『正解』を述べ給え!

噂によると、非常に不本意ながら、世の中には確定している『正解』とやらが存在するらしい。数学などはその最たるものである。定められた公式を用い、正確な答えを出す。正誤を検証するために遥かなる昔から学者たちが喧々諤々の議論をし、「果たしてこの問への正解を導くための公式はこれでよいのか」を行ったとか行っていないとか。
小学生のときに分数の割り算で躓き、数学の高みに繋がる長い道のりをかなり序盤で投げ出してしまった俺にはわからない話である。急にひっくり返される分数の気持ちにもなってみろ。そんな非人道的なことは恐ろしくてとてもできない。まあ人じゃなくて数字なのだけれども。

しかし、世の中すべてが公式から導き出される答えばかりではない。昨今、「思ってたのと違う!」という言い回しをよく聞く。俺にも経験があるし、なんなら世の中はそんなことばかりに思う。
溢れかえるビジネス横文字で『アジェンダ』といえば中南米で発売される新しいビールであり、『デジタルトランスフォーメーション』といえば、新しい戦隊モノのロボットが合体するときの掛け声である。これが俺の「思ってたの」だし、正解は違うらしい。俺にはよくわからない。分数の割り算くらい、よくわからない。

言葉は物事や概念、動きや物を表す優れた道具ではあるが、日本で有名な、あの瓶やらペットボトルに入った水で薄めて飲む乳酸菌飲料の名前だって、英語圏に行けばその名は牛の小便である。カウピスである。
答えが明確に求められる事象ばかりではないということだ。そういうことにしておかないか。でないとこの先の文が書けなくなってしまうから。

俺は世間一般で正解と呼ばれる定石をことごとく外し、また定石をなぞることを潔しとせずにここまで生きてきた。きっとこれからもそうに違いない。でも、だからどうだというのだ。それは必ずしも『不正解』を意味しない。
あなたが思ったことと世の中が違うことだって、ごまんとあるだろう。そして世の中とあなたの考えが違っていても、人生の不正解を意味しない。俺もそうなのだ。同じことだ。そうとしか言いようがない。別に、後に正しい意味を知ったとて、あなたが間違っていたという証左はない。なぜなら人生を生きる意味が明確に求められていない以上、当てはまる公式など存在し得ないからである。
ここまで読まれた方には、俺の論理がおかしいと思われるだろうか。思われてもいい。飛躍は得意なのだ。高く飛べ。

正解は様々な形をしている。この世はすべて公式から導き出される答えばかりではないと先に書いた。例えば人の気持ちをあえて『正解』と置いた場合でも、その人の性格という『公式』から100%確実な答えが決まっているとは限らない。気分、予定、天候、昨日の夕飯など、様々な要素が複雑に絡み合って、人間の気持ちはできている。いつもならハンサムで水が滴り河川の増水、ひいては決壊を招くような男が好きである女も、なぜか米俵みたいな男と結婚したりする。これを間違いだと咎められる人間はこの世に存在しない。結婚した女本人だけは間違いだと数年後に思ったりすることもあるだろうが、その時の正解はそうだったのだ。間違いだと思わなければいいなと個人的に思う。俺はすべての人間の幸福を願っているからである。

外見を例に出したので、俺の偏見とも呼べる見解を記しておくと、意地悪そうな顔の人間は意地悪だし、ヤバい目をした人間はヤバいし、昼間から無印良品に入り浸るマッシュルームカットの大学生は年上女性との出会いを求めてその場にいる。別に本当の正解を知ろうとは思わない。俺の正解がそうであるという話だ。

すべてに正解があるわけではないことを述べた。本人なりの正解があることも先述の偏見の通りである。が、しかし、分数の割り算の如くひっくり返せば、自分も誰かの正解や不正解の目で見られているというわけなのだ。
俺が意地悪そうな顔をしていれば、相手は俺のことを意地悪な人間だと思うだろう。俺がヤバい目をしていたら、相手は俺のことをヤバい人間だと思うだろう。無印良品には行かないからわからない。
つまり、そういうことなのである。だから外見や態度に気を使い、自分以外の人間に、「自分は意地悪でもヤバくもないんだ」という説得力を持たせなければならないのである。気の使い方にもいろいろあるが、俺がことごとく外してきた定石というものを、何だかんだある程度理解はしているため、今は一般的な生活をし、職場でも普通に人と接することができている。

自分には正解があり、相手にもまた正解がある。それは時に思い込みだったり、誤解があったりする。ありはするが、お互いに歩み寄り、お互いが『正解』だと思える人間関係を構築しようよというのが本稿の意図である。
俺は思い込みの強い人間だ。そうであっても相手を好意的に解釈する努力はするし、困っている人を助ける世の正解を美しく思う。逆に誰かを虐げる者を忌々しくも思う。誰も彼もそうなれという意味ではない。俺はそう思うという話である。

俺は人間を愛しているし、愛されたいとも思っている。相手の正解に近づくための努力が必要であれば、これを厭わない。なぜならば、人を愛し、人から愛される人間になるのは俺にとって最も真理に近い正解であるためだ。
このような唾棄すべき文を書き連ねている限り、最も真理に近い正解はジリジリと後退りして、決して手の届かない、それこそペテルギウスあたりの隣くらいにお出かけになってしまうことも重々承知の上である。
それでも辞めないのは、これもまた俺の『正解』だからなのだろう。

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