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小暑 第三十二候 蓮始華

日本は梅雨明けしたとのことですが、こちらは雨季の中休みというお天気が、蓮始華 (はすはじめてひらく)」 7/12~7/16頃 も続きました。
雨を含んでしっとり重くなっていた地面がまた、少し埃っぽくなるような強い日ざしは、少々人には辛いものでしたが、日光が大好きな蓮には良かったのでしょう。
光をしっかり掴み取るかのように葉は大きく広がり、そのさまには植物は光学機関であると言った誰かの言葉が思い出され、また、花は日に透けてうっとりと咲き、生きた香炉のように立ちのぼらされる樟脳と杏仁を混ぜたような清潔な甘さのある香りに惹かれてミツバチたちが集まり、光と花の気配やミツバチの歌を緑の茂みで聞くと、なんだか天国的な場所に身を置いている気がしてきます。

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生まれた場所が標高が高く涼しく蓮や睡蓮は育ちにくい環境で、時折見かけてもとても華奢でささやかなもの。冬は冷たく暗く凍ってしまうような、昏い水の中に生き生きと現れること、その香りや形が、エジプトの古い壁画やヨーロッパの博物学のリトグラフなどとイメージ重なること、そして大きな川を細長い舟の先端に座り水蓮の花を掲げてどこかへ行く人の姿や、その川沿いの砂地を水蓮や蓮の花束を抱え、花弁を巻きながら歩く人々の行列とすれ違うという夢を、子供の頃からなぜか繰り返し見ていたせいか、蓮や水蓮のなんともエキゾチックで不思議なそのありようは、いつしか遠いものへの憧れの象徴になっていました。

そんな蓮好き、水蓮好きには、東京の不忍の池や新宿御苑の温室、鎌倉の旧神奈川県立近代美術館の別館のカフェから見る蓮池の花の量は、蕩然とする大好きな場所であり、しきりと通う場所でしたが、けれどなぜか夢の風景とはどこか違う。
また、その庭の素晴らしさ、しかもその主役が水と水蓮なのだから、夢の眺めはきっとそこだと出かけたジヴェルニーのモネの庭も、確かに彼の絵そのままの美しさでしたが、それでもどこか違う。よく考えれば、彼の夢の眺めを具現化したものです。

でも、どうにかこの違う落ち着かないところをぴたりと重ねて整えたい。そうしたら自分が何かに憧れてやまず、いつもかすかに急いでやまない気持ちを落ち着けられるのでは?そう思う感覚があちらこちらに花を追いつつ続いていました。

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そして、そんなちぐはぐが思いがけず払拭されてしまったのが、チェンマイでした。そして、こういうことは、思いがけない時にかやってこないのかもしれません。

行きたいとつゆほども思っていなかった、仕事の都合で来てしまったチェンマイでしたが、いざ来てみると、大抵の家の庭では蓮や水蓮を植えた大きな鉢があり、花市場には常に蓮の花束がジャスミンなどと一緒に商われています。人々はお寺で蓮の蕾を捧げ、広い道の両脇の雨を逃すための広い溝には蓮が生い茂り、更に水が集まりやすい低地の広大な野原は湿地となってそこは大抵蓮の花畑になり、その間に小舟を浮かべて花を摘む人がいます。
また、大きな河の流れが緩やかな場所には赤や青紫の熱帯性の水蓮がすっくと蕾をいただいた首を伸ばし、大きな役所やレストランやスパの庭の、これも大きな池には白や薄桃色のヨザキスイレンがまるでエジプトの壁画やレリーフそのままの清楚な花を咲かせています。
いたるところに、水があり、蓮と水蓮があるではありませんか。
そういえば、日本で短い間ながらタイ語を教えてくださった先生は、昔、ドンムアン空港からバンコクへ向かう道がまだ舗装されていなかった頃、そのぬかるみの道の移動の大変なことと言ったらなかったけれど、道の両脇に延々と咲き続ける蓮の花はそれは美しかった。と言っていましたっけ。
花が人に寄り添っているような、あるいは人が花の間にあるような、そんな人と花のありようを私は見たかったのかもしれない。ここで、さまざまな蓮や水蓮の姿を見て、そんなことに思い至ったのでした。

本当に思いがけない巡り合わせで来てしまったタイ、チェンマイでしたが、夢で見ていた風景も、不思議と遠くに憧れる気持ちをその形や香りによって呼び起こしたことも、どこか気づかないところで蓮や水蓮は私をこの国へ誘う羅針図になっていたのかもしれません。
羅針図をrose of the winds、compass roseというそうですが、私にとって、はlotus of winds 、compass lotusだったのかもしれません。

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