今日の一本はここだ。ここを滑ろう。
そうと決まれば早速、滑走の準備に取り掛かる。
登るためにスキーに貼り付けていたシールを剥がし、折り畳んでリュックにしまう。
さらにビーコンと呼ばれる、万一雪崩に埋まった時に自分の位置を仲間に知らせる発信機のスイッチを入れ、そのあと服のポケットのチャックが全て閉まっているか確認する。
もし開いたまま滑り出したら、携帯などポケットの中の物は永遠に失われる事になる。
準備が出来た順に、溝状の地形の最上部から滑り込む。スノーボードの二人、ヨシロー、そして私という順番だ。
神経を研ぎ澄まして最初のターンが決まった瞬間、日常では決して味わえない、叫びたくなるような喜びが爆発する。
至福としか言いようのないそれは、一度でも味わうと、人によっては人生を根底から変えてしまうほどの魔力を持っている。
スキーやスノーボードで深い新雪を滑った事のない人に、この素晴らしい体験を伝えることは難しい。
その上さらに、我々の古典的馬車スキーは、スノーボードなどと違い、爪先しかスキー板に固定されていないのだ。
一瞬でもバランスを崩すと転倒し、呼吸ができない程の深い雪に頭まで埋まってしまう。
あり得ないほど不安定な道具に乗り、全身が埋まる程の粉雪の中を落下していくこの体験は、あえて多くの人が知っているもので例えるなら、トトロが小さなコマの上に乗り、深い雲のなかを下降していくような感覚と言ったらいいだろうか。
あまりの雪の深さに、どれだけ体重を乗せてスキー板を踏み込んでも、そのエッジは固いものに一切触れずそのままスーッと落ちていく。
この斜面は完全に無風で、深い雪の中を潜水艦のように潜りながら落ちていくスキーの先端から吹き上がる雪煙が、私の耳元を通り過ぎていく時に、ヒューともポーとも表現出来ない微細な音を立てるのだ。
…ふと、素晴らしい白銀の世界に不釣り合いな、誰かがオシッコをしているようなジョボジョボという音がかすかに聞こえた気がした。
まさか、一面深い雪に覆われたこの谷で、そんなのは気のせいだろう。
ちっとも気にせず次のターンに入った瞬間、バスンという音とともに足元の雪面がせり上がり、下から上へと眼前を通過していった。
一瞬、何がどうなったのか分からなかったが、
間もなく少しずつ状況が理解できてきた。
全く信じたくなかったが、私は谷底の雪面に開いた深さ3メートル程の穴へ落ちてしまったのだ。
一見深い雪に覆われた谷は、恐ろしい事にそのU字型の底の部分だけ、内部が凍っておらず、知らずにその空洞の上を滑ってしまった私は、ものの見事にそこを踏み抜いてしまったというわけだ。
次の瞬間、私は先程聞こえてきた謎の水音のわけを理解した。
下を見ると、私の脚は40センチ程の深さの、ジョボジョボどころかザーザーと激しい音を立てて流れる零度近い濁流の中にあり、身を切るような冷水があっという間にスキー靴の中に流れ込んできた。
それは絶望的な、二度と味わいたくない感触だった。
(第十話へ続く)