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春の匂いは衣を纏う

 春の匂いとは一体何でしょうか。それは揚げ物の匂いだと私は考える。この考えに揺らぎはない。だが周りの人に対してこの価値観を共有しようと試みているのだが残念なことに未だ誰一人として共感されたことはない。なぜでしょうか。やはり春の匂いは揚げ物の香りなのだ。
 
 ある女の人は草や花の匂いだと言っていた。桜の花。ある男は太陽の匂いだと言っていた。日の当たった洗い立てのシーツの匂い。悪くない。気持ちはわかる。冬が明け日も当たるようになり草花は芽を出し新たな門出を迎える。新しい時間が流れる。だが花の匂いと言っても世の中には多くの花が存在し多くの草も同時に存在し各々匂いを持つ。明確にこの花だという確信がないんじゃないのかしら。

 ところがどっこい私は春の匂いは揚げ物の香りであることに際して何の揚げ物であるかさえ見つかっている。それはコロッケの香りである。カキフライでもないエビフライでもない、ましてやトンカツでもない。ほくほくの芋とほんの気持ちばかりの肉のかけら。そしてカリカリの衣。もちろん揚げたてだ。ソースをつけるかつけまいか迷う必要はない。カリカリを台無しにするかの如くソースをふんだんに掛ける。それでは衣の食感が損なわれるのではないかと思うが違う。サクサクであるからこそ土台がしっかりしているため仮令ソースをかけようと美味い。

 なぜこのような考えになったかと振り返ってみると就活の頃にさかのぼることに。あの日私は就活解禁の日を経て一か月が経っていた。三月まで就職活動をしていなかったため何をしたらよいのでしょうか状態だった。一応エントリーシートを出してはみるものの半分が通過半分が落選ぐらいの状況。正直そこまで腰を据えてやってはいなかったんだろう。

 就活を始めると履歴書を書くことに際し自分と向き合う時間が増える。僕はいったいどうしたらいいんでしょうか。何をしたら良いのでしょうか。そんなことを日々考えていた。自己対峙にかける時間が増えると必然的に人と会わなくなる。話す時間と言えば週一回の大学のゼミの時間だけ、といった次第に。四月下旬私は悶々とした思いを抱えていた。これじゃいかんなと思い仙台駅前をふらつくことにした。

 そういえば駅前に朝市なんてものがあったなあと思いつき向かうことにした。朝市には魚屋、八百屋、惣菜店なんてものがあった。私は魚市場とも言うべき場所をふらつくことに。潮の香りがするなあと地元の海鮮市場を彷彿とさせた。或る店の女将さんから話しかけられ今日は真鯛が最高なんですよと勧められ買うことにした。こういった何気ない会話は私の心に沁みた。何時ぶりだろうか、誰かが私に向けて話してくれるのは。ただただ嬉しかった。

 魚市場を出て商店街を歩き、さあ帰りましょうかというタイミングで揚げ物の香ばしい香りが私の鼻孔を突く。振り返った。小さな惣菜店がコロッケを揚げているようだった。店先には行列が、正直買って帰りたかったが今日は鯛の漬け丼にしようと腹に決めていた。それに喜びというのは一気に感じるのではなくて小出しにして感じたいタイプなので就活が終わったら買いに来ようとお預けという形に。

 結局その後コロッケは買ったのかと言えば買ってはいない。というよりその後の就活の多忙さですっかり忘れていた。(就活が終わったのが夏だったということもあるのだが)

 なぜこの話を思い出したのかと言えばバイトの出張で秋田に行ったこと際に気づいた。会場の空気を換気しようと窓を開けたら生温かい空気と共に揚げ物の香りが漂ってきた。その瞬間感じた。ああ、もう春だなと。匂いと共に過去を記憶が掘り起こされてきた。やはり匂いというのは記憶と連動している。祖父の家の香り、幼少期に嗅いだよくわからない香り、好きだった人の香り。何がきっかけで思い出すかわからない。懐かしさで自分が嫌になることもある。だがそんな嫌な匂いばかりではなく時として匂いは自分を救う。

 春は正直いいことばかりではない。人との別れと出会いが混在する。大学を卒業するにあたり多くの人たちと別れを告げてきた。これからの人生で再び会えるとは限らないし不安を抱えたまま生きることになる。しかし私だけがそんな気持ちに包まれているわけではなく人の数だけ内に秘める思いなどあるだろう。

大学生活で出会ったすべての人にありがとうと言いたい。私が私を作ったのではない。彼らが私を作った。多くのことを与えてくれた。多くのことを考えるきっかけを得た。生きるためには私の存在だけではない。やはり私は人間という生き物が好きだ。

 春からは社会人になる。働くということは嫌なものなど人は言うが私は絶望などしていない。かえって嬉しく思う。大学以上に人と会い、そのたびに考えるきっかけを得る。私は楽しみだ。無くしては手に入れる日々。もう自分は恐れない。そう思って今日の夜ご飯はコロッケを食べることにした。


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