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博論日記#2

「博論日記」と言いつつ、第1回を書いてから間が空いてしまった。まったく三日坊主以下である。 今日は駒場で読書会をした後、渋谷で2本映画を観た。ギヨーム・ブラックとアリーチェ・ロルヴァケル。 最近、フランスの短めの小説(未邦訳)を読み出した。難しいフランス語ではないし、夏休みだし単に語学的な感覚を錆びつかせないために読んでいるだけなのだが、やはり原文で小説を読むというのは、たとえば哲学(思想)や批評のものを読むとは別の難しさがある、とあらためて思う。 その差異を論証するつ

    • 2024/08/01 博論日記#1

      吾輩は博士後期課程の大学院生である。博論の計画はまだない。 いや、計画はあるにはあるが、素直な感覚としては「(自分の)博論」という言葉を発することにさえまだ慣れていないというか、「博論」というものに全く現実感をもてないでいる。そんな感じであるから、まずは「自分は博論を書くことを求められている(そしてそれを望んでもいる)院生である」ということを自分の身に分からせるためにも、「博論日記」などという試みを思い立ったのだ。これまで「日記」というものを書いたことがないにもかかわらず。

      • 意識的なレクチュールのためのメモ

        先ほど、最寄り駅から自宅まで歩いているときにふと思ったことをここにメモする。 ここでいう「意識的なレクチュール」とは、最終的に何らかの産出、アウトプットを目指して行うレクチュール(読むこと)である。色々あると思うのだが、「研究」はその最たるものだろう。 だから、気晴らしや趣味でのレクチュールの話ではない。 ここでは「意識的なレクチュール」(≒研究)のために、三つの読みの形態を区別しておきたい。 一つ目。すべての「意識的なレクチュール」には、中心となる最重要の(ひとつ、

        • 研究、それでもなお

          ここで正直に告白させて頂くなら、私は長らくまともに研究ができていない。ここで「まともに」というのは、一日少なくとも8時間くらいは机に向かい読んだり書いたりすることを指す。 今思えば、おそらく去年の7月くらいから、修士論文の執筆過程で、徐々にしかし確実に「デプレッション」(私はこう呼んでいるのだが)が私の心身を蝕んでいった。今思えばそう思う。 ひとの論文を読んでいると息が詰まって苦しくなる。自分の論文を書こうとしても、辛くてパソコンを閉じてしまう。机の前に座り続けることが難

        博論日記#2

          『1Q84』についてのメモワール Ⅰ ─「NHK」というあだ名について

          2022年の12月から2023年の1月にかけて、村上春樹の『1Q84』を読んだ。なぜ今さら読み始めようと思ったのかはすでに全く覚えていない。しかし、本書が2009年から2010年にかけて刊行され、当時のブームになっていたことはよく覚えている。 時宜を得ない読書。 大学入学以降、ぽつりぽつりと村上の作品を読んできたが、村上の中でも特に大作の本書はなんとなく敬遠していたきらいがある。文庫本6冊を机の上に重ねて置けば、ちょっとした迫力さえ漂うように感じる。 1. 「NHK」と

          『1Q84』についてのメモワール Ⅰ ─「NHK」というあだ名について

          不可能なものについての覚え書き

          Ⅰ 「なんだってできる、できないことなんてない」と人は他愛なく無邪気に言う。これをパラフレーズしてみよう、「不可能なものは可能である」と。 矛盾したことを矛盾したこととして言い表すことができる言葉の力。 1930年代のある一群のフランスの若者は「非順応主義者(ノン・コンフォルミスト)」と呼ばれる。彼らはあらゆる方向に「ノン」と言う。一方で既成の秩序、政治・社会体制に対して、他方で共産主義という既存の革命勢力に対して「否」を突きつける。「右でもなく、左でもなく」が彼らのス

          不可能なものについての覚え書き

          「周知のことであるために、誰も問題にしないことがある。」

          印象深い文章の書き出しがある。内田樹のカミュ論「ためらいの倫理学」の冒頭だ。 ここで言われる「周知のこと」とは、「『異邦人』の刊行とカミュのレジスタンス参加がほぼ同時期だということ」である。 内田はこの周知の事実から出発して、いまだ知られざるカミュの暴力論(=「ためらいの倫理学」)を導き出した。 「周知である」ということと「解決すべき問題がない」という二つの状態はもちろんイコールではない。ヴェールを剥ぐという、古代ギリシャ以来の隠蔽ー開示の論理に慣れ親しんだ我々の思考にと

          「周知のことであるために、誰も問題にしないことがある。」

          地下についてのいくつかのラフ・スケッチ

          1. 父親が家の地下でタバコを吸うようになったのは、母の肺癌が見つかって以来のことだ。 地下と言ってもそれは半地下の構造になっており、いちおう窓もある。その窓には簡易的な排煙設備が付けられているが、父の日曜大工によって作られたものだから、排煙性能はそれほど高くない。 ホープ・ライトとピアニッシモ・プレシア・メンソール、二つの銘柄。父と子。飲んでいる酒は同じウィスキーの水割りだ。半世紀のあいだ建設業で働き、今では管理職に就いている(彼いわく「現実主義」的な)父親と、柔弱で

          地下についてのいくつかのラフ・スケッチ

          「Be」 存在の方へ

          先日、京都精華大学の卒展に行った。僕の恋人の作品を観るためである。作品の鑑賞のなかで僕は色々な事を考えた、いや、作品によって考えさせられた。ここでは、その簡単なメモワールを走り書きしたい。何はともあれ、その作品を観てほしい。 白黒の写真群が白い壁に配置された作品、全体としてかなり大きな作品(7m×2mほどだろうか)、個々の写真は、人間の身体(と思しきもの)の接写である。題名は「Be」。ある(有る、在る)、あるということ。 物体としての身体、もはや身体ですらなく写真は「肉体

          「Be」 存在の方へ

          テクストの手触り

          何らかの文章を意味するテクスト(texte)は、語源的にtextile(繊維)やtexture(組成、織り目)の意味をはらんでいる。文章は織物としてイメージされるものである。 いやイメージだけではない。実感としても我々は文章を織物として、織物のように楽しむ。織物の手触りを感じるように、書き手の言葉遣いやリズム、総じて文体と呼ばれるものを感じる。文章の手触りは、読む・書くというエクリチュールの営みにとって本質的なものだ。 我々は、肌着やシャツや靴下といった「機能」、「形態」

          テクストの手触り

          反復性と身体性ー「香水」について

          昨年度リリースされた瑛人の「香水」は現在でもヒットチャートに名を連ね、人気は衰えることを知らない。 (現在、Spotifyの国内再生ランキングでは2位である。1位はYOASOBI「夜を駆ける」、3位はOfficial髭男dism「Pretender」) 今回はこのヒットソングについて、「反復性」と「身体性」という枠組みを用いて考察する。 前者の「反復性」とは、つまり「繰り返されること」であり、後者の「身体性」とは、「人間の体がリアルに(時に生々しいほどに、あるいは「今こ

          反復性と身体性ー「香水」について

          モーリス・ブランショ 1933年5月10日の政治記事

          「1930年代におけるモーリス・ブランショの政治と文学」というのが(とりあえず今のところは)私の卒業論文の漠然としたテーマ=研究領域である。昨年度後期の仏文演習で口頭発表した時のレジュメには「政治=文学のアポリア モーリス・ブランショにおけるcommunication・死・テロリズム」という主題を付けていた。 当初は(というか最近までは)、30年代のブランショという「闇の領域」あるいは「真空地帯」に文献学的分析の光を照射したいという欲望(あるいは蛮勇)に突き動かされていたの

          モーリス・ブランショ 1933年5月10日の政治記事

          不在と現前

          僕は注意散漫で集中力のない人間だ。 それは本を読む時も例外ではない。本人はいたって真面目に読もうと努めても、集中できるか否かはわからない。 そもそも、集中するとは何を意味するのか。何を担保するものなのか。 そんな難しい問題は一旦置いておいて、まずは僕の極めて個人的な経験を聞いてもらいたい。 前述のように僕は「本に集中する」ということが決して得意ではない。文学部フランス文学専攻だというのに、である。全く情けない限りである。 個人的な経験というのは以下のようなものである

          不在と現前

          涙と祈り

          先日、手洗い石鹸の詰め替えを買おうとスーパーに行ったが、全く品物がない。なにやら、品薄になっているらしい。みんながよく手を洗うようになって、石鹸の供給が需要に追いついていないのだろうか。いよいよ家の手洗い石鹸も無くなったので、ここならあるだろうとダイコクドラックに行った。店内を探し回った末に見つけたのだが、唯一残っていたのが、いい匂いのする保湿ケア系の商品だった。安っぽいファンシーな、そして田舎のヤンキーが乗っている軽自動車のようなボトルで、さらに言えば『闇金ウシジマくん』で

          ラテン語とドイツ語とフランス語

          Amazon Primeで「きっとうまくいく」を観た。とても面白かった。 なぜか、その中で出てきた「乳頭」という言葉が頭に残っている。 乳首、乳頭。 さて、ラテン語の復習の機運。二回生の頃に仏文必修のラテン語を履修して無事単位を取得したのだが、当時はまだまだフランス語もおぼつかず(今もだが)古典語と現代フランス語の関係性を考える余裕がなかった。 今、ラテン語を勉強し直せば、多少はフランス語の理解も深まるだろう。(実際、現代フランス語の語彙にはラテン語の表現がそのまま残

          ラテン語とドイツ語とフランス語

          四条の献血ルーム。繁華街には人がまばらで、静かだった。祇園では子どもがキックボードで遊んでいた。普段は観光客でごった返している場所だ。 根本的にどうしようもない人間なので、せめて血液くらいは提供したいものである。 400ml献血を済ませ、松屋の牛丼を食べ、スタジオで社交ダンスのレッスンを受けた。 血を抜かれた直後、しかもマスクを着けながら踊るのはなかなかハードだった。 週一の運動で心身ともにリフレッシュできた。 しかし、今日も朝からしっかりブランショの論文を読んだの