見出し画像

テニミュ3rd立海を観ての、今年の目標など

 何事も自分で観て聴いて考えてから、扱い方を決めないといけないなと思った話。そして2020年はそんな自分になりたいと思った話。

 2019年8月1日に、ミュージカルテニスの王子様3rdシーズン全国立海前編を観に行った。佳境も佳境、まさに最終決戦というその試合が、私の人生初の生テニミュだった。

 私のテニミュ全体についての感想は、『ごめんなさい』という謝罪の言葉から始まる。批判もお叱りも甘んじて受けようと思う。見もせずに、発展途上の新人さんばかりで構成された、空耳が有名な作品とばかり思っていたから。伸び代のある子たちを、伸び代を楽しみにできる人たちが応援するものだと思っていたから。

 蓋を開けたらとんでもなくて、それまでの自分の顔面を、ゴツゴツしたアスファルトに力の限り叩きつけて、全方位に謝らせたい気持ちになった。実際、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も心の中で唱えた。そして、こんなに楽しいものなのかと、びっくりして泣いた。

 観もしないで評価するってことを、成り立つはずもないのに、わたしはどうしてやってしまうんだろう。

 きっと、リスクを避けるための言い訳にしたいんだと思う。お金と時間をかけて観たものが自分に合わず、『お金と時間の無駄だった』などと思うことを、なんとか回避したいんだろうなと思っている。

 「○○って聞いてるし」
 「みんな□□って言ってるし」

 こういうものを盾にしておけばすごく安全だ。そして、弁えて行うのであれば特に悪いことでもないとも思っている。口コミを参考にして避けるのは一つのやり方で、全然間違っていない。

 ただそういった世間の評価や声をいついつまでもアップデートさせないまま判断材料にしたり、ごく一部の意見を全体のものであるかのように捉えて飲み込んでしまうのは、己の視野が狭まるからひどく勿体無いことなんだと、気がついた。

 私はテニプリ連載初期くらいにコミックスで読んでいた世代なので、舞台化についての世間の「まじで?www」というような反応もみてきたし、自分もそっち側にいた。これはねぇ、嘘をつかないで素直に認める。

 「ボールも無しにラケットを振るんだって」

 ただその情報だけで間違いなく小馬鹿にして笑っていたし、そういうことで笑わなくなったあとも、有名すぎるがゆえになんとなく触れないままだった。触れなくてもいつもどこかでテニミュという作品名を見ていたから、当たり前にあるものみたいになっていたんだと思う。意識しなくてもそこにあるから、意識して観に行こうとはしなかったもの。

 自分が行った前編のチケットも、友だちの分を取ろうと思って一般で買ったものだった。友だちは友だちで確保できていたので、

 『じゃあそれなら自分で行こうかな、友達の大好きな作品だしな。観たら話もできるな』

 と考えて軽い気持ちで観劇を決めた。その年の春に観た作品にテニミュ出演者たちが沢山いるのは知っていたし、その作品をきっかけに知り合ったフォロワーさんがテニミュを深く愛していることも知っていたので、観ないわけにはいかないな〜とも思っていた。
 
 まだこの時もよくわかっていなかったから、テニミュを見たことのある他の友達たちに、

 『ほぼ無知な自分が行っても楽しめるのかな?』

と聞いて回っていた。返ってきた答えはいずれも

 「楽しいから行っておいでよ」

という類のものだったので、安心してスケジュールに入れたことを覚えている。

 下手側サイドシートのその席は、購入時から知らされていた通り、ステージの一部が見えない場所だった。でもまぁいいかと全然気にならなかった。どのみち思い入れも無いので、気楽に楽しく観ようかなとそう思って腰をおろした。

 細かいことはあやふやだったりするんだけど、幕が上がって、大勢のキャストさんが堂々たる立ち姿で歌い始めたときに、頭をガンと強く殴られたような衝撃を受けたのはハッキリとしている。ヘラヘラしてた己の心がシャッキリするのがわかったし、これはものすごく楽しいものなんだって全身で理解した。
 歌もお芝居も、完成されているかどうかは判断できないけれど、少なくとも『未完成の若手のパフォーマンス』なんかじゃ全くなかった。もっと高いチケット代を設定しておいて、なかなか強気なことをしてくれたもんだと愚痴の一つや二つ溢したくなる作品というのはやっぱりあるもので。テニミュは、それらが束になってもたぶん敵わないんだろうなというくらい、胸を打つものだった。私にとって。


勝つぞという決意があった。
負けぬという熱意があった。
演技と競技の境目は、ほとんど無かったように思う。


 ミュージカルであったこともすごく気持ちが良かった。盛り上がるところで(欲しいと思うところで)しっかり歌が入るし、どこかの学校やキャラクターにだけ偏って歌唱シーンが与えられていることもなく、上演時間の中で歌唱が占める割合も大きかった。音楽センスがマイナスに振り切っている私なのでメロディ覚えるのが本当に苦手なんですが、テニミュの曲は一発で残るものが何曲もあり、素直に感動してしまった(音痴に優しい!)。

 試合は手をギュッと握って見守ってしまったし、歌はじっと聞き入ったり、手拍子をしたりして心から楽しんだ。アドリブのコミカルなところもすごく楽しくて、毎公演変えているであろう役者さんたちの工夫と『お客さんを楽しませるぞ!』という心意気には頭が上がらないなと思っている。

 とにかく楽しくて、

『楽しかった!!楽しかった!!!』

ってTwitterに書きまくったし、行く前に相談した友達にも「楽しかったよ〜!!」と報告をした。後編も絶対に行こうと決意を固めて劇場をでて、足取りと心軽く家に帰りました。

 もう一つテニミュで感動してしまったのは、二次元を三次元にすること、生身の人間が演じる意味を、見せつけられたこと。
 悔しがる声だったり、なにか言いかけて口をつぐんだあとの表情だったり、滴る汗だったり、何気ない仕草だったり。二次元の情報に三次元の『感情』が添えられた時にものすごいパワーを放つってことに、心を打たれた。

 もちろん漫画も(そしてアニメにも)各々の素晴らしさがある。絵の自由さ、アニメの自由さ、舞台の自由さ。全部それぞれ違うし、その反対の不自由さも、全部違うだろうし。
一つの作品を多角的に観られる(見られる・読める)というのは、めちゃめちゃ贅沢で幸せだなぁと思いました。



 長くなりました!まとめると、何事も自分の目で観て耳で聴いて心で感じて頭で考えてから評価しましょうということ。もちろんいつでもできるわけではないから、できないときは、せめて感じることがあっても身勝手に発信しないようにすること。これを2020年の目標とします。冒頭の繰り返しだね。

 以上が3rd立海前編の思い出を踏まえて考えたことです。
 以下は2019年12月31日に後編を観ての感想。Twitterにボトボト落とした言葉たちの焼き直しです。
(これまでの文章作って疲れたから新しく書けなかった)

※私はコミックスは関東立海くらいまで読んでます

 私ね、全国立海読んでないから天衣無縫とかきちんとわかっていなかったので、作品の途中で
『テニスを楽しむ気持ち』
なんだなって気付いた。それで
「あれ?そしたらこれ、立海メンツ今のままだと誰もたどり着けんやん」
って考えてたんだけど、ドンピシャ当たってて爆泣きしてしまった。

 勝ちたい気持ちが勝利を遠ざけるってなんて残酷なんだろうなと思うし、人間離れした技やらなんやらガツガツ出してた許斐さんが最後にもってきた最終奥義が『テニスを楽しむ』ことって、ほんまにずるいなと思ったよ。

 「見えないボールなんかない」「消えるボールなんかない」って言わせて、最後に勝つのは『楽しむこと』って、本当に『誰しもが行き着けるけどほとんど誰も立ち返れない原点』じゃんね。ズルすぎるなぁ。

 あとは、映像で観させてもらった関東立海編のの幸村の聞き分けというか、己の現状の受け入れ方がさ、やけに不自然というか聖人過ぎて怖かったんだよ。
『お前さん嘘やろ?!』
って思った。一人だけテニスできひんねんで、普通暴れるか仲間のこと遠ざけるやろ?!!?!って思ってて。

 そこからの後編の、幸村(真田?)の回想の、「テニスの話はやめてくれ!」という声を聴いて全部繋がってすごくしんどかった。
あーそういうの乗り越えてからの、

「苦労かける」

であり、

『幸村の帰りを待って勝ち続ける』

だったのねーーーって思ったら、無理ーーーーってなった。立海のしんどさをやっと、心で理解した3rd立海後編でした。

※理由はわからないけどものすごく好きになってしまったさなだげんいちろうのクリアファイルなどを友達に引き当ててもらって喜ぶオタクの撮影した写真です


 最後に。私にテニミュの楽しさを教えてくれて、観ずに避けてた阿呆な自分から卒業させてくれた友達たちには本当に感謝しかないです。とくに、一緒に観てくれた友達、私の世界を広げてくれて本当にありがとう!あなたのおかげで最高の2019年の締めと、2020年の始まりを迎えられたと思っています。

 読んでくださってありがとう!では、また!

観た日:
2019年8月1日(前編)
2019年12月31日(後編)