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人間関係において、自分の考えや感情をどう表現するか。自分らしく生きるってなんだ。

先日、友人と人間関係においてどんな態度で接するかについて話した。
職場、友人間、家族間……とそれぞれ態度は変わってくる。
私は、今では人間関係で悩むことはなくなったが、若かりし頃は学校という狭い社会の中で人間関係をスムーズにそして平和に過ごすため、本音と建前を使い分け多少の嘘をつき、自分を偽ってきた。揉め事や面倒ごとを避けるためには「普通の人」を演じる必要があったからだ。

周りの大人や先生は、「自分の気持ちを偽らず、ありのままに生きろ。自分らしい人生を送れ」とかいうくせに私が自分らしく行動すると、「それはただのわがままだ」とか「変人」とか「おかしい」とか「誰もそんなことしないよ。言わないよ。それって普通じゃないよ。変だよ」と批判され、周囲から浮いた存在となり、挙げ句、「ちょっとはみんなと同じようにできないの?」と眉を顰められた。そんな矛盾に困惑して悩みまくった。

ならば、自分らしく生きるとはなんなんだ、と。
ウェブで調べてみたら、『装った人柄ではなく、生来の自分として行動するさま』……と、曖昧模糊としていた。

周りが人気アイドルやドラマ、音楽に夢中になるなか、私はそのどれにも興味がなく、ファンタジックな妄想ばかりして自分の世界に浸っていたが、その浸り方が異常だったようで医者を勧められた。
さすがの私も空気を読んで周りを気にして言動を控えるようにした。
自分らしくあればあるほど、居場所がなくなることに心地悪さを感じながら……。

私を普通の人(みんなと同じ)に修正しようとする周りに合わせ、他人の行動を真似、同じ様に振る舞った。そうすれば訝しげに見られることはない。他人に合わせて民衆に紛れていれば目立たない。「変人」といじめられることもない。
コートの下が丸裸の亀甲縛りでも、公然で広げなければ変質者だとバレないように。
けれど、自分自身に嘘をついて生きるのは苦痛だった。
(テーマからちょい外れてきたのでこの辺の過去話はカット)

そうした苦痛の期間(普通人の仮面を被った偽りの日々)を終え、人間関係に悩まなくなったのは、身近で大切な人以外はどうでもよくなったからだった。所謂、マフィア脳になった。

みんなで昼飯を食うならわしがあった会社では一人で食うと言い張り、同僚から「もっと協調性がある人がよかった……」とか、「お前のような奴は社会で生きていけない」とか言われたが、それに対してもなんの感情も湧かない。大切な人の声以外は聞こえない。耳元で飛ぶ蝿の羽音のほうが気になる。
これが学生時代だったら無理をしてでも一緒に食べてその場の輪を乱すようなことは避けたが、興味のない人と無理して仲良くなる必要も合わせる必要もない。仕事さえきちんとして給料がもらえてればそれでいい。
君たちや会社のために、私は生きてはいないのだから。

だが、友人は今でも周りの人の目が気になるし、親しい友人ならはっきりと意見を言って断れるが、会社や知人には気を使う。会社ではつい見栄を張ってしまいできないとは言えず、仕事を抱えてしまう。常に他人の目が気になって疲労困憊、仕事を辞めたくて仕方がない。だけど、経済的な理由からそれができない、と。
仕事が辛くて辞めたいならわかるが、人間関係で仕事を辞めるなんて今の私には考えられないが、若かりし頃の集団生活処世術を思い返すと、「他人なんて無視すればいいのに」とは言えず、この「人間関係において自分の考えや感情をどう表現するか」がテーマのトークは二日間にわたって行われた。

結局のところ、自分の考えや行動を変えない限りはどこに行ってもこの問題はついてくるし、現状を変えることは難しい、という結論に至った。
私の場合は、マフィア脳になってから、絶対的な味方(親友でも配偶者でもだれでも)が一人いればその他の人々の声や目は気にならなくなった。
宇宙規模でものを捉え、天命を知る年ごろになると、会社や学校の人間関係なんて瑣末なことでどうでもよく思えてくる。
味方が一人いればいい。一人いるだけで、他人の言葉に惑わされず自分を出し、自分らしく生きられる。
人生がより楽になったと感じるようになったのは、味方以外の他人がどうでもよく思えるマフィア脳になってからだ。

なんか、めちゃくちゃ長くなったのでやめときます。




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