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いじめはなくなるのか⑤ ~人として正しい”楽しさ”を届ける~

こんばんは!ダンです。

タラタラ書き綴ってきたいじめ論も、ようやく最終回を迎えました(笑)
まだ見てない方は先にこちらからどうぞ☻

最終章のテーマは

「皆さんはいじめをどう捉えていますか?」

ということです。

僕のいじめに対する捉え方を誤解を恐れずにあえて言うならば、

”いじめは面白いんです”

不快になられた方はすみません。僕もいじめられた経験があるので、正直気持ちよくはありません。
ただ、まずはこの認識持つことから、いじめ問題の本質的アプローチが見えてくると考えています。

というのも僕たちが人間である以上、人よりも優位に立ちたいという欲求があるんです。そして、”いじめ”いう行為によってヒトは快楽を感じる動物であります

ただ誤解のないようにお伝えをすると、

”いじめ”という行為は ”人として間違った快楽” をもたらします。

だからこそ、

”人として正しい喜びや楽しさ”

をもって、いじめっ子の間違った快楽体験の記憶を書き換えてあげないといけないのです。

第一章から述べているように、綺麗事で終わってしまっているようなこれまでのいじめ理解では、この大きな問題の表面を撫でているだけです。

辛辣に言えば、素敵な言葉を並べて素敵な心をつくろうとする道徳をしていて果たして効果はあるのでしょうか?
それよりも”人間には愚かな心がある”ことを理解した上で、生徒と先生が学び合い、自分と向き合っていく力をつける方が、よっぽど問題解決に直結すると僕は強く思います。

そこで僕が考える道徳教育で教えるポイントを大きく2つに分けると以下の通りです。

①誰かを不幸せにしない自己制御力
②誰かを幸せにする行動力

順に説明していきます。
①「誰かを不幸せにしない自己制御力」

人間が愚かな生き物であるということを前提として、

”自由の範囲とは誰かの自由を妨げない範囲”

という民主主義的な思考の基、自分の利己的欲求をいかに制御できるかという観点です。

そして②「誰かを幸せにする行動力」
誰かが困っている場に居合わせたときに、
その人のために

”動ける自分であるか?”

ということです。
困っている人を見たとき、ほとんどの人は
「大変そうだな」
とは思うんです。でもそこで手を差し伸べれる人はどれくらいいるのでしょうか。困っている人からすれば、求めているのは気持ちの理解ではなくて、助けや救いといった行動です。
ここに共感の形骸化を感じるのです。僕の考える”本当の共感”とは、

相手の気持ちがわかるだけでなく、苦しむ人を見たら動くんです。

そんな力を子どもたちには届けられる大人でありたいなと願っています。
そして、こうした力はまずは大人である私たちが認識として持っておくだけで子どもへの関わり方が大きく変わってきます。
知っているのと知らないのとでは全く違います。
少しでもお知恵になれば幸いです(^^

そして最後に、いじめに対するもう一つの捉え方は、

「いじめをいじめとして終わらせない」

ということです。
「失敗を失敗で終わらせない」と同じ考え方ですね。

被害者と加害者にとって、
「いじめがあったから今がある」と、いじめを乗り越える力を身につけてもらいたいと願います。
“苦難を経た人は人間としての深みがある”
とよく言われますが、だからといって苦難をわざわざ経験しにいく必要もないと思っています。
ただ自分に苦難がが訪れたときには、それを乗り越えていくための心構えが大切になります。

ただほとんどの子どもは、そうした考え方を既に持っていない場合がほとんどです。大人でも難しいからです。

人は人とのつながりの中で気づかされて価値観が変わったり成長していきます。


だからこそ先を生きてきた僕たち大人が、苦しむ子どもを見守るなかで

”対話を重ねて視座高く気づかせてあげること”

が必要です。

いじめの当事者たちにとって、その経験が一生の傷にならないように。
そして「あの経験があったから今があるんだ」と。
将来はその子たちが誰かを救う側に立てるような存在になってもらいたいなと心から願います。

当時14歳のダン少年の心は、いまでも私の心に居続けてくれます。
小さいときの記憶を正直そこまで覚えていないタイプですが
(あまり何も考えていないタイプの人間だったので😂)
ベランダで泣いて、亡くなった彼に祈ったときのことはとても覚えています。
それだけ心が動いた瞬間だったのだと思います。

冷静沈着につらつらと書きましたが、いまだに子どもたちが一人残らず救われると信じています。

信じる力は侮れない。

信念を持ちながら現状に働きかけていきたい。

教育は目に見えないものだからこそ、目に見える結果にこだわりたいと思うのです。
それは”子どもの笑顔や成長といった姿”です。

だからこそ、自分が使命に本気で向かうために教育業界を抜ける前に
結果の出せる家庭教師を立ち上げて、今の僕をつくってくれた師匠に明け渡そうと思いました。


でなければ、今後も曖昧にしたまま家庭や子どもの不幸は進み続け、問題解決に至らないことの繰り返しになるのです。
僕たちの身に困難が訪れたとき、

”悲観から楽観への認知の転換”

が必要であり、それに気づかせてくれる周囲の存在が必要です。

自分自身、これからもそう在りたいなと思います。
そして「あんたがおらな」という団体が、少しでもそんな人材が育つ場になればと願います。

長らくこのテーマにお付き合いいただき、ありがとうございました☺︎
それではまた。

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