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1人の女性がエンジニアになるまで〜だむはの場合〜

こんにちは、だむはです。

昨日、Twitterでとある女性のエンジニアの記事が反響を呼びました。

一人の女性がエンジニアになるまでの過程が書かれていました。
とてもエモくて、なぜだか、私は泣きそうになってしまいました。
この記事に感銘を受けたので、私も書いてみようと思います。

先に言っておくと、私のエンジニアになるまでの過程は何もキラキラしていないし、むしろダークサイドな部分が多いです。逆にこんな私でもいまは楽しくエンジニアやっているよって伝えられるといいなと思ってます。

誕生〜幼稚園

私は韓国のソウルで生まれました。東大門の近くだったそうです。韓国にいたのは3歳までなので、あまり覚えていないのですが、住んでいた家、保育園、お父さんにミッキーマウスのパジャマを買ってもらったことは覚えています。

日本に来ると、すぐに幼稚園に入園したのですが、言葉が全く通じない状況だったので、初日は母が迎えに来てくれたらしいです。でも私は、なぜか「バスに乗って帰るから、ママは帰っていいよ!」と言い張って、幼稚園バスにのって帰ったそうです。

小学校

父の職業がシステムエンジニアというのは、小学校で知りました。家にJavaの本が置いてあったのを覚えています。この頃は父はパソコンが得意で、なんかいつもパソコン触ってるな〜くらいのイメージでした。

私はとくにパソコンに興味はなくて、周りと違ったことと言ったら、一人で何かすることが多かったこと。自由研究とか、発表会って友達とグループを作って発表する子たちが多いと思うんですけど、今思うと、私はいつも一人で発表していました。

周りはどう思っていたのかわからないけど、当初は、一人で何かをやることが寂しいとか、悲しいとか、友達いなくてつらいとか全く感じてなかったので、そこが不思議です。

小学5−6年になると、みんなほんの少し大人になっていました。男女関係なく、急に友達がたくさんできました。これまた不思議。小学校の友達とは今でもしょっちゅう連絡を取り合っています。

この頃は、Flashが流行っていて、みんなで私の家でFlashをみて遊んだりしました。よくやったイタズラが、Flash初見の友達に、エクソシストの女の子が急に出てくるあの動画を見せるドッキリです。楽しかったな。

最近、Flashが終了するというニュースをみて、あの時遊んでたのがFlashかーー!と懐かしくなりました。少し悲しいです。

中学校

暗黒の中学時代です。私の人生は中学校で大きく変わります。

中学時代は、前略プロフィールと「りある」という今で言うツイッターみたいなものが流行っていました。そのときはよくわかっていなかったのですが、自分のHPを簡単に作れるツールがあって、あの時カスタマイズで入れていたタグは、今思うとHTMLのタグだったなとエンジニアになって気付きました。

もしかして、あの頃の中学生って無意識にHTMLタグ使ってる人結構いたかもしれません。(ただの想像ですが)

そして、中学1−2年では超優等生だった私は、中学3年生で思いっきり、グレました。グレにグレてグレまくって、迷惑をかけまくりました。親とは険悪になり、とくに、父とは一切話さなくなりました

グレた理由はわからないです。ごめんなさい。中学1−2年でめちゃくちゃ優等生だった反動がきたのかもしれません。知っての通り、中学3年生は受験生です。私は、素行が悪くても、受験で合格点さえとれば受かるでしょ、と安易に考えていたのですが、結局内申点が足りなくて、全部落ちてしまいました。

この時のことを妹とよく話すのですが、高校の受験結果を知った母が車でぼそっと、泣きながら「人生終わり」って言っていたそうです。今では笑い話になっていますが、この時の話を聞くといつも心がちょっとチクッとします。

高校

結局、私は通信制の高校に入学しました。私が通っていた通信制高校は4年コースと3年コースがありました。4年コースは月に1回登校する以外はレポートを提出するだけです。この頃の私は、そもそももう高校とかも興味なくて、卒業さえできればいいやって思ってたので、通常コースだと4年かかることも知りませんでした。

高校2年始めくらいまでは、グレたままで、高校もあまりいかず、バイトばっかして、夜中遊び行ってを繰り返していました。こんな生活もまあまあ楽しかったのですが、ある日、父が末期癌で余命3ヶ月と宣告されました。

父とはグレて以来、2年以上、会話をしていませんでした。
この時の私は、ことの重大さを知りませんでした。

そんなある日、母に「後悔する前に病院に会いに行きな」と言われました。
しぶしぶ病院に行くと、痩せ細って、トイレに行くのも一苦労な変わり果てた父の姿がありました。私は言葉を失ってしまい、涙が勝手に出てきたので、とっさに隠れてしまいました。

衝撃的でした。でも、今更何を話せばいいのかわかりませんでした。
2年以上空いた溝を3ヶ月で埋めることは安易なことではありませんでした。徐々に会話する努力をしました。でも、時間が足りませんでした。父は宣告された通り、ちょうど3ヶ月で亡くなりました。

死ぬほど後悔してます。

どっかの小説みたいですが、父の死をきっかけに私は立ち直りました。このヤンキーが半分以上を締める高校で、人生を変えてくれる先生と友達にも出会えたからというのもあります。この2人がいなかったら、今の私はいないと断言できます。
ちなみに、この友達に一緒に3年コースで卒業しようって、誘われて初めて、あ、この高校そもそも3年じゃないんだと気付きました。

3年コースで高校に通っている中で、不思議とまた友達がたくさんできました。一緒に通信制高校に入った友達はみんな辞めていったので、中学校の友達はいませんでしたが、高校で出会ったこの友達たちがいたから、高校に通うことができました。ありがたいです。
先生と生徒も仲良くて、みんなで沖縄に修学旅行もいきました。楽しかったな〜

大学

通信制高校から大学への進学率は16.7%(2013年の調査)だそうです。
私は運良く指定校推薦をもらえたので、大学進学することができました。(私の前の年までは指定校推薦枠がなかった)

ちなみに指定高推薦枠は2枠しかなかったのですが、次のテストで全部8割以上取れたらあげるって先生に言われたので、死ぬほど頑張ったんですけど、全部は取れませんでした。でもなぜか推薦もらえたので、多分先生が話を盛ってたのでしょうが、今ではとても感謝してます。

大学は文系で外国語学科でした。死ぬほど楽しかったです。この頃から、AndroidやiPhoneを持ち始める友達が増えました。私も誰よりも早くAndroidにしました。この頃、ガラケー命と言っていた友達もいまではみんなスマホです。
ツイッターとかインスタYouTubeが流行りだしたのもこの頃です。ちなみに私のプライベートのTwitterアカウントは2010年6月に作成したものです。

カナダに留学も行けました。TOEFLのテストの点数は足りないし、英語は苦手だけど、とりあえず応募しちゃおうって応募してみました。応募すると面接があります。
面接官に「あなたは点数が足りてないけど、なんで応募したの」って言われたので、「人とコミュニケーションを取るとき、言語だけ使うんですか?人は心でコミュニケーションを取るものでしょう?」って一丁前にどっかのアニメの主人公みたいなこといったら、「ずいぶん楽観的なんですね」と言われました。

次の日の朝、友達から電話が来て、カナダ留学の合格者に私の名前があると教えてもらいました。ちなみにカナダへの留学枠は例年1人だったのですが、2人にしてもらったそうです。

就活

就活でやっと、エンジニアの話が出ます。

私は特にやりたいこともなく、漠然と海外とやり取りがある職業につきたいな〜くらいに思っていました。外国語学科ということもあり、旅行業界、航空業界を中心に応募していました。あと、商社とか。

そして、就活ではじめて、総合職の女性比率の少なさに気付きました。でもこの頃の私は、ジェンダーギャップとか、ジェンダーバイアスという言葉さえ知らなかったので、こういうもんなのかと思ってました。

地方出身なのですが、東京で働きたいという目標だけは明確だったので、始発のバスで東京にいって、面接を受け、午後帰ってきて、授業に出てバイトに行くというハードな生活を送っていました。

そんな中、SIerも何社か説明会や面接にいっていました。多分、父の影響です。当初は、女性でエンジニアってめっちゃかっこいいな。という安易な考えでしたが、そのエンジニアがかっこいいってイメージってどっからくるの?って、考えたら父しかいません。ちなみに、この時、私はWeb業界があることさえ知りませんでした。

最終的に、地元が本社で東京にも支社があるSIerの会社に内定をもらい、ここに就職することに決めました。

新卒入社

内定者は10人で、半分が女性でした。でも全体的な女性の割合は2割でした。

最初のプロジェクトはVB.netで開発でした。設計もやったし、テストもやりました。JavaとかC#で開発したりもしました。でも経歴書にかけるほど長くはやってなくて、全部3−6ヶ月くらいの経験でした。多分、私の開発の基礎はここで培われています。でも、別に開発は好きじゃなかったです。技術とかも特に興味なく。

今でも覚えてるのですが、当時お子さんがいて、時短で働いている女性が3人くらいいたのですが、みなさん優秀でした。でも、時短には1年というルールがありました。1年では足りないので、3人とも2年目から時短勤務ではなく、早退扱いにされていたらしく、給料があまりよくなかったそうです。(詳細はわからないですが。)ここで、初めて闇を感じました。

こんな感じで、ちょっと体制の古い会社だったので、有給取ったり、9:00すぎにカロリーメイトを食べると怒られました。なので、職場活性化委員のメンバーになって、オフィスグリコを社内に置きましょうって、本部長とかにプレゼンして、実現させた1ヶ月後くらいに転職しました。

ちょっと余談なのですが、新入社員歓迎会のときに、こんなやりとりがありました。

部長:「俺も知り合いにだむはさんと同じ名字の人いるんだよ〜」
私:「私の父かもしれないですね!」
部長:「多分違う人だよ、もうその人亡くなってるんだ」
私:「・・・それはきっと私の父です。涙」
部長:「嘘だろ、、、涙」

私は父と一緒に働いていた人と働けていたらしいです。

転職

2年半くらいで1社目を転職して、私はインフラエンジニアになりました。いまだから言えるのですが、働きやすさと給料を重視して転職したので、転職してからインフラ中心の会社っていうことに気づきました。

2社目は女性のエンジニアがかなり多くて、私の上司である部長も女性でした。はじめてロールモデルとなる女性に出会いました。

この会社ではエンジニアというよりはマネージメントとか運用・保守などの業務が多かったです。自分がPLとして中心になって、お客さんと要件定義をするPJもありました。

普段は打ち合わせに行くと、基本私の目をみて話す人はあまりいません。男性の上司を見て話す方の方が多いです。そういった経験もあるので、自分が客先に話に行く時は毎回緊張します。心のどっかでナメられないようにしないと。揚げ足取られないようにしないとって思ってます。

服装も考えます。スカートの方がいいのかな。あまり、リップの色強いとダメだよね。ヒールを履いた方がいいかな。とか。私だけかもしれませんが。

最終的にレガシーな環境の客先で運用保守の副リーダーとして常駐することになりました。スマホ持ち込みも禁止だし、モニターはよくわからないやつ使ってるし、薄暗いし、環境はあまり良くなかったのですが、めちゃくちゃホワイトで、残業なんてほぼなかったです。
ただ、めっちゃ暇でした。私は、決められたことをやるのは得意みたいで、その日にやることは大体午前中に終わっちゃうレベルでした。

なので、自分のことを考える時間がとても多かったです。
このままここで、このつまらない仕事を続けるのか?でも、安定してるし、有給もとり放題だし、残業ないし、給料高いし、このままでいいのでは?でも、自分が今持っているものって何?
とかとかとか。

で、わたしはWeb系エンジニアになることに決めました。すぐにMacBook買いに行きました。それが転職して1年半くらいのときです。

そして、今

転職すると決めて、100社以上受けて、今の会社に内定をもらいました。私のWeb系エンジニアとしての始まりです。これが2020年8月のことです。

RailsReactで開発したりしてます。実際にユーザーが使うサービスを作るって楽しいです。個人で「sister」というサービスも作りました。「sister」についてはまたどこかで記事で書いてみます。

入社したばかりではあったけど、年に1度の社内表彰で賞ももらいました。とても嬉しかったです。

私の人生はきらきらしてない

女性のロールモデルとしてあげられている方は、きらきらしたり強い方が多いと思います。もちろん、憧れるし、参考にもなります。でも、落ち込む時もあります。生まれ持ったものか、、、とか、もう大学から違う、、とか、もう新卒で入社した会社が凄すぎる、、、とか。

でも、私みたいな経歴もあります。高学歴でもなく技術にめっちゃ特化してるわけでもなく何か結果を残しているわけでもないです。ロールモデルってほど大層なものではないですが。

でも、いま、こうやって自分の足でどこでもいけるようになりました
こうやって自信をもてるのは、エンジニアという職業をやっているからでもあると思います。一人の足で立ててます。

私は父が急に亡くなったので、収入を一本化するリスクがどれだけ大きいかを見てきました。だからこそ、一人になっても、生きれるよう技術を身に付けたいという思いがあって、最終的にWeb系エンジニアになりました。

おわりに

ゐろはさんの記事をリスペクトして、同じような構成で、私も自分がエンジニアになるまでを自分語り風に書いてみました。

女性のエンジニアが増えるといいなと私も思ってます。私のキャリアというか、ほぼ人生ですが、これがエンジニアを目指すきっかけになったり、ハードルをさげれればいいな〜って思います。

長くなりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございます!!

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