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高階秀爾箸『世紀末芸術』の覚書

 世紀末芸術(1870〜1910年頃の芸術運動の総称)という言葉から、象徴主義やアールヌーヴォー、ウイーン1900などの芸術運動を想起する人が多いのではないか。この時代、新古典主義やロマン主義を乗り越え、自らの理想とする美を表現しようとした人々が上述の芸術運動の名のもとにカテゴライズされている。高階秀爾の『世紀末芸術』は、そんな彼らがどのような時代背景から制作に及んだのか、その科学的、文化的、宗教的背景からまとめている。

 なぜ私がこの本を読み、noteを執筆しているのか。それは現在、モローと彼の作品である《サロメ》に魅了され、研究し、その沼にハマってしまった為である。”サロメ”という題材に頭を悩まされる日々が続いており、まさにファム・ファタルな女性に取り憑かれ、運命を狂わせられている。その沼から抜け出す為、本書の力を借りたのだ。以下、覚え書き程度に本書のまとめを記し、私の考えも残していく。

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【芸術の目的の違い】

トルストイ:芸術は、人が見て感じたものの伝達手段

ワイルド:芸術は、芸術表現以外の目的を持たない

あなたが芸術家ならどちらの考えに賛同するだろうか。あるいは第三の道とはなんであろう。


【第2ルネサンスとしての世紀末美術】

第1ルネサンス:15〜16世紀における皆さんよくご存知のルネサンス。写実を極める運動であり、その後の芸術表現の礎とになった。

第2ルネサンス:19世紀末の世紀末芸術。第1ルネサンス以降が極めた写実の否定。同時代の印象派は写実に属するとされ、世紀末芸術に分類されない。印象派は主観的レアリスムで、写真は客観的レアリスム


【平和がもたらした表現?】

 1870〜71年の普仏戦争以降、1914年の第一次世界対戦の間はヨーロッパの国同士で大きな紛争は起きていない。前後の歴史に比べると安定した平和な時代であった。そこからの50年は国家間、大陸間での世界対戦が起き、この本が発行された1963年頃まではほとんど世紀末芸術は注目されていなかった。しかし、このあたりから徐々に世紀末美術は注目されるようになり、1960〜1975年の間で200以上の展覧会が各国大都市で催される。この時代も国家間の大きな紛争はほとんどないといえよう。さあ、いまはどんな時代だ。世紀末美術が受入れられる時代なのか。


【建築と博覧会】

 建築に用いられる素材が、レンガから鉄やガラスを使うようになった。その後セメントも開発され、鉄筋コンクリートが見出される。しかし、建築様式が新たな造形に至るには少し時間がかかった。それは”水晶宮”にガラスが用いられたが建築様式は前時代の模範に過ぎない点からわかる。以上から、新たなテクノロジーが生まれてもその扱われ方が旧式である場合、その旧領域を出ることができない。現代アートにも言える。

 博覧会は短い期間で開催される為、建てられた建造物はすぐに取り壊され、多くの場合保存されない。この特性を活かし、建築家にとっての実験の場となった。何十年以上も残ることを想定された一般的な建築で思い切った試みができない中、博覧会は大胆な事ができる。ここから新たな建築が模索される。


【”アールヌーヴォー”はイズムの定義が能動的である】

 ”アールヌーヴォー(仏)”は新たな芸術という意で、それに関わる人が付けた名である。同時代の”モダンスタイル(英米)”、”ユーゲントシュティエル(独墺)”、”スティーレ・リバティ(伊)”、”アルテ・ホベン(西)”はそれぞれのニュアンスの違いはあれど新しい、若い、自由な芸術表現を目指す点で同様である。加えて、その名称を活動者自身が命名している点が共通項として挙げられる。印象派、フォーヴィスム、キュビスムのような外部から与えられた名前でもなく、古典主義やロマン主義のような後世の歴史家に付けられた名称でもない。つまり、アールヌーヴォーこれらの1900年の芸術運動は、自発的、能動的な活動であり、自らの強い意思を感じる。


【美術批評の隆盛】

 18世紀中頃、サロンが軌道に乗り世間に認められるようになると、そのサロンと観客(市民層)とを結びつける形で批評が盛んになった。そして、19世紀末にはより多くの専門誌が発行され、芸術を同定する役割を担ったと言えよう。加えて、これらの美術専門誌は芸術家と協力し、その活動を押し進めた点が興味深い。ドニ、ボナール、ロートレックなど多くの芸術家の作品がその紙面に掲載され、大衆の目に触れた。

 この流れで、多くの批評が生まれたが、全ての文章が芸術の為のものであったかと言うとそうではない。単なる作品解説、作品の採点化といった批評性の低いものから、最悪の場合、党派の宣伝といった政治利用される事もあった。これは現代においても同様の事が言えよう。

 では美しく、素晴しい、芸術の為の批評とは何か。それをボードレールが答えてくれる。

「私は最良の批評とは読んで面白くしかも詩的なものであると深く信じている。すべてを説明するという口実のもとに、愛もなく憎しみもなく、個性的気質をすっかり失ってしまったあの数学のように冷たい批評ではなく ー中略ー 良き批評とは、知的で感受性豊かな精神によって捉えられた作品であるべきである。したがってある絵についての最高の批評文は、例えばひとつのソネットやエレジーであることもできるだろう」※ソネット:詩の形態であり、日本で言うなれば俳句である。華麗な音のリズムと幾重にも重なる言葉の意味、その両者が合わさった美しい表現のことである。※エレジー:日本語訳は”悲歌”、”哀歌”

この言葉が私にとって興味深く、批評のあり方を示してくれた。


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