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青暗転で咲く花


 騒げ、叫べ、さあ踊れ。
 溶けた夜の帳(とばり)を下ろせ。
 私の肌は青い。私の目は青い。


 歯車同士が作用する。開かれたオルゴールの中で陶器のバレリーナは踊る。
 彼女は陽の元でしか踊れない。私と相対する、橙色のあなた。




 「ライトが当たると動けなくなるなんて、踊り子としてどうなの?」

 くすくすと笑う声が遠くなるまでトイレの個室で待った。人差し指のささくれを弄る。見ると皮膚が白くなり硬くなっている。携帯電話を持ってくれば良かった。


 本番の白く照らされるステージは目眩がするほど眩しい。目に染みて、瞼の裏の白と黒が明滅とした。余分なものを剥ぎ落として正体を暴くようなその光を見ると呼吸の仕方が分からなくなる。その性質が私を跡形もなく消し去ってしまうような気さえした。


 帰り道の黄昏時。アスファルトはすっかり夕陽を染み込ませ白く潤っている。



「やぁ」

「あぁ、今日は稽古が一緒の日だったんですね」

「気づいてなかったのかい。私は今日も立ち位置を間違えてしまったよ」

「あなたは本番に強い人だから大丈夫ですよ」

「いつまでそのジンクスで誤魔化せるか、我ながら見ものだね」



 彼女の顔を黄金の空が橙色に光らせていた。長い睫毛が夕陽を光源とし、その影を伸ばす。潤んだ睫毛を見つめた数秒、彼女の輪郭に光の靄がかかって、彼女の存在がゆっくりと曖昧になっていった。彼女へ視線を奪われていると度々この靄(もや)が現れる。彼女が神格化される兆しのようで、私は好きだった。光あるところを彼女は自分のステージにできる人だ。光あれば彼女がいて、彼女が立つ場所に光は照らされた。光が彼女に依存しているとさえ思えた。



 踊り子は一段高いその場でこそ輝く。私は本番中に足をくじいてから、ライトの当たる舞台上で踊れなくなった。舞台上で舞う脚を削ぎ落とされたあの刹那。痛みが引いた今も尚、無いはずの脚が私の中で疼き続いている。


 削ぎ落された脚を尾の如く引きずっていた、ある日。花が咲く。


「暗転、暗転あけて」


 本番中、青暗転があけないトラブルが起きた。舞台上で移動し終えた大道具小道具が息をひそめてこちらを見ている。ただ、闇が晴れない。



 行かなきゃ。



 そう思った時には既に右脚が伸びていた。レースシューズから白タイツ、全身が深海に沈んだように青く染められる。


 青暗転の中、数多の目が私を観る。青い光はひんやりと冷たく心地良い。観客の目が私の身体を削ぎ落そうとするのを、青暗転はゆっくりと人差し指を口元に立てて、それらを黙らせる。
 濃紺なシルクのベールが私を抱いた。私のシルエットをくっきりと照らす闇。それを見た音響が、私の登壇に合わせて音楽を切り替える。ジムノペディ第一番。



 青暗転の腕の中、私は咲いた。俯いていた梢(こずえ)がやっと陽の射す方を定めたように。睫毛を伏せて脚を見る。濃紺を芯まで染み込ませたマットな脚が二本、確かに在る。


 「青姫」。その日を境に私の存在はそう囁かれた。観客の多くが青姫の正体を探ったけれど、青暗転が映した私の形は私以上に幻想めいたものだったようだ。私の影が独りでに体を起こし「青姫」として人の心で踊り狂う。

 どこに現れるか分からない「青姫」を求め多くのチケットが売れた。次第に劇場側からも「青姫」の捜索が出され、名乗りを求む用紙が廊下に貼り出された。オレンジ色の蛍光灯に照らされ、私を探すその明朝体が艶やかに光る。吐いた二酸化炭素をそのまま浅く吸う。廊下の床が蛍光灯を反射して目の歯車を緩ませた。自分の右脚に躓きながら、廊下を後にした。


 「青姫」をきっかけに劇場全体の公演数が増え、私にも久しく役が割り振られた。舞台上には正体を暴く白い照明が煌々としていて、渇いた舌が口の裏にくっついて離れない。


 どうだろう。花は咲く場所を選べない。私の脚は青暗転の踊り場に根付いてしまっていた。
 酸素と二酸化炭素の区別がつかなくなってから、私は青色のコンタクトレンズを購入した。黒目も含め半透明に青いレンズから見るいつもの景気は、口から丸い空気が出ていないと不自然なくらいに水中を思わせた。青い視界は羊水を思い出させる粘着性を持っていて、常温に放置された保冷剤のようだ。その幻想めいた視界のまま、私は数々の舞台を成功させた。青い視界の中で舞う私を「青姫か」と目で追う人が、公演毎に指の数だけ増えていく。青。青青。青青青。蓋の閉じたオルゴールの中で私は踊り狂った。青が私を乱暴に掴んで離さなかった。





「やぁ。一つの季節ぶりだね。もうカーディガンが必要な暮れだ」


 夜か、闇か。こっくりと暗い空間で、彼女の声がする。


「ふふ。実は、君のことを見ていたよ。私がステージに立って、袖にいてくれる時もずっとね」


 どうやら彼女は微笑んでいるらしい。吐息の多く含んだ柔らかい声が私の耳をくすぐる。私は、紙コップ一杯分の呼吸を繰り返す。酸素が多いか少ないか、吸っているのは酸素なのか否か、判断をすることはできない。


微かに、お日様の香りがする。顔をうずめたくなるような形を持たない香り。泣きたくなるほど、あぁ、懐かしい。


「私が、見えるかい?」

 優しい声が、黒い物体から聞こえる。光沢感のない青暗い視界の中、彼女の橙色が見えない。黒く曖昧な存在がもしかすると、こちらを見ている。私が彼女の目を見つけられないでいると、彼女はまた吐息を含み、柔らかく微笑む。


「爪は切ってある。さぁ、力を抜いて。目を大きく開けて」

 彼女が私の肩に触れた。動揺して瞬きを繰り返した瞬間、青いコンタクトレンズがほんの少しずれた。


「あ、あ」


 青の部分日食を起こした瞳が、まともに光を喰らう。


 いつもの帰り道。滴るほどの黄昏が私たちを迎えている。これをいつから「いつも」と呼ばなくなっていただろう。私の存在意義が青と橙を反復し、目の水分が蒸発していく。たっぷりと橙を含んだ白いガードレールに私たちは腰をかけていた。橙な彼女越しに、反対色で見えなくなっていたものの数を数えた。夕陽、木洩れ日、水面に反射する光、そして、あなた。



「寛容な暗闇に、青姫が堕ちる前に」



 彼女の親指と人差し指が私の右目に触れる。

 もう、いいな。このまま視力が失われたとしても。青に堕ちた最後、橙を見る許しを得られたのだとしたら。



 右目のコンタクトレンズが鱗のように落ちた。途端に、待ちわびていたように瞳が周囲の酸素を吸収していく。


右目と左目で彼女を見た。左目で見る青がもはや、橙に萎縮しているように見える。



「やっと、目があったね」


 遺伝子の二本鎖のように橙と青が折り重なっていく。私と彼女、細胞の表裏がその二色で構成されていく。




「私はあなたがいないと駄目みたいです」

「そうだね。君は私がいないと駄目なのさ」




 私たちの和膚(にきはだ)は共に光へ溶けていく。どちらがどちらの肌か分からなくなった頃に、役目を終えた夕陽が海へ身をとぷりと潜らせた。



 二人が同じ色をしていると語る証人は現れない。決して、現れないのです。それは「貴方」を含めて、誰も。





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