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テクストの手触り

何らかの文章を意味するテクスト(texte)は、語源的にtextile(繊維)やtexture(組成、織り目)の意味をはらんでいる。文章は織物としてイメージされるものである。

いやイメージだけではない。実感としても我々は文章を織物として、織物のように楽しむ。織物の手触りを感じるように、書き手の言葉遣いやリズム、総じて文体と呼ばれるものを感じる。文章の手触りは、読む・書くというエクリチュールの営みにとって本質的なものだ。

我々は、肌着やシャツや靴下といった「機能」、「形態」あるいは「概念」を好むのではない。「機能」とは我々が必要としているものである。愛着の対象は「機能」ではなく、肌触りや模様、デザインである。

同様に文章であっても、我々はその「内容」の当否や信憑性などについて考えたり論じたりすることはあっても、文章の「内容」を好むことはない。賛成することと好むことは違う。

文章に対する愛着、好みの矛先は文章の手触りに行きつく。作家の文体は、我々の愛の対象になりうる。

「テクストの手触り」とは、文章という織物の表面に施された織り目の感触のことである。

「テクストの手触り」がエクリチュールの営みにとって本質的であるのは、書き手は文章の表面に一本一本糸を縫い合わせることで(ただそれによってのみ)作品全体を作り上げるからだ。その小さな織り目が積み重ねられることで、作品は現れ、そこに何らかの意味が生じ、「要約」に還元されるような「内容」が生まれる。作品、そして作品の「内容」とはテクストの織り目の集積の結果、事後的にそこに立ち現れる「像」に他ならない。そこにあるのは作品でも内容でも意味でもなく、文字によって紡がれた織物である。

作者が一本一本の糸を紡いで作品を創造したように、読者は一本一本の糸が織りなす織り目を辿りながら、すなわち「テクストの手触り」を感じながら作品を理解していく。

さて、外国語の翻訳を読むことの困難は、まさに「テクストの手触り」の不在に由来するのではないか。

翻訳者の方々の限りない努力によって我々は数多くの外国語で書かれた作品を読むことができる。しかしどれほど優れた翻訳でも、それが翻訳である限り、原書と翻訳書の間には絶対的な間隙がある。

私が大学に入って初めて手に取った翻訳書は、おそらくバタイユの『宗教の理論』だったが、結局すぐに投げ出してしまった。その後、ブランショの翻訳書を読んでも、そこにはかなりの困難があった。その困難さとは何かと言えば、今思うとそれは、端的にブランショの姿が見えないということだった。ブランショが紡いだ織り目に触れることができないと言ってもいい。ブランショの(翻訳された)作品を読んでいるのに、ブランショは限りなく遠くにいた。

そして徐々にフランス語の能力が付き、ブランショの原書を読むようになった時、そこにはブランショの姿があった。彼の声、言葉遣い、リズムがそこにはあった。「テクストの手触り」の感覚。当然、彼の書物は難解さを極める。しかし翻訳書を読んで感じた困難さとは全く別種のものだった。

今なら、翻訳書と原書の難しさの違いを表現することができる。

極めて個人的な感覚に即して言えば、翻訳書を読むとは、「異国の博物館の地下に眠る極めて貴重な織物についての説明を聞く」ようなものだ。その織物に触ることはおろか、写真で実物を見ることさえできない状態で、織物について説明を聞き、理解しようと努める。

それに対して原書を読むとは、「その博物館の地下に降り、薄暗い中で織物に指先で触れ、一つ一つの織り目を感じる」ようなものだ。地下は薄暗く、ほとんど織物の姿かたちは見えない。それに触れるくらい顔を近づけ、暗闇に目を凝らす。たよりない視覚と研ぎ澄まされた指先の触覚を駆使して、織物に肉薄する。最小単位の一つ一つの織り目を触りながら、織物全体を想像する。

「暗さ」のメタファーは、言語能力に対応する。言語の読解能力が上がれば、視野は明るくなり視覚の解像度も高くなる。

原書を読むということは、たとえ照度や解像度が低くとも、織物そのものに文字通り肉薄するということである。

「テクストの手触り」の感覚に身を浸すこと、書き手の鼓動に触れること。そこにはもはやテクストと読み手しか存在せず、言語的な困難さは副次的なものに過ぎなくなる。この親密さの空間においてこそ、読み手の感度は研ぎ澄まされ、テクストは正当に尊重される。

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