見出し画像

コエヲタヨリニ ステージ12

あみそ組さんのゲーム「コエヲタヨリニ 初代」の二次小説です。主人公が完全オリジナル。
*未成年に対する暴力暴行の描写あり。不快に思われた方はプラウザバックをして閉じてください。


 東崎りのにとって日常はずっと続くものだと思っていた。
  あくびをしながら一階に降りて両親と一緒に食卓を囲み、寝起きでぼさぼさの髪をくしで梳いてパジャマから制服に着替えて学校に行くための電車に向かう朝。苦手な科目に頭を悩ませながらもノートにペンを走らせ、時にはお題を元に意見を話し合い、昼休みにご飯を食べて友達とおしゃべりをする昼。当番の日は日誌を書いたり黒板消しをクリーニングしたり日付を明日に変えたりする放課後。学校から電車まで友達とおしゃべりをし、途中の駅で別れたり同じ駅で降りる友達と雑談をしたりして、一人になった後は家へと足早に向かう夕方。そして母の手伝いをして夕飯の支度をし、父が帰ってきたタイミングで一緒にご飯を食べてお風呂に入って課題をなんとか片付けて布団の中に入って眠りにつく夜。
 これがりのの基本的な一日であり、変わり映えしない日常であった。
『ホットケーキ、作りすぎちゃった。今日のデザートと明日の朝ごはんはコレかな』
 仄かに温かいホットケーキの入った袋を撫でながら鼻歌を歌っていたりのは今夜も明日も変わらないものだと思っていた。

『え……ここ、どこ……? うっ!』

 見知らぬ部屋で目を覚ますまでは。


 後頭部に走った痛み、目を覚ます前の記憶が帰り道で終わっていることに何者かに襲われたのだと朧げに理解したと同時にさっきまで持っていた鞄やスマートフォンが無いことに青ざめた。机と扉以外何もない小部屋を見回して『拉致監禁』という現実を飲み込めたりのは、衝動のままに扉を叩いた。
『誰か助けて!! ここを開けて!! 助けて!! ここから出して!! 家に帰して!!』
 拳が赤く滲むまでドアノブも取っ手もない扉を叩き続けるが、返事はない。少女の必死の叫びに無機質な鉄の物体は無言のまま扉の役割を果たすばかり。
『どうしよう……どうすればいいの……』
 ウロウロと部屋中を彷徨うりのの視界に机、正確には机の上に置かれたメモが入った。
『なにこれ』
 二つ折りにされたメモを広げて言葉を失った。
『そんな……それしか、ないの……』
 メモの内容は理不尽と残酷に満ちていた。
 ここから出るには電話をかけるしかないこと。ただし電話をかけられるのは一度だけ、しかも自分のことを知らない赤の他人にしか電話をかけてはいけない。家族や知人、警察にかけても、電話の相手が第三者にこのことを知らせても殺される。
 嘘だと思いたかった。何かのドッキリだと思いたかった。
 だが、嘘やジョークにしてはタチが悪く、開かない扉とメモが置かれた机以外何もない殺風景な部屋が現実逃避を許さなかった。
『こんなの……切られるに、決まってる、じゃん……』
 死にたくなかった。このまま動かずにいたら死んでしまう。早く出たい。生きて無事にここから出たい。家族に、両親に、会いたい。震えながら数字を打っていく。十一個目の番号を打ったりのは、この番号の持ち主が自分の声に応えてくれることを祈った。祈るしかなかった。
 トゥルルル。トゥルルル。トゥルルル。コール音が三つ鳴った後、ピッと電話に出る音がした。
『はい。どちら様ですか?』
 自分と同年代の男子よりも落ち着いた男性の声。年上だと分かるその声に蜘蛛の糸にぶら下がる罪人のように、波間に揺蕩う板にしがみつく乗組員のように、りのは縋りついた。
『お願い! 電話を切らないで! 話を聞いて!』
『迷惑電話とかイタズラ電話だとか思うだろうけど違うの!』
『私ね今知らない部屋に監禁されているの! 助けて欲しいの!』
『お願い……電話を切らないで……話を聞いて』
 イタズラもいい加減にしろと一蹴されなかった。それどころか落ち着くようにと電話越しに背中を撫でてくれた。
『君を責めているわけじゃない。ただゆっくりでいいから話して欲しいんだ。君に何があったのか、どうして僕に電話をかけてきたのかを』
 男性の穏やかな問いかけにりのは涙を拭いながらゆっくりと経緯を話した。帰り道、何者かに襲われたこと。目が覚めたら見知らぬ部屋に監禁されていて、所持品を全て奪われていること、紙には七つのルールが書かれており、赤の他人にだけ一度しか電話をかけることが出来ないこと、そしてーー電話を切られたら殺されることを。
『だから、適当な電話番号に電話をかけたの! そしたら貴方に繋がった!』
『お願い! いきなりこんな電話がかかってきたらおかしいと思うだろうけど、本当なのっ! 助けて……っ!』
 瞳から雫がこぼれ出る。全身から血の気が引いていく。歯の根が合わなくなる。携帯電話を握りしめていないと、机の上のメモを握り潰していないと、床に崩れ落ちてしまいそうな感覚と戦っているりのの頭を低く穏やかな声が撫でた。
『分かっている。君が危ない目にあっていることが確かなのは分かっている。だから、まずは深呼吸をして』
 男性の誘導に従って深呼吸をした。深く息を吸って深く息を吐いてを繰り返していくうちに少しだけ冷静さを取り戻したりのは握り潰したメモのしわを伸ばしながら読み返した。
『泣いててもじっとしててもダメなんだよね。なんとかしなきゃ……。紙には『ここから脱出しろ』って書いてあった。これってつまり出口は必ずあって、ここから出られるってこと』
『私、諦めない。絶対にここから脱出してみせる!』
 目の前の開かない扉を睨みながら宣誓すると、意外な返答が返ってきた。
『僕も協力するよ』
 慰めるだけ慰めて放置ではなく、最後まで手伝うと言い放った男性から冗談や揶揄いの色は無かった。
『君一人にこれ以上怖い思いをさせたくない』
 ポロポロと温かな雫がこぼれ落ちた。たとえ嘘でも嬉しかった。表情や仕草は見えなくても声だけで真剣に真面目に向き合ってくれていることが分かって、安堵した。
『あ、ありがとう……』
 これが二人の出会い。
 電話だけで繋がった二人の脱出劇の始まりだった。


 ようやく落ち着いた私に、お人好しな男の人は自己紹介をしてくれた。
『僕は相川生未』
『いくみ?』
『生きるに未来の未で生未って呼ぶんだ』
『すごい……綺麗な名前ね』
 こんな状況だからか相川さんの名前は聞いてるだけで生きたい、明日を迎えたいって気持ちになる。
『それ……エタノールって呼ぶんだよ』
 苦笑いをしながら教えてくれたり。
『頼んだよ東埼くん』
 冗談を言ったり。
『浴びたら正義の味方になれそうだね』
 クスクス笑ったりする相川さんの声はとても落ち着く。電話越しなのに本当に寄り添ってくれているみたいで胸がポカポカする。
 しかも、私を悩ませる謎をあっさりと解いたり思いもよらない発想に驚かされっぱなし! 探偵みたいですごい!
『僕もお菓子を食べているんだ。なにを食べていると思う?』
『ヒントは……お菓子界隈で戦争になっているもの、だよ』
 その上、茶目っ気もあって場を和ませてくれる。
(お兄ちゃんがいたら毎日こんな感じかな)
 私にもお兄ちゃんがいたんだってお母さんが言ってたけど、生まれて来なかったから一人っ子も同然だ。だけど、相川さんみたいなお兄ちゃんがいたら毎日が楽しいんだろうなあ。
 でも、不安や恐怖は消えなかった。エントランスの正面玄関から出られないし。何よりもーー相川さんがどうして私の話を信じてくれたのか分からない。
 電話だけの仲だけど、ほんの数時間だけど、相川さんはただのお人好しや下手に優しい人じゃない。お化け屋敷で肝試しで茶化す男子と違って、ちゃんと気遣ってくれて、一生懸命向き合ってくれている。

 だから知りたい。相川さんの気持ちが。
 だから手を握って欲しい。私を立ち上がらせるために。

 目の前の割れた窓、散乱した窓ガラス、ガムテープが貼られた窓に改めて廃墟にいるのだと自覚させられた。外から眺めるよりも怖さが倍以上だ。
『大丈夫、だよね……私……ここから、出られるよね? 怖くて……本当は怖くて……』
 言葉にした途端、抑えていたモノがブワッと溢れ出す。電話でも相川さんと一緒にいるのに、この場にいないってだけで今までの安心感が削られてく。
『大丈夫。出られるよ。絶対に東崎さんをここから脱出させる』
 増えていく不安に潰されそうな私を相川さんは引っ張り上げてくれた。凛とした力強い声は夜の街のランプのように私を照らしてくれる。
『うん……そう、信じる。怖いけど頑張らなくちゃ』
 でも、口では言ってもなかなか立ち上がれない。
『ねえ……お願いがあるの。この先何があるか分からないけど……最後まで電話を切らないでいてくれる? 私を、助けてくれる?』
 欲しかった。立ち上がるための約束口実が。
 握って欲しい。冷え切ったその手を温めて欲しい。
『ああ。約束するよ。絶対に電話を切らない。東崎さんに何かあったら出来る限り力を尽くして助けるよ』
『ありがとう……本当にありがとう』
 私が欲しかった言葉を、温もりを、手を、相川さんは与えてくれた。ちゃんと意図を汲み取ってくれた。そのことが嬉しくて嬉しくて最初に会った時のように、最初の時とは違う涙を流し続けた。
 泣き止むまで相川さんは無言だったけど、待ってくれていた。現実にいたら相川さんに肩にもたれて泣いていたかも。そう思うくらい相川さんは寄り添っていて、そしてーー顔が見たいと思った。
(あとでそのことを話そうかな。でも、その前に)
 聞かなきゃいけないことがある。
『どうして私の話を信じてくれたの?』
 このまま何も言わずに信じ続けていれば大丈夫かもしれない。でも、知らないままはイヤ。ちゃんと知りたい。これ以上、相川さんに丸投げしたくない。
『……実を言うと、東崎さんが新宿駅にいつも乗っていると聞くまでは信じ切れていなかった』
 そう言い出した相川さんは信じてくれた理由を、半信半疑だったことを正直に話してくれた。言い訳をしても黙り込んでも良かったのに、相川さんはそうしなかった。
(どこまで優しいの……)
 ここまで誠実でまっすぐな人は見たことない。
 ますます顔や姿を知りたくなった私の願いを相川さんは先んじて提案した。
『信じているから、僕は東崎さんをここから脱出させたい。脱出させてどこかで落ち合いたい』
 警察への証拠提出のためだと聞かれて納得した。私たちを散々いじくってる犯人を捕まえるためと思えば、今までの怯えがどこかに吹っ飛んだ。代わりに犯人への怒りが爆発してーー相川さんに会えるかもしれない期待が芽生えた。
『一つ、気分転換になぞなぞを出してもいい?』
『いいよ』
 私が出した問題を一生懸命考えている相川さんは私の予想よりも早くに正解を出した。
『私、相川さんの声に勇気をもらえている』
『どういたしまして』
 声色から心の底から笑っているのが伝わってきて、私も思わず笑ってしまった。
 合流した後の外食を考えてたのはちょっとビックリしたけど、そんな先のことを当然のように話してくれてとても嬉しかった。
 その後の謎解きも相川さんは冷静にこなしていった。図書室のギミックを聞いても驚いた様子もないし。それどころかミステリーにはよくあることと流される始末。
(むむむ……なんか腹立つ!)
 手術室のイヤそうなリアクションはあったけど、それ以外は特に驚いた様子も怖がる様子もないし。この人、なにで驚いたり怖がったりするの?!
(もうすぐ出口……絶対にビックリさせてやる!)
 外に出た後のことを思い浮かべて時間外受付の出入り口を睨む。待ってなさい相川さん! あなたを絶対に驚かせてやる! 


ーーそんなちっちゃな願いは最悪な形で叶えられた。

 外に出たかったけど猫を放っておけなかった。
 合流したがっていたはずなのに、相川さんは怒らなかった。ちゃんと念を押しながら私の選択を尊重してくれた。
 地下は薄暗くて薄気味悪いけど、相川さんのおかげで気が少し紛れた。
「階段を、降りきったよ…‥地下は暗くて、よく見えない……」
 朗読を続けるように催促して扉を開ける。
「猫ちゃん……どこに行ったの?」
 こんなに真っ暗じゃ猫を見つけられない。電気をつけようと足を進めた時だった。
「え……?」
 目の前に袋で顔を隠してる大男が、みんなが噂してる『和製レイザーフェイス』がいた。
「っ、あ、あなた、だれ?!」
 大男から返事はない。大男は拳を振り上げて、私の方に向けた。視界がクラクラして、ほっぺたがじんじんとして、背中が床にぶつかった。
(痛い……いたい、なんで、どうして……)
 なんで見ず知らずの大男に殴られたのか分からない。初対面なのに、何もしてないのに、殴られる筋合いなんて無いなのに。
 カランッと携帯電話が落ちた音に、水を浴びせられたように思考がはっきりしてくる。唯一の連絡手段、私と相川さんを繋ぐ命綱。壊されたらおしまいだ!!
「け、携帯電話が……ううっ! 相川さんと、繋がってるのに……拾わなきゃ……」
『東崎さん! 逃げろ! 早く! 立って! 立って逃げるんだ!』
 言われなくても分かってる。早く逃げないと殺される。立ち上がらないと死んでしまう。
 なのに、大男は私のささいな望みすら許してくれない。
「いやぁ! やめてぇ! いやだ! 離して! 離してよぉ!」
 髪の毛を鷲掴みにされて引っ張られて携帯電話が拾えない。
『やめろ!! お前の目的はなんだ!? 今すぐ東崎さんから離れろ!!』
 遠ざけられた携帯電話から相川さんの叫びと机を叩く音が上がっている。私のために怒っている。私の身を案じてくれている。とても嬉しい。嬉しいけど、私にはこの状況を覆せる力がない。無力な私にできることは一つだけ。
「う、うう……諦めない! 相川さんは、最後まで、電話を切らないって、約束してくれたの!」
 相川さんを信じて祈ることだけだ。
 髪の毛が痛い。さっきより思い切り掴まれてとても痛い。
 引きずられた先は壁で、思い切りぶつけられた。背中が痛い。頭が痛い。ほっぺたが痛い。何をされるのか分からない。いや、分かりたくない。自分がどんな方法で殺されるのかなんて知りたくも分かりたくもない。
 大男がマチェットを取り出して私の方へ歩いてきた。私を殺すために。そのマチェットで、私の頭を叩き割ろうとしてる。
(はやく、はやく、にげないと、ころされる、いや、しにたくない)
 身体が動かない。動いてくれない。目をつぶっても何も変わらないのは分かってる。でも、見たくない。大男の姿も自分の末路これからも。
 ここで死ぬのかと思った瞬間、女の子の淡々とした声が聞こえた。
「待ちなさい。殺すのはまだダメよ」
「あ?」
「電話まだ繋がっている」
 不機嫌そうな大男に、女の子は携帯電話を拾って見せつけた。
『東崎さん? 東崎さん! 返事してくれ!! 東崎さん!! なんでもいい! お願いだ!! 何があったのか教えてくれ!! っ頼む! 何か言ってくれ!! 東崎さん!! ……りの!!』
 今までとは違う、冷静じゃない相川さんの必死そうな叫びに胸が痛んだ。こんな声をさせたかったわけじゃないのに、こんな形で相川さんを驚かせたかったわけじゃないのに。
「相川さ、っんんっ!?」
 返事をしたいのに大男に口を塞がれた。知らせたいのに、気づいて欲しいのに。大男の手が邪魔で噛みつけば顎を思い切り掴まれた。手を外そうとすれば、両腕を片手で拘束された。残った足で攻撃したくても大男にのしかかられて動けない。
「あら。貴方のいる場所を特定しようとしているみたいね。もしかして、本気で助けに行くのかしら」
 大男と格闘している間に事態が進んでいた。私と相川さんとの電話が流れていて、相川さんが『廃病院』とか『外科があった』とか呟いていて、Moriがヒットと言っている。
《六つの条件に当てはまる場所を特定しました。富根総合病院です》
 物を持ってく音、扉を開ける音、階段を降りる音、靴を履く音、女の人との会話から期待を抱いた。
『富根総合病院への行き方を教えてくれ!』
《道案内開始します》
 期待は現実になった。祈りに応えてくれた。
(相川さん……)
 最後まで約束を守ろうとしてくれる律儀なお人好しの優しさが嬉しくて嬉しくて視界が滲んでしまう。何回泣いたら済むんだろ私。この短時間で泣き虫になったなと呆れる私だったが、耳に届いたため息に我に返った。
「少し面倒なことになったわね」
 ここには私だけじゃない。私を拘束してる大男と、大男のリーダーっぽい女の子が、加害者がいる。
「まあ、いいでしょう。プレイヤーの通話相手を殺しちゃダメってルールには無いから別にいいわよ」
 女の子は表情ひとつ変えずに大男に向かって殺してもいいと言った。相川さんを、巻き込まれただけの相川さんを、面倒事になったからって理由で。
「んー! んんんん! むぐっ! うううう!」 
 私のせいで相川さんがこいつに殺される。逃げて、早く逃げて、ここに来ないで。そう叫んでいるのに、大男に口を塞がれてろくに話せない。
 それでも叫ばずにはいられない私のそばに女の子は近づいて顔を寄せて囁いた。
「何言ってるのか分からないけど、喋らない方がいいわよ」
 動きを止めた。言われた内容の意味が分からずに戸惑う私に、女の子はとんでもないことを言った。
「いい? この部屋には貴方の声にだけ反応してボウガンが発射するの。……部屋に入ってきた人間に向かって」
「そしてこの部屋限定で携帯電話に向かって何かを言おうとしたら貴方にもボウガンが向かう。つまり……どっちを選んでも貴方か電話相手のどちらかが死ぬということ」
 最後の方は声のトーンが上がっていた。顔を見なくても分かる。女の子が楽しそうにしてるってことが。
 理解できない。分からない。なんでこんなことが出来るのか、どうして人を殺すことをなんとも思っていないのか。__人の命がかかっている状況を楽しめる思考を理解したくない。
(こいつと話をしたくない。ここから離れたい)
 何をしても私か相川さんのどちらかが死ぬ。こんなの黙るしかない。
「怖いよね? 死にたくないよね? だったら……黙ってなさい」
 口を閉じた私に女は心配そうに言った後、低いトーンでトドメをさした。
 女も大男も私から離れて行ったが、私は立ち上がれなかった。相川さんに会いたい。電話越しでも私がここにいることを知らせたい。相川さんが地下に辿り着いてもだ。でも、迂闊に声を出せば私か相川さんのどちらかが死ぬ。
 携帯電話から相川さんの足音が、外国語を話してる声が、聞こえる。
「貴方がここまで来た道を辿っているみたい。ああ、そういえば廊下の先は図書室と時間外受付ね。もうここまで来ているのね」
 ヒュッと喉から変な音がこぼれた。時間外受付と繋がってる地下室ここにはマチェットをバットみたいに振り回してる大男と、ナイフを持ってる女が、相川さんを待っている。ーー相川さんを殺すために。
 私は止められない。止めたくても、少しでも声を上げたら、この部屋のどこかに仕掛けてあるボウガンの矢が相川さんを射抜く。
 コツンコツンと階段を降りる音が聞こえる。
「暗くてよく見えないな……」
 低く落ち着いた年上の男性の声、相川さんの背後から大男が近付いてきた。
(相川さん! 逃げて!)
 叫びそうになるのを必死に堪えて祈るしかない。
 マチェットをかわした相川さんは左手に持っていた鉈で大男を切った。血と凶器に悲鳴が出そうになったけど、相川さんには不思議と恐怖を抱かなかった。むしろヒーローみたいだと思った。
 約束を守りながら、謎解きをして、檻を見つけて、犯罪者を狩っていく。フィクションの中のヒーローみたいなことをやってのける相川さんに不謹慎だけどカッコいいと思った。
「それぐらいの度胸はあると。面白いわね」と、女は呟いて、歩き出した。
 ナイフを後ろに隠し持って相川さんの方へ歩き出した女を止めないといけないのに、痺れる腕と足が言うことを聞いてくれない。痛い。痛くて痺れる。
 怯えたフリをしてゆっくりと近づく女を見て誰が加害者だと思うだろう。私は相川さんの姿を知らないし、同じように相川さんも私の姿を知らない。
 相川さんが口を開こうとしている。何を言おうとしてるのか分かる。
(違う! こいつは私じゃない! 私はここにいるの! 気付いて!)
 何も言わないと分からないのに、伝わらないのに、相川さんがボウガンの矢で死ぬかもしれないって思うと何も言えない。相川さんがこの女に殺されそうなのに、足踏みしてばかりな自分がイヤ。早く、早く、立ち上がれ。早く、起きて。早く、伝えに行くのよ東崎りの。
 膝を少し曲げて腕に力を入れた時だった。

「君は誰だ?」

 相川さんの問いに女の動きが止まった。
 そしてーーーー。

「ふふふふ、あははは」

 嗤い声を上げて正体をバラした。
 相川さんを殺すのが目的なはずなのに、女は悔しがるどころか楽しそうに笑っていた。
「これでゲームは終わり。ああ……終わっちゃったか……」
 ゾッと背筋が泡立つ。ますます理解できない。人の生死をゲーム扱いできる精神に寒気しか感じない。
 大男への恐怖が暴力とか物理的なものなら、女への恐怖は精神的なものだ。
(あれ……あいつ、どこに行ったの?)
 相川さんに鉈で切られてどこかへ行ってしまった大男を探してみるが、見当たらない。傷を負って動けないからジッとしているのかと思っていた。
(だったら、早く会いに行かないと)
 なんとか立ち上がる姿勢に持っていくと、女は地下室の奥へ消えて行った。
「待て!!」
 重いもの、鉈を捨てたような音の後に走り出す音がした。

 ーーその瞬間、大男が物陰から出てきて相川さんにバケツの中身をぶちまけた。


「っっ!!」
 赤色の液体に一瞬、血だと思ったが、匂いですぐにペンキだと分かった。でも、それでなんの解決にもならない。
 相川さんが目潰しされて大男に蹴られている。
(なんとかしないと、はやくとめないと)
 ようやく立ち上がれたけど足がすくんで動けない。大男を見ただけで身体が震え出す。ああ、もう、ダメ。何もできない。何も動けない。幸いにも大男は相川さんにしか目が入っていないみたいだし。
(このまま……このまま、逃げれば、)
 私は助かる。ここから出て無事に家族に会えるのだ。そして日常に戻れる。ーー本当に?
《攻撃がきます! 危険です! 逃げてください!》
 避難速報に似たアラート音と同時にMoriが叫ぶ。
「ぐぅっ!」
 おなかを蹴られて痛いはずなのに、それでも立ち上がろうとする相川さんを見て、私はバカなことを考えていた私を殴った。
 相川さんだって怖いはずなのに、私を助けにここまで来てくれた。赤の他人でしかない私に寄り添って最後まで着いてきてくれた。約束を守ってくれた。そんな恩人を見捨てようとするなんて最低だ。まだ自分にできることをやっていないのに、逃げて生き延びるなんてイヤだ!!
(誰か、助けを呼ばないと……)
 ここから出て時間外受付の出入り口を出て人に頼んで相川さんを助けてもらって……。
 大男が血まみれの肩を押さえながら鉈を引きずっている。相川さんを殺そうとしている。病院から出て頼んでいる時間なんて無い。いや、それ以前に私は何を考えていた? 人に頼む? 誰かに助けてもらう? ーーこの期に及んでまだ他人任せ?
(違う……【誰か】なんていない。ここにいるのは、動けるのは、私だけっ!)
 近くにあった木材を手に私は走り出す。
 相川さんを助け出すために。


***


 鋭く輝く銀色を睨んでいた相川は大男の動きが止まったことに呆気に取られた。
(今の、音は)
 殴打音から誰かが大男を殴ったのだと推察できるが、誰なのかは分からない。
 ボグッボガッと殴打音が二つ上がり、大男のうめき声の後、足音がこちらに向かってきた。
「しっかりして!!」
 地下特有の陰鬱な空気を吹き飛ばすような明朗な声は聞き覚えがあった。相川がここに来ることになった被害者原因であり、二時間も電話をしていた少女ーーーー。
「この声は……東崎さん?」
 自分の腕を掴んでいる少女の腕に触れて尋ねると、力強く掴まれた。
「そうだよ! 私だよ! 相川さんと電話をしていた東崎りのだよ!」
「相川さんが電話を切らなかったおかげで殺されずにすんだの!」
 無事だったのかと胸を撫で下ろす相川の腕をりのは引っ張りながら叫ぶ。
「ほら! 頑張って! 立ち上がって!」
 鳩尾に痛みが走るたびに濁った咳をしながらふらつく足に力を入れてなんとか立ち上がる。
「よし! このまま出口まで行くよ!」
 ペンキで視界が潰されている相川のために両手を掴んでゆっくりと階段のあたりまで誘導するりのだったが、緩慢に身を起こす大男に悲鳴を上げて走り出した。
 当然ながらいきなりのスピード転換に目が見えていない相川がついていけるはずもなく、転んでしまう。
「っ、うっ」
「あ……!」
 慌てて相川の元へ駆け寄り、もう一度立ち上がらせて階段の方へ誘導するりのの様子に相川は奥歯を噛み締めた。
(くそっ……助けに来たのに、僕が足手まといになってる!)
 自分のせいでりのに要らない負担をかけている。早く出たがっているりのの足を文字通り引っ張っている。大男は傷を負っていて動きが遅い。それでも起き上がられたら、アウトだ。ここで選べる最善は一つだけ。
「東崎さん……君は早くここから出ろ!」
 階段の扉の近くまで来た相川は、りのの肩に手を置いて階段の方へ押した。
「僕を置いてここから逃げるんだ! あいつは僕に鉈で斬られて怒っている。だから!」
 殺されるのが怖くないかと言われたら、未練や後悔がないかと言われたら嘘だ。本当は怖いし。まだ試してないことややってみたいことがたくさん残っている。でも、足手まといはここで退場してプレイヤーを逃した方が最善だ。だからーー。


「バカ!! 相川さんを見捨てるわけないでしょ!!」

 春雷のごとき叫びと同時に腕を引っ張られた。
 がちゃんと扉が閉められる。手を強く握られる。階段の方へと向かわされる。
 最善を否定されて驚く相川に、りのは単純明快な本音をぶつけた。
「相川さんは電話を切らないでくれた!! 私を助けに来てくれた!! 約束を守ってくれた!!」
 とても律儀で丁寧で真面目で優しい人を何度も危ない目に遭わせた。助けようと思えば助けられたのに、我が身可愛さにしなかった。そんな自分がのうのうと生き延びるなんて絶対に許さない。
「だから! 今度は私が相川さんを助ける番なの!」
 りのの最善は自分と相川が無事にここから抜け出すこと。そのためにはどちらかが犠牲になってもダメだという叫びは非効率的で理に合わないことだ。
どちらを選べば助かる可能性が高いのかは明白なのに、可能性が低い方を選ぶのはりのにとってメリットがないことだ。
 理と利で考えればりのの決断は愚かで馬鹿馬鹿しいだろう。だからこそ、一時の利益では得られないものをりのは手に入れた。
「東崎さん……」
 手を握り返す。扉の方へ向いていた足を階段に、目の前にいるりのの方へ向ける。
 電話越しで感じていたりのの真っ直ぐさとひたむきさに心を打たれた相川の選択に、りのは最善を尽くすべく階段を一段上がった。
「階段を上がり切ったら出口だから頑張って!」
「はい!」と、掛け声が上がる。タイミングを合わせて階段を一段ずつ上がっていく。
(十一……十二……十三!)
「階段を、登りきったよ!」
 間髪入れずに相川は扉を閉める。その間、手を離して出入り口へと向かったりのは顔を強張らせた。
「嘘……時間外受付の出入り口が閉まってる!!」
「Mori! 他に扉が開いている場所を探してくれ!」
《……駄目です。電気系統が通っていないため、確認できません》
「あ……」
 沈痛なMoriの返答に相川は電子ロックされている扉以外の電気系統が死んでいることを思い出し、言葉を失う。
 あまりに最悪な状況に追い討ちをかけるように扉を開く音、階段をゆっくりと上がる音が二人の鼓膜を通して心臓を揺さぶった。
「いやぁ……あいつがこっちに来ている!」
 大男に暴行された恐怖が蘇りこの場から逃げ出さんとするりのに、相川は覚束ない足取りで声のする方へ歩きながら指示を出した。
「東崎さん、右に進んで」
「え?! なんで!?」
「元きた道を辿ろうとしているみたいだけど、その先は外からしか開けられない小部屋だ。僕がさっき開けたけど、閉められている可能性が高い」
「あ…………」
「だから、右に進んで別の出口を探そう」
「わ、分かった。探してみる! だから、手を離しちゃダメよ!」
 何かを探して彷徨っている相川の手を握りしめたりのは早く逃げ出したい衝動をなんとか抑えて相川とはぐれないように分かれ道となっている廊下へと歩き出した。
 元来た道とは逆の廊下を歩いていくうちに突き当たりの部屋にたどり着いた。
「ここは……どこ? 他の病室とは違うけど……」
《ここは無菌病棟です。ここから先、三メートルは見舞い客が出入りをする扉です》
 りのの疑問に応えるように相川のスマートフォンが震え出した。手探りでフロントポケットからスマートフォンを取り出して画面を見せる。右下にはアイコン化しているMoriと中央には施設内の3Dマップと平面マップが表示されている。
「今僕たちがいるのはスタッフ専用の扉か」
「そうみたい……って、あれ?」
「どうしたの?」
「ここから出ると、非常口があるみたい」
 非常口と聞いて相川は地下室に向かう途中、非常口の誘導灯が点いていることを思い出した。あのときは無我夢中であったため、記憶の端にしか留めていなかったが。
「……そこに賭けるしかないか」
「そう、だね」
 まずは無菌病棟を出ようと歩き出す二人だったが、それを許さない者が邪魔をし始めた。
「う"う"う"」
 異議を唱えるような呻き声に、二人は強張りながら踵を返した。
「くそっ、来たか!」
「うううう、うううう、くうううううっ!!!!」
 全身全霊全身体でスタッフ専用の出入り口を押さえ込む。大男の扉を殴る音と蹴る音に対抗すべく力を振り絞って押さえ込むが、二人の額から脂汗と冷や汗が滲み出す。百八十センチ近くある大男と比べて、りのは百六十五センチ、相川は百七十センチと小柄で非力だ。
 非常口に行きたいのに、と歯噛みする相川に、りのはゆっくりと口を開いた。
「ね、ねえ……聞いて……」
「どう、したの?」
「このまま、二人で、押さえていても、いずれは、あいつに、突破、されちゃう……」
 そうなったら自分達は大男に殺される。確実に。そうならないためには、そうさせないためには。
「だから、相川さんは、先に、向こうの、扉に、行って」
 何を言われたのか即座に察した相川は声を荒げた。
「な!? そんなの、東崎さんに任せられる、わけ!」
「分かってる! でも、相川さんは目が見えないんでしょ! だったら、私たちが、助かるには、相川さんに、扉を、開けてもらうしか、ないの!」
「だけど!」
「道案内は、私が、する! だから! 相川さんは、私の声に従って、向こうに逃げて!!」
 背中全体で扉に張り付くりのの揺るがない覚悟と揺るぎない決断に、相川は赤い視界の中に映る出入り口と背後の扉を見つめた後、唇から血が滲むほど噛み締めて扉から離れた。
「っっ、分かった!」
 りのを置いていき、負担を強いることへの罪悪感とそうさせる己への嫌悪感を血と共に飲み干しながら一歩踏み出した。
 相川はうっすらとしか見えていないが、りのには見えている。相川の足元に散乱する数多のゴミが。それらを避けて出入り口へと行かせるために、りのは端的な道案内を始める。
「左!」
「ここ、か?」
「次、上!」
「進む、のか」
「進んで!」
 言われた通りに一歩前に踏み出した相川と出入り口の距離は二メートルと五十センチにまで縮まった。
「左上だよ!」
 足を進める。
「右に進んで!」
 右手を前に出して指示通りに足を進める。
(目が見えないのが、こんなにも、心細いとは、思わなかった……)
 赤だらけの視界の中で頼れるのは、己の身体と少女の声と直感だけ。眠りにつくときに瞼を閉じるのとは違う、強制的な暗闇。どんなに色があってもぼんやりと景色が見えても、普段と違えば自分にとっては暗闇だ。怖くて誰かに手を取って欲しい。
(でも、一番怖い思いをしているのは東崎さんだ)
 自分がここに来るまでの間、どんな目に遭わされたのか知らない。だが、彼女は四時間以上ここに閉じ込められて、大男と元凶と一緒の空間に居させられて、大男に暴力を振るわれたのだ。怖くて逃げ出したいはずなのに、扉一枚挟んでいる状況で突破されまいと身を挺して押さえて懸命に指示を下している。
(ここで、足を止めるな。耳をよく傾けろ!)
 りのの今までの頑張りを、祈りを無駄にさせないために相川は腕を前に出して一歩踏み出した。
「左下! そっちで合ってるよ!」
「上! 上!」
 出入り口との距離まであと二メートル。
「右上ぇ! もう、限界……」
 歩幅を今までよりも大きく広げて足を進める。
「そう! 次は、右下!」
 押さえ込む少女と殴り続ける大男に挟まれた扉の引き戸は両者の手に掴まれて悲鳴を上げていた。
「左上に行って!」
「左だよ!」
 出入り口との距離まであと五十センチ。
「右! 右!」
「上に行って!!」
 進んでいくうちに相川は固い壁にぶつかった。否、コンクリート製の壁ではなく冷たくて凹んでいる部分もあるーー。
「この感触は、ドア?」
「早く開けて!!」
 扉の引き手部分に手をかけて勢いよく開き、向こう側へ行ったのを見て、りのは押さえていた扉から離れて走り出した。
「もう、限界! 私もそっちに行く!!」
「りの!!」
 腕を引っ張って抱き寄せ、扉を勢いよく閉めた相川は開けた時に見えた木の棒を手探りで掴んで敷居に斜めに立て掛けた。即席のつっかえ棒だが、無いよりはマシだ。
《この先の扉を通ると、非常口があります。非常口は右方向五メートル先にあります》
 大男に追いつかれない内に歩き出し、向こうの扉を通り抜けた二人の耳にバキッボコッと鈍い音が届いた。
「嘘……まさか、あのつっかえ棒を壊して」
「東崎さん!」
 扉越しに壊せるならとんだ怪力だと慄くりのに相川は扉を閉めて呼びかける。我に返ったりのはあたりを見回し、緑色に光っている標識を見て拳を握りしめた。
「非常口の扉が見える! 相川さん、先に非常口に行って!」
「分かった! 案内を頼む!」
 背後の扉を全身で押さえるりのの声を頼りに相川は非常口への道を歩き出す。
「右に進んで!」
「……こっち、か」
「次も右!」
「ここ、か」
 非常口まで四メートルと五十センチ。
「右上だよ!」
「ここらへん……」
「うん! 次、左!」
「左……」
 大男が扉を叩き出した。明確な殺意と怒りをもって。
「右下!」
「左! 頑張って!」
 非常口まで三メートル。
「次も左だよ!」
「右下!」
 扉を叩く音だけでなく蹴る音がし、扉越しの暴力がりのの全身を震わせる。
「右に行って!」
「さらに右!」
 非常口まで二メートル。
 たった二メートル。されど二メートル。視界が利かない相川にとっては歯痒く感じる距離であり、背後から聞こえるりのの苦悶の声と悲鳴を上げている扉の枠から今のペースでは間に合わないと、歩幅を限界まで広げた。
「左上、だよ! 早く!」
「そう……次は、右上ぇ!」
 非常口まで一メートル。非常口のピクトグラムがはっきり見えるところまで来た。
「左! もう、痛い……」
「うん! 右に進んで!」
 非常口まで三十センチ。誘導灯が眩しくて目を瞑ってしまいそうになるが、気を奮い立たせて睨みつける。
「上! 上!」
「さらに上!」
 誘導灯より眩しい声を頼りに前へ前へと進んでいく相川の手に冷たいものが触れた。
「やった! 非常口まで辿り着いたよ! そのまま開けてみて!」
 ドアノブがあるだろう場所へ手を動かしていき、ドアノブを掴む。施錠されていたら、と焦る相川の懸念を裏切るようにドアノブはすんなりと回り、扉が軽く開いた。
 ぶつかる勢いで思い切り開き、扉の向こう側ーー出口に出た相川は、右手を差し出しながら叫ぶ。
「りの早く!」
「うん!」
 疾風のごとく走ってきたりのの手を掴んで引き寄せ、非常口の扉を閉める。
「東崎さん、大丈夫?!」
「う、うん。平気……。それよりも」
 抱き抱えられていたりのは相川の腕から離れて手を掴んだ。
「捕まって!! 走るよ!!」
「言われなくても!」
 やまなし希望を追いかけた蟹の兄弟のように、最後まで出口を探し続けて追い続けてきた二人のもとに希望が現れた。
 門を潜った先は人と人が行き交う歩道であった。
信号機。標識。車。建物。騒音。足音。人の声。二人が過ごしていた日常が目の前にあった。
「……やった! 外! 病院の外に出たよ! 人! 人がいる!」
「そう、だね……」
 歓喜のあまり両手を握って上下に振り回すりのだったが、相川の反応はとても薄い。よく見ると顔色は青くて半開きになっている瞳は茫洋としている。
「相川さん?」
「僕は、大丈夫、だから、早く……」
 緩慢に首を振る相川を放っておけず、裾を引っ張るが、手をほどかされる。手のひらで向こうに行けとジェスチャーされたりのは相川と向こうを数回往復し、向こうの方へ走り出した。
 その後ろ姿を見送りながら相川は米神を揉んだ。頭が痛い。ハンマーで殴られてドリルで抉られるような痛みが等間隔で襲ってくる。寒気もする。目の前がぼやけてくる。
「う、うん……ねえ、助けて! お願い! 警察を呼んで!」
「え? ちょっ、なに? どうし……え? 相川!?」
 りのが話しかけた人物は相川と面識のある人物であり、十年以上の付き合いがある親友だが、相川には見えない。正確には色と形しか見えなくて、どんな表情をしているのか分からない。
(あ、やばい)
 これ以上は何もできないと判断した相川の全身から力が抜け落ちていく。
 糸が切れたマリオネットのように倒れ込む相川はぼやけていく視界に映る朧げな光景に珍しいなと思った。
「相川? 相川!」と、動揺する友人の姿などレア中のレアだろう。
「加藤! こいつにパーカーでもタオルでもいいからなにかかけてやれ! 待ってて! 今、警察と病院を呼ぶから!」
 パニックになりかけていたりのを宥めながらスマートフォンを取り出して電話をかけ始めた親友。
「聞こえる!? 助かったよ!? 外に出れたんだよ!? しっかりして!! ねえ!!」
 駆け寄って肩を揺すりながら耳元で叫ぶりの。
 それらの声は遠い国の出来事のように聞こえた。
 思考すら霞んでいく相川の意識は波のように現実から引いていく。
「しっかりして!!」
 りのの顔を見れなかったことが何故かひどく残念に思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?