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トランスジェンダリズムとは?…12

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ジュディス・バトラーがそう言っているのか

「カリフォルニア大学バークレー校の著名な社会構築主義者であるジョン・サールとジュディス・バトラーは(中略)社会的事実を人間がつくり出した幻覚のように捉えています。(中略)バトラーはジェンダーだけでなく、性(セックス)についても幻覚を見ていると考えています」。

 そう語るのは、最近、日本のテレビにも特集された、哲学者のマルクス・ガブリエルです。はて、ジュディス・バトラーはそんなことを言っているのでしょうか。

 対談集『ラディカルに語れば...』で、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』について語る章(対談/上野千鶴子・竹村和子)を読んでみました。この本は脚注がめっぽうお役立ちです。脚注を引用します。

社会構築主義とは:
「社会構成主義、社会構築主義とも呼ばれる。あらゆる現実は言説によって構築されるととらえる認識論・方法論であり、20世紀後半以降の思想の底流をなす。特にフェミニズム理論においては、性差を不変的・普遍的な実在とみなす『生物学的本質主義』を乗り越え、なおかつジェンダー構造の変革の契機を理論化しようと模索する中で、社会構築主義が練磨されてきた。ジュディ・バトラーの理論は社会構築主義の一つの到達点とも言える」。

 バトラーについては、「生物学的性差(セックス)をジェンダーによる構築物と主張することで、『性差は生まれか育ちか』という不毛な論争に終止符を打った」と書いてありました。合わせて考えると、「生物学的性差は作られたものだ、だったら差別はなくせる」ということになりますよね。
 だとすると、当時(『ジェンダー・トラブル』は1990年刊)は女性にとって、希望の光となる学説だったのかもしれません。

クィア理論とは:
「クィアとはもともと『変態』の意味。クィア理論という用語は、1990年代初めにテレサ・ド・ラウレティスが、アイデンティティを前提としがちな従来の『レズビアン/ゲイ研究』にかわって提唱した。クィア理論は異性愛主義的なセクシュアリティを構築する言説を問題化し、規範を撹乱する『クィア』なパフォーマンスを追求する」。

 そう言われて脳裏に浮かぶのは、「趣味や道楽でエロい女体を追求する、オートガイネフィリアこそがクィアで、家父長制を撹乱する最先端のトランスだ! アイデンティティなんて知るか、なんでもありや!」ていうイメージ。 間違ってる? でも結構見かけますが?

 次は、対談での竹村さんの発言。

竹:「社会構築主義が陥る陥穽は2つあると思います。一つはすべてを言語の問題とすることです。...すべてが言語の問題になると、その言語体制(つまり文化)をちがうものに変更する契機がなくなるというものです」。

 言葉が社会を構築するからといって、言葉さえ変えたらいいんだ、というのでは文化や言語体制を変えようとしなくなっちゃうかも、ということですね。でも今TRAがやっているのは、言葉を変えろと、主に女性に対してクレームつけまくる運動のようなんですが。
 ほなこれ、あかんやつとちゃいますの。

竹:「もう一つは、全てを選択の問題とすることです。本質的なものはなく、すべては後天的に言語によって与えられたものなので、ひとは自由に選択できるという考えです。わたしは両方ともまちがっていると思います」。

 TRAは、自由に性別をトランスするという主張だったのでは? 間違っているなら、学者さん、誰か言うてあげなあきませんやん。(竹村さんは2011年に亡くなられています)。

竹:「(なぜ間違いかと言うと)、社会構築主義の眼目は、社会構築されたものであるにもかかわらず、『事実』や『本質』として詐称されていることをあばくことだからです。事実や物質という『基盤』が実は基盤ではない。だから事実や物質として基盤化するには、たえず言語によって構築しなければならない」。

 確かに、子どもを産む性だから女はこれこれの性質を持っているだの言われてきたんだから、当たり前と思われているものを疑うのは大事なことですよね。そこまではOKです。

竹:「構築されるものは、たいていばかばかしい公理です。女は産む性だとか、異性愛は生命の再生産をおこなうものだとか。けれども、卵子だけでは次代は生まれません(クローンの技術が完成しないかぎり)」。

 え?女が産む性だという事実がばかばかしい公理って、なんじゃそりゃ。女性の体も言語によって構築されたものと言いつつ、結局、性別のある体を再構築するにはサイバーサイエンスの発展を待つしかないということですか? あんまり希望が持てない感じ。

 生物学的性差(セックス)が言葉によって作られたものだと言われると、思わず「生物学とか科学とか知らんの?」と呆れそうになりますが、この方々の言う科学は、自然科学じゃないらしいと小耳に挟みました。自然科学的事実がどうであれ、要は実在をどう認識するかの認識論なのだと言われたら、自然科学の方ではなんともよう言わん、てなことになるんですね(社会科学だとそうなの?)。
 TRAは、トランス女性のペニスは「レディーディック(ディックは男性器のこと)だ」とか「大きなクリトリスだ」とか言うみたいですから、そういう類の話になるのかもしれません。だとすると、なんでも解釈次第なわけで、はっきり言って無敵の論理ですね(まったく褒めてない)。

竹村さんはこんなことも言っています。

「(バトラーのした仕事によって開けた新しい地平の一つは)フェミニズムは『性的差異の平等』のために闘うのか、それとも『性的差異の廃絶』のために闘うのかという、フェミニズムにとって古くて新しい問題を前景化したことだ」。

 おや、「差異はあるが、差異を認めて平等に」派と「差異があるから差別されるんだ、だから差異はないってことで!」派の2つで、決着がついてないんですか。バトラーが「『性差は生まれか育ちか』という不毛な論争に終止符を打った」んじゃなかったんですか。で、バトラーや社会構築主義のフェミニズム学者の考えはもちろん後者なんですよね。

 私は差別問題とは、てっきり「みんな違ってみんないい」の方向で解決していくものだと思っていました。
 つまり、こうです↓

「差別は、差異に否定的な価値観を付与し、特定の属性を持つ集団の基本的人権が侵害される状態のことです。差異を科学的、客観的、合理的に区分するのは、差別ではなく区別で、ふたつは大きく違います。(中略)差異をなくすことが差別をなくすことではないということ。差異を認めることが差別をなくすことなのです」
(『差別の刷り込みを自覚する』小林健治/週刊金曜日1274号)


構造主義、ポストモダンって何?

 ここらで、社会構築主義、構造主義、ポストモダンとか(みな似たようなもの?)について誰かに教えてもらわねばなりません。

 『寝ながら学べる構造主義』(内田樹)を読みました。全然、寝ながらは学べませんでしたが、わかったことは、マルクス、フロイト、ニーチェ、ソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロースと時代を経るにしたがっての、物事の捉え方の変化です。

「意識」「主体」から「規則」「構造」へ。
「人間中心主義」から「脱人間中心主義」へ。
 普遍的なものはなく、すべては相対的なもの。

 つまり、「今、ここ、自分」中心主義をことごとく「そうじゃない」とひっくり返し続けたのが構造主義だ、というのがざっくりとした私の理解です。

 これが流行ったのにも時代背景があるようです。『未来への大分岐』(斉藤幸平/マルクス・ガブリエル他)を読みました。


 普遍的理念というものが、そもそも西洋中心の白人の異性愛者の男性のものであって、そのダークサイドをあばいたのがポストモダンだったのです。
 「今、ここ、自分」中心主義というのは、「欧州・男・白人・ヘテロ(異性愛者)」中心主義のことでもあったんですね。第二次大戦後、植民地が次々と民族独立していったことは、教科書で習いましたっけ。

 しかし、ポストモダンは行き過ぎてしまい、客観的なものは何もない、というところまで来てしまいました。
 普遍的な正義はなく、「どっちもどっち」という相対主義です。社会構築主義は、人種、ジェンダー、民族について当たり前と思われていたことを「そうじゃない」とあばくことで、社会変革の可能性を切り拓いたのですが、理論による解釈だけで解決するかのような考えに陥りがち、という欠点があります。なぜなら、「社会構築主義は実在のあるところに実在を見ないから」です。


「現実を見ない無抵抗主義」と批判

 マーサ・ヌスバウムの『パロディの教授』という論文(書評?)を読むと、こんなことが書いてありました(以下、私なりの要約です)。

 バトラーの言っていることは曖昧で、有名人の名前を出しまくってほとんど意味が掴めないし、本当は中身の肝心のところが空虚なんだけど、難解で高尚っぽく見えるから、勝手に周りがいいように解釈してくれちゃう。
 そして、フーコーはまだしも、圧迫された人の立場に立つこともあったけど、バトラーは正義なんてないと言って、現実の生活を見ない。バトラーは、無抵抗主義でその上、法的にヘイトスピーチやポルノグラフィを取り締まったら、それらに対して抗議する人たちの、抗議する機会を減らしてしまうと言って(はっきりと反対と言わないが)反対する。現実を変えてきたのは、パロディ的パフォーマンスなんかしないフェミニストたちだ!...という身も蓋もないバトラー批判でした。

 「社会構築主義は、人々から現実を見る力と問題に対応する力をそいでしまうのです」とマルクス・ガブリエルも言っているので、まあ、たぶんその通りなんでしょうね、と妙に納得してしまいました。
 あれだけ女子トイレ問題はトランス差別じゃなく、男性による性暴力被害の問題だと言っているのに、まったく信じないのは、そのせいだったのかも。

《つづく》


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