2021年1月8日 慰安婦訴訟における「主権免除」について

1 はじめに
慰安婦訴訟で日本政府に賠償命令 韓国地裁、外交関係一層悪化へ
https://news.yahoo.co.jp/articles/892ecc7f035d3f90b0e90e5a63895c409d935c55

[全訳]慰安婦訴訟についてのソウル中央地裁報道資料(21年1月8日)
https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20210108-00216663/

この判決に対して少し解説を。
判決要旨は次のとおり。
1 被告(日本政府)の不法行為は、計画的、組織的、広範囲にわたる反人道的犯罪行為であり、国際法上の強行規範に違反したと判断する。こうした場合は主権免除が適用されない。
2 被告の不法行為は全て認定され、原告(元慰安婦)は精神的、肉体的苦痛に悩まされたとみられる。現在まで被告から謝罪と賠償を受けられないでいる事情を考慮するとき、慰謝料は1億ウォン以上が妥当だ。原告の請求を全て認め、被告にそれぞれ1億ウォンの支払いを命じる。
3 1965年の日韓請求権協定や2015年の日韓慰安婦合意の適用対象にこの事件の損害賠償請求権が含まれていると見るのは難しい。請求権が消滅したとすることはできない。

 これに対して、日本のインターネットユーザーからの(批判的な)意見は大きく次の2つ。
 1つ目は、日本政府が、韓国の裁判所の裁判権には服さないという「主権免除」の問題。日本政府もこの「主権免除原則」に基づき、そもそも韓国の裁判所は本件につての判断をする権限がないため、請求を却下(つまり門前払い)すべきだ、という立場です。
 2つ目は、1965年の日韓請求権協定や2015年の日韓合意において「最終的かつ不可逆的に解決」しており、これを蒸し返すのは国際法違反だというもの(https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/rp/page25_001905.html)。
 以下では、主に1つ目の論点について、国際法のテクニカルな部分も含めて解説します。2つ目の論点について読みたい人は別の記事を探してください。

2 主権免除とは
 主権国家どうしは国際法上、平等な立場です。したがって、ある主権国家が別の主権国家を裁くことはできないという考え方を「主権免除原則」といいます。
 ただし、国家があらゆる場面で他国の国内法で裁かれないというわけではありません。例えば、日本国内にあるアメリカ大使館が日本企業と商契約を結び、その後にモメたりした場合、日本企業は、日本国内でアメリカを相手取って裁判することが可能です。一般的には、国家の「主権的行為」は主権免除の対象となるが、商行為や労働関係などは主権免除を享受しない(免除の対象にならない)とされています。

 かつては、商行為なども含めてあらゆる主権国家の行為は主権免除の対象となる、という考え方もありました。これを「絶対免除主義」といい、かつては日本の判例もこの立場を取っていました。しかし、平成18年の最高裁判決で判例変更され、現在は日本の裁判所は、国際法上の通説でもある「制限免除主義」の立場に立っています。
 裁判所だけではなく、日本政府も同様に制限免除主義の立場にあると思われます。日本は、制限免除主義を採用した国連国家免除条約の起草にも大きく関わり、平成19年には署名をしています(ただし、条約は現時点では未発効。また、韓国は批准していません)。

 国際慣習法上も、制限免除主義は(詳細はともかく)確立しており、その点はソウル地裁も前提としているようです。
 まとめると、ある主権国家がある主権国家を裁くことは、その行為が「主権的行為」である場合はできないが、主権免除の例外となるような商行為などであれば裁くことができる、というのが国際法のルールとなります。いついかなるときでも裁判権に服しない、というルールにはなっていない、ということです。


3 慰安婦への行為は主権免除の対象となるか
 国連国家免除条約(未発効ですが、国際慣習法上のルールをある程度反映していると考えられます)は、第12条において、身体の傷害及び財産の損傷については、主権免除の対象とならないとしています。

 いずれの国も、人の死亡若しくは身体の傷害又は有体財産の損傷若しくは滅失が自国の責めに帰するとされる作為又は不作為によって生じた場合において、当該作為又は不作為の全部又は一部が他の国の領域内で行われ、かつ、当該作為又は不作為を行った者が当該作為又は不作為を行った時点において当該他の国の領域内に所在していたときは、当該人の死亡若しくは身体の傷害又は有体財産の損傷若しくは滅失に対する金銭によるてん補に関する裁判手続において、それについて管轄権を有する当該他の国の裁判所の裁判権からの免除を援用することができない。ただし、関係国間で別段の合意をする場合は、この限りでない。

 ただし、ここで主に想定されているのは、例えば大使館の車が事故って損害賠償請求された、みたいなケースだと思われます。
 実際に、条約起草時にも、「軍隊の行為」にはこの免除の例外規定が適用されない、つまり、軍隊の行為についてある国を民事法上訴えても、主権免除の対象となるため、裁くことはできないと解釈することと明確にされています。

 また、近年では2012年の国際司法裁判所(ICJ)の判決(ドイツ対イタリア事件)においても同じ内容が確認されています。当該事件でICJは、慣習国際法上、武力衝突時に軍隊によってなされた生命、身体または財産に対する侵害行為に関する民事手続については、主権免除が適用されると認定しています。ちなみに、このときのICJの裁判長は、皇后の実父である小和田恆氏が務めています。
 ここで補足しておくと、「慣習国際法」とは、締約国しか拘束しない「条約」とは違い、あらゆる主権国家を拘束する、国際法の一般的ルールです。また、ICJは、世界で最も権威ある国際裁判所です。

 ここで示されたルールにのっとれば、かつて日本政府(軍)により行われた慰安婦への行為について、韓国国内の裁判所において、日本政府の責任を問う裁判をすることはできないことになります。

4 ではなぜソウル地裁は「主権免除」を認めなかったのか
 ソウル地裁のロジックは、上記の内容を前提としたうえで、さらにそれをひっくり返す論理を主張しています。どういうことでしょうか。

 国際法上の概念に、「強行法規(jus cogens)」というものがあります。「強行規範」と呼ぶ場合もあります。これは、侵略、奴隷取引、海賊行為、ジェノサイドの禁止などのルールは「いかなる逸脱も許されない上位の規範である」という考え方です。
 国内法でも似たような考え方があります。おおざっぱに説明すれば、例えばアルバイトを雇うときに「時給10円」という労働契約を結んだとします。しかし、これが例え労使双方の適法な合意に基づくものだとしても、最低賃金法は強行法規なので、この合意は無効で、最低賃金法違反となります。
 同様に、国際法上の強行法規に反する場合、たとえそれが国家間の合意として結ばれた条約であっても、無効となる、ということになります。

 しかし、この強行法規の概念については、何が強行法規なのか、違反するとどのような効果になるのかなど、国際慣習法上も条約上も定まった部分が少なく、これに依拠した議論には慎重さが必要です。

 ソウル地裁は、日本政府による慰安婦への行為は、この「強行法規」に反するものであるから、「国際慣習法上、軍隊の行為は主権免除が適用される」というルールは適用されない、というロジックを採用しました。
 まとめると、軍隊による行為は基本的に主権免除の対象になるから、一般的な国際法のルールからすれば韓国の国内裁判所で日本政府を裁くことはできないけど、そこで裁かれる行為が「強行法規」に反するので、例外的に裁くことができる、という論理です。


5 ソウル地裁の論理は妥当か
 じつは、ソウル地裁が採用した「強行法規論」は、前述のドイツ対イタリア事件において、ICJから明確に否定されています。イタリアは、ドイツの行為が強行法規に違反するので、主権免除を享受しないと主張しましたが、ICJは、主権免除のルールはあくまで手続き上のルールであり、その裁判で扱われる行為が違法かどうかということとは独立に検討されるものであるとして、「強行法規論」を否定しました。
 つまり、「裁判ができるかどうか」という手続き上のルールの判断をするために、「裁判した結果として該当行為が違法かどうか」という判断の結果は関係ないという考え方を示したものと思われます。

 ソウル地裁は、世界で最も権威ある国際裁判所の判決に真っ向から反する判決を下したのですから、率直に言って、一般的な国際法の理解からは「おかしな判断」とみなされることになると思います。もちろん、ソウル地裁は判決の中でもこの判例に言及しており、知らなかったわけではありません。それでもなお、ICJ判決と矛盾する判決を下した理由を要約すると、次のようなものになります。

①主権免除はあくまで手続上のルールに関するものだが、そのルールは国際秩序の変動に従って修正されている。手続上のルールが不十分であることによって、裁判を受ける権利という基本的人権が保護されず、実態上の権利が損なわれてはならない。
②奴隷制および奴隷貿易の禁止は強行規範である。これに反した行為について民事法上の手続きをとっても、それが手続上のルール(主権免除)によって裁かれなければ、最高法規である憲法の理念を害する。
③これまでの日本や米国での訴訟、日韓請求権協定や2015年の日韓合意によっては、被害を受けた個人が具体的な保証を受けることはできなかった。

 要は、奴隷売買禁止のような強行規範に反するような重大な国際違法行為があったのだから、それを救わなければならないというルールは手続上のルールよりも優越するのだという論理です。

 このロジックは、個人的にはあまり説得力はないと感じます。ソウル地裁は、自らが拠って立つルールが「国際法上確立したルールである」ということを論証できていないからです。あるルールが国際慣習法であると言えるためには、国家が「それがルールである」という法的確信を持って、国際社会で実行を積み重ねてきたということを示す必要があります。しかし、ソウル地裁はこうした「国家実行」を示さないまま、「強行法規」という評価の固まっていない概念に拠って論理を重ねています。それも、ICJがわずか9年前に否定したばかりのルールです。

 日本政府は、「主権免除」のルールにより韓国の裁判所が日本政府をさばくことはできないとして、請求の却下(棄却とは異なります)を求めており、控訴はしないとの立場です。
 慰安婦に対する何らかの保障はあって然るべきですが、これまでの国と国とのやり取りを踏まえて、双方の政府が責任を持って取り組むべき問題です。こうした形で論点が拡散し、こじれてしまうことは残念です。