斬月が舞台になった意義、ヒーローショーではなく、舞台作品になった自分なりの意義を考えた話。
「仮面ライダー」シリーズ初の舞台化作品、観に行って参りました。
個々の役者さんやキャラクター、お話への感想については、たくさんの素晴らしい文章がいたるところに溢れていたので、
特撮作品であったものが、舞台作品として世に出された意義というものを、考えてみました。もちろん個人の感じ方です!
(作品の細やかなネタばれは無いです)(詳しい解説も無いです)
生きた貴虎がそこにはいた。
初回を観終わったあと、シンプルに、こう思いました。
そしてこれが、何よりの醍醐味でした。
アーマードライダー斬月は何度か劇中に登場していましたし、最終的に新フォームへの変身をも遂げていたけれども、
ほかの方の感想でも目にしましたが、この舞台は、貴虎という、"人間"を描いた作品だったと感じています。
プロジェクションマッピングや豪華な舞台セットは用意できても、生身の人間には、演じる「限界」というものがあります。アニメのように光に包まれて衣服が変わるなんてこともないし、手に力を込めたって武器は現れません。素の人間では実現できないものが、たくさん存在しています。
でもそんな"限界"なんてどうでも良くなってしまうほど、この舞台作品は生に溢れていました。
あの期間、東京と京都の2か所において、単純なヒーローと怪人の戦いだけではない、重みのある、人間による人間ドラマが展開されていたように思います。
映像編集による加工なんて一切ない、演者さん一人ひとりの生きた表情と呼吸。回を追って深みが増していく演技。
舞台の上には、その日その瞬間にしか出会えない貴虎が存在していました。
映像編集という名の、第三者のフィルターが介されていない貴虎(もしくは雅仁、もしくはパイモン、グラシャ、フォラス、もしくはアイム)を見ることができました。
そしてその呉島貴虎と同じ空間に我々が存在し、彼の身に起こったこと・彼の苦しみ・決断・戦いを"共にできた"ということ、生き様を文字通り目の当たりにできたこと。珠玉の経験であったと感じています。
「呉島貴虎が、そこにいた」
舞台斬月が、舞台作品として作られた、私にとっての意義。
終演後の帰り道、この一言を口にできたこと、これに尽きるなと思っています。
仮面ライダー斬月本当に楽しかったです。
気が付いたらチケットどんどん増えていました。
読んでくださってありがとう、ではまた。
見に行った日:
2019年3月29日(金)昼/夜公演
2019年3月30日(土)昼/夜公演
2019年3月31日(日)昼/夜公演