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安全圏からでも悲しいニュースは見たくない、そんな私にもできること。

小学生のころ、新潟中越地震のニュースを見て「自分の周りも、こんな被害にあったらどうしよう」と怯えていた。

あれから二十年近く経つけれど、私は全く変わっていない。

メンタルが弱すぎて、ニュースに心が左右されてしまう。

一月一日、能登半島で大きな地震が起こった。
私は実家で、のんきなお正月を過ごしていた。地震速報が鳴って、少しだけ揺れたものの、千葉にいる私には、ほぼ影響はない。それでも震度はいくつか、震源はどこか気になったため、母がニュースをつけた。
想像以上に大きかった地震は、当初の想像以上に影響を及ぼした。こうした自然災害への意識が高い母は、その日から頻繁にニュースをチェックしている。
何メートルの津波があったか。非難している人はどのくらいか。
家族を失ってしまった人は、どんな気持ちでいるか。

しんどかった。この国のどこかで起きていること、自分の身にも起こりうること。目をそむけてはいけない、新しい情報を得なくてはいけない。
それでもどうしても、心が苦しくなってしまう。

ニュースは見られなくても、私にできることはある。

けれど、と私は思う。
情報を得ることは大切だ。けれど自分に関係ない情報を得すぎて、気持ちを左右されてしまう必要はないんじゃないか。
情報過多な現代社会では、起こりうることだ。実際私はメンタルが本格的に病んでからは「あれも自分を傷つけていたのか」と、いわゆるニュース断ちをしていた。
三年前の私は、周囲と話題を合わせるため、なによりWebライターとして情報を集め、いい文章を読むため、Webメディアを読み漁っていた。けれど多くの情報に触れていると、どうしても疲れてしまうし、マイナスな情報や強い言葉に気持ちを引っ張られてしまうのだ。

もちろん、自分の身に被害が起きたときは、情報を集めなくてはいけない。けれど自分を守るための、必要最低限の正しい情報があればいい。そして自分を守るために、普段から備えればいい。
だから私は、これを機に防災セットを買った。ポーチ型だから、お守りとして鞄に入れておける。

どのくらいの被害が起きたかも、知っておくべきだとは思う。けれど具体的な被害や人の気持ちに注目するには、私の心が弱すぎる。それでも「できるだけ多くの人に、無事でいてほしい」「一刻もはやく日常が戻ってほしい」という思いがある。
だから少しだけれど、被災地に募金をした。被災地になにが必要なのか、安全な場所にいる私にはわからない。だから現地の人が必要なものを用意するための助けに、ほんのちょっとでもなってほしい。

これが正しいことではない、という人もいるだろう。けれどニュースを見るのがつらい私にも、自分を守り被災地の無事を祈るため、できることはあるのだと思いたい。
この記事が、私のように悲しいニュースで心を痛める人に届きますように。

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