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通知

頬を撫でる心地いい風が、薄い桃色の花びらをふわりと運んできた。バイト帰りの夜の空気はまだ少し冷たさが残るけれど、凍えるような冬は別として寒い方が自分の輪郭がくっきりする気がして落ち着く。流される花びらを目で追いながら歩いていると、尻ポケットに入れた携帯が震えるのを感じた。
「今日お義父さんが来た。」
故郷の母から届いた数件の通知の1番最初はその一言。それだけ見ればもう十分だった。残りはどうせ愚痴に決まってる。案の定、スクロールしてみたところで目に入るのは血の繋がらない親戚を罵る言葉以外の何物でもなかった。返事は家に着いてからにしよう。携帯を尻ポケットに入れ直し、もう白く曇らないため息を1つ吐いた。いつもだったら軽い帰り道の足取りは、一瞬で重たいものになった。

 母にとってのお義父さん、要するに俺の父型の祖父と父は不仲だった。祖父が遊びに来ていてもほとんど口を聞かず、話しかけられても無視をする父を物心がついてから何度も見てきた。小学生の時、俺の誕生日を祝いに来てくれた祖父から身を隠すように別の部屋から出てこなかった父を今でもよく覚えている。あの頃はなぜそんな態度をとるのか全く理解できずただ困惑していたが、それが大人として、あるいは親としておかしい行動だったことだけは歳を重ねるにつれて分かった。母は俺が生まれる前からその間に挟まって親族としての関係を繕ってきたが、そのストレスに耐えきれず数年前に半生近くを費やしてきた努力をやめた。父と祖父だけでなくそれをきっかけとして父と母の間にも深い溝ができた今、一人息子のために用意されたハリボテの家族は母の計り知れない我慢の上に成り立っていたことがよく分かる。その反動のせいか、母は父や祖父に対する愚痴を隠すことなくありのまま俺に披露するようになった。自分の親しい人が他人を貶める姿を見るのはもちろん気分の良いものではなく、幾度となく俺を凹ませた。

 鬱蒼とした気分のまま家に着き、靴を脱ぎ捨て灯をつける。
「ただいま。」
1人暮らしの部屋にはその声すら響かない。他人に頼らないと生きていけない自分に嫌気がさして、大学の側のアパートに1人で暮らし始めてからもう一年が過ぎようとしている。今でも「ただいま」を言ってしまっていることが、何よりも望んだ成長を遂げられていないことを示しているようで情けない。着ているだけで背伸びをさせられるバイト先の制服を脱いでハンガーにかけ、やっとただの自分に戻ってソファに寝そべる。バイトの間に溜まった通知に大方返信を終えたところで、後回しにしてきた最新の通知に既読をつけた。とりあえず聞きに回るのがセオリー、しばらく話を聞いてやればいつも通り満足して寝るだろう。内容を深読みするとより気が滅入るから、適当に相槌を返した。

 幸せとはなんだろう。最近ふとそんなことを考えてしまう。今まで自分が幸せだと信じて疑わなかったものは、全くの偽物だった。自分が何も知らずに笑ってきたあの家族では、常に裏で母が我慢を強いられていたのだ。それに気づいた時、自分が暗闇で宙ぶらりんにされたような感覚があった。誰かの我慢ありきで成り立つものを、まちがったって幸せだなんて言いたくない。けれど、その意味がわからないうちは他人を幸せにすることもきっとできないだろう。自分が幸せなわけでも他人を幸せにすることもできない自分が存在する意味はあるのだろうか。深夜の思考は大抵答えが出ない上に、悲観的な方向に偏りがちだ。もうとっくに日付が変わったっていうのに、一向にまぶたは重くならない。

 とりあえずつけたテレビのお笑い番組をただ目に映しながらそんなことをグルグルと考えていると、携帯が新しい通知が届いたことを伝えた。こんな時間に一体なんだ?一頻り愚痴を吐き終えた母はすでに寝たはずだ。
「花見に行かない?」
バイト先の先輩からだった。引っ越してきてから始めたバイト先で、彼女は俺の世話係を担当してくれていた。飲食の仕事は初めてな上に天性の不器用さを持つ俺は、お客さんに飲み物をぶちまけるなどのベタなミスを連発した。その度ボロ雑巾みたいにひしゃげる俺に罪悪感が残らないよう、彼女はしっかり怒った後でいつも決まってオロナミンCを投げて寄越した。最初はなんでオロナミンCなのか分からず、
「ビタミンCが足りないから俺はミスするのか。」
などと考え困惑していたが、CMの謳い文句を思い出した時に全部理解できた。あの人が世話係じゃなければ俺はあそこで働き続けられなかったと思う。晴れて世話係から卒業した後もふと彼女を目で追っていることに気づいてから、俺が誘って何度か出かけたが彼女のほうから誘われるのは初めてのことだ。誘ってるくせになんとなく素っ気ないような文面が不器用な彼女らしくて、思わず笑ってしまった。頭を占めていた暗澹とした考えはもう影も形も残っていない。すぐに既読をつけた。
「行きたいです!いつにしますか?」
逸る気持ちを表に出しすぎないように、できるだけ簡潔な返信にする。まだ日程も決まってないし、本当に行けるかも分かっていない。それでも、たった一言あの素っ気ない誘いが明日以降の不安定な未来の彩度を高めた。きっと目覚めれば彼女から日程の候補が送られてきていて、俺はそれに答える。いくつか送られてきていたなら、別の予定にも誘ってみようか。そういえばこの間彼女が好きそうなカフェを見つけたな。急に襲ってきた睡魔の中、辛うじて働く頭が今後のやりとりを想像する。明日も心地いい風が吹きそうだ。

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