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いずこへ

 人生において必要なものなど何があるだろうか。心から必要としてるものなどあるのだろうか。この世において。

  苦役列車という作品がある。主人公は日雇い労働に従事しながら家賃1万の三畳一間のボロアパートに住む。二級品の安酒、たいして味もよくない食堂で1人飯を頬張り、寝るときも布団なんて持ってないから畳にそのまま寝て、ぼろ雑巾にほど近い毛布をかぶり寝る。体たらくなさまで、果たしてこの生活が生活という2文字として呼べるのか。文字通り即していえば生きる活動なのだから生活といっても差し違いない。程度の差はあれど潤いだとか豊かさなどを求めなければ生活なんてこの程度のことで成り立ってしまうのだ。

 社会人になったら俺もそんな寂れたアパートに住んでみようかなと考えたこともあった。ただただ古い木造のアパートで生活感など無しに、ベランダでハイライトのメンソールに火を灯しながら遠くを眺めてみたかった。そうはいっても女の子の1人も呼べねえような家に住むのは男としてなんだかなあと普通の暮らしを選んでしまった。いわゆる世間体ってやつだ。つまらない男に成り下がってしまった負け犬ですよ。とほほ。正直今でもその日暮らしに憧れている。 

 毎日食えていける分だけの金を稼ぎ、たまに奮発して美味い飯を食う。あとはひたすら本を読んだりする。本なんてたいしてお金もかからず長い間楽しめる趣味だ。これ以上有意義な趣味などない気がする。

本といえば前に村上春樹が本を読む人生と読まない人生どちらの方が幸せかという質問に対して

たとえ不幸せになったって、人に嫌われたって、本を読まないよりは本を読む人生の方がずっと良いです。そんなの当たり前の話ではないですか

村上春樹

と答えている。自分もその通りだと思う。本が無い人生よりは本がある人生の方がいい。少なくとも。

 自分は予備校生時代に友人のきっかけで本を読む人間になった。それからひたすら読み続けた。来る日も来る日も。手に本を取り街に出かけては喫茶店だろうが公園のベンチだろうが最低限本を読めそうと言える場所で読む。この代物はなんて便利なものなんだろうと思った。その間一部の親しい人たちを除き、極力人との関わりを避けるようになった。もちろん人を毛嫌いしてた訳ではなく話しかければ、おうよと答えていた訳だが人に対して深入りはしなかった。

 人を街中で見かけたとき、あの人はこれからどんな人生を歩みどんなことを考えながら死という執着地へと向かっていくのか。そんなことばかり頭の中にあった。だから人と話す時は相手が今までどんな人生を歩んできて、将来についてどんなことを考えてるか、そんなことばかり聞いている。時に相手の人は自分のことを変な人だと思うこともあっただろし、面倒くさがることもあったかもしれない。面と向かって言われたこともある。でも自分としては多少人とぶつかることがあろうとしても本音で語り合いたいと思っていた。問題が起きたらあとは時間が解決してくれるのを待つだけ。そうして生きてきた。

 自分はそんなにお金は欲しくないし、高級車と呼ばれるものも、高い時計も欲しくない。第一に人間の欲っていうのはいうのは一度満たされてしまえば、より良いものを求めてしまう。なんだかもう一種の諦めがついてしまった。

 自分が欲しいものが唯一あった。自分自身を納得させることのできる精神。どんなことにも動じずに構えていられるだけの器量。

 自分を満たすことが出来る精神、心などというものがあったらどれだけ救われるのだろうか。

 そうは考えてみたものの生きている限り人は物でも人でも何かを求めるし心は渇き切ったり時には潤ったり常に同じであることは不可能に近い。時にはクラゲのように柔らかく時には長く放置されたパンのように固くあてにならない。

 なら何を拠り所に生きていけばいいんだろうか脆く弱い人間である私は。


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