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コエヲタヨリニ 最終回

*あみそ組さんのゲーム「コエヲタヨリニ 初代」の二次小説です。主人公が完全オリジナル。オリキャラが多数登場します。

 ああ、これは夢か。
 ランドセルを膝に抱えて椅子に座る幼い自分がベッドの上でパソコンのキーボードを踊らせている女性に話しかける光景に、相川は冷静に分析した。
『姉さん、何を作ってるの?』
『ふふふ。人間、だよ』
 病衣の上に白いコートを羽織っている女性の両腕には管が沢山つけられていて、その先の袋が五つもぶら下がっている。足元にも管が生えていて、頭に医療用帽子を被っている。顔色は青白く頬も痩せている。誰が見ても重症なのに、姉は生き生きとした様子で何かを作っていた。
『人間? 僕にはそう見えないけど』
 覗き込んだPC画面には英数字が並んでいる。過去の相川には分からないが、今の相川にはなんとなく分かる。プログラミング言語だ。さまざまなコードが入り混じっていて何を指しているのか分からない。それ以前にコレは相川の思う人間ではない。
『近いうちに分かるさ』
 はてなマークを乱舞させる相川の頭を撫でながら微笑む姉は、そっと耳元に顔を寄せる。
 低くなった己の視点に疑問を思う間もなく、姉は最期の言葉を残した。
『この子を起動させるパスワードはーーーーーーだよ』
 顔を上げた瞬間、姉も病室も消えていた。
 部屋も変わっていた。勉強机、ベッド、押し入れ、ポスター、辞書と小説が並んでいる本、引き戸……。相川が住んでいるアパートではない、以前に家族と暮らしていた一軒家の相川だけの部屋だ。
 椅子に座っていたはずがいつの間にか壁にもたれていた相川は手に乗っている重みに気がついて緩慢に持ち上げる。
 iPhone 6と今より少し古い世代のスマートフォン。姉から教えられたパスワードを入れて立ち上げると、白と赤の螺旋が声を発した。
『初めまして。ヘルプアシストAIのMoriです』
『なにかお困りですか?』
 瞬間、カメラのフラッシュのようにさまざまな思い出が脳裏を駆け巡っていく。楽しかったこと、辛かったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、姉との思い出、両親との思い出、親友との思い出、先輩との思い出、同級生との思い出、後輩との思い出、管理人との思い出、近所の人たちとの思い出、旅先での思い出。そしてーーーー
『捕まって!! 走るよ!!』
 少女に手を引かれて光の方を目指していく。少女の顔にはノイズが走っていた。けれど、その声には聞き覚えがあった。その声の名前は。


***


 深海から浅瀬に、浅瀬から浜に打ち上げられるような感覚に相川は息を吐いた。
「…………」
 白い天井、薬の匂い、右腕に刺さった管、その先にぶら下がっている点滴袋。それらを目にして、自分が病院にいるのだと認識して揺蕩っていた意識がはっきりとし始めた。
(東崎さん! 東崎さんは、無事なのか!?)
 非常口を出て走ったのまでは覚えている。そこから先の記憶はない。焦りから身を起こした相川はここから出て確認しようと布団をめくりかけて止まった。
「……あ、目が覚めたんだ」
 何時間も電話や廃病院で聞いた少女の声が自分の側から聞こえたからだ。
 声のする方へ顔を向けると、赤の視界の中で微かに見えていたセーラー服とスカートを身に包んだ赤髪の少女がベッドの側の椅子に座ってこちらを見つめていた。
「……よかった……」
 不安げに揺れていた青紫色の瞳は安堵の色に染まり、肩と胸を撫で下ろしながら、相川が病院にいる理由を話してくれた。
「あの後警察に保護されて病院に担ぎ込まれたんだよ」
 糸が切れた人形のように倒れ込んだ相川に、りのは一瞬、死んだのではないかと思い、半狂乱になった。相川の友人と思われる人物が止めてくれなかったら、救急車が来なかったら、あのまま相川にしがみついて涙に暮れていただろう。
「相川さん何時間も眠りっぱなしだったんだから……」
 ただ回復のために寝ているだけと言われても安心できず、事情聴取から解放されても両親を振り払って相川の側に居続けた。娘の頑固な献身に折れた両親は病院で泊まることと休息を取ることを約束させて娘の願いを叶えた。相川の隣の部屋で夜を明かし、真っ先に駆けつけたことを敢えて話さずに相川の状況を説明するりのの手は震えていた。その手を相川が宥めるように触れると、震えが止まった。代わりに緊張の気配がした。
「大丈夫? 痛いとことかない?」
 眉を八の字にして首を傾げて尋ねるりのに相川は何も答えなかった。
「な、なによ……黙って人の顔をジロジロ見て」
 黒曜の瞳に自分が映っているのが妙に恥ずかしくて目を逸らすが、さらなる羞恥がりのを襲った。
「電話で聞くよりもとてもかわいいなって」
 ナンパでも口説きでもない率直な感想はりのの顔の表面温度を上昇させた。
「え……ええ!?」
 ボフンっと頬を林檎のように赤くして慌てふためき顔を隠す。
「ちょっ、ちょっと! やめてよ! 恥ずかしいでしょ!」
 顔を隠している手の隙間から見える瞳は若干潤んでおり、少し突けば泣き出しそうだ。うさぎみたいで可愛いなぁと微笑むと、耳まで赤くなった顔を背かれた。
「と、とにかく目が覚めて良かった! そ、それじゃあ!」
 脱兎の如く病室を飛び出したりのの後ろ姿を見送った後、相川は時間を確認した。
「十時二十分……次の講義には間に合わないな。連絡を入れておこう」
 その前にナースコールかな、と呼び出しボタンを手にかけた瞬間、出入り口から金色の弾丸が飛んできた。
「相川〜〜〜〜!!」
 弾丸もとい相川の親友が両手を広げて向かっているのを見て、相川は側にあったティッシュ箱を投げた。
「うるさい」
「ぎゃうん!」
 額に見事命中し、うずくまる青年を相川は冷ややかに見下ろすと二人の青年が病室に入ってきた。
「杉本、さっきまで風邪引いていた病人にそれはない。非常識」
「初対面でスマホのAI解析しようとした加藤にだけは言われたくないんじゃないかな」
 短袖のYシャツを着た黒眼鏡の青年と甘茶色の髪を後ろで一つに束ねている青年に、相川は驚いて名前を呼んだ。
「加藤、武藤先輩」
「え? 俺無視? シカト?」
「あ、杉本いたんだ」
「いたよ!」
 シャウトする杉本の頭を再びティッシュ箱で殴って黙らせると、デコピンをされた。予想外に痛くてデコを押さえる相川と、ニヤリと笑う杉本を見て武藤はのほほんと言った。
「相変わらずだなお前ら」
「本当に仲が良いね」
「まあ、俺らマブっすからね!」と、胸を張る杉本。
「加藤と武藤先輩も似たようなものじゃないですか」
「そこまでじゃない」
「加藤は照れ屋さんだな。ところで……」
「なんですか?」
「ナースコール押さなくていいのか?」
「あ」
 三人の登場に流されかけたが、さっきまで何をやろうとしていたのかを思い出した相川はナースコールを押した。


***


 あれやこれやと検温や診察を受けて「すぐに退院しても大丈夫」とお墨付きをもらった相川は杉本達と一緒にカフェ『コクトー』にいた。
「ご注文をお伺いします」
「ウインナーコーヒー」
「エスプレッソ濃さ三」
「カフェラテ」
「ココアといちごタルトクラウン」
「ウインナーコーヒーが一つ、エスプレッソの濃さ三が一つ、カフェラテが一つ、ココアが一つ、いちごタルトクラウンが一つでお間違いないですか?」
「「「「はい」」」」
「かしこまいりました。少々お待ちください」
 ウェイターの後ろ姿が見えなくなるまで去っていくのを見送った相川は声量を落として三人に尋ねた。
「あの……講義とかは」
「すっぽかした」と、爽やかに答える武藤。
「はい?!」
「右に同じく」と、独り言のように頷く加藤。
「ダチが倒れてるっつーときに出られるわけねえだろ」
 カラッとした調子で答える杉本の言葉は大変嬉しいが、ここまであっさりしてると力が抜けてくる。
 脱力のあまり額がテーブルにぶつかりそうになる。
「お待たせしました。ウインナーコーヒーと濃さ三のエスプレッソとカフェラテとココアといちごタルトクラウンです。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
 が、ウェイターの言葉と視界に映るタルト生地と上の苺に思い切り顔を上げた。
「はい!」
「……伝票を置いておきますね」
 若干ウェイターに引かれたが、相川には関係ない。彼の目の前には王冠の如く飾られたいちごタルトがある。輝いて見えるのは苺が新鮮なせいか王冠というデザインのせいか。
「いただきます!」と、元気よく手を合わせて挨拶をし、ナイフとフォークでタルトを切り分ける。一切れ口に運ぶと、甘酸っぱい苺の風味とバニラクリームが口の中で楽しく踊っている。
 やっぱり『コクトー』のタルトは最高だと頬を緩ませる相川に、武藤は感心の息をこぼす。
「空きっ腹によくそんな甘いもんが入るなあ」
「お腹ペコペコだからこれぐらいが丁度いいんです」
「僕なら三口でギブアップ」
「その前にお前は三食しっかり食べろ。前よりもマシになったとはいえ、サプリメントかカロリーメイトだけで済ませる時もあるだろ。しかも、ゼミの実習で三日連続機能食品って聞いた時はビックリしたぞ」
「実習が大事」
「身体を何よりも大事にしろ。そもそもお前は」
 保護者か親のように叱る武藤と言い返す加藤のやり取りを、相川と杉本はウインナーコーヒーとココアを飲みながら見守っていた。
「相変わらずだなあの二人」
「本当に飽きないよね」
「で、何があったんだ?」
「何って……あ。もしかして」
 杉本に聞かれて相川は今までのことと先ほどのりのの言葉を思い出し、食べる手を止めた。
「警察に通報したの僕達。相川、熱出して倒れていた」
「りのちゃんから話聞こうと思ったけどパニクってるわ、警察との事情聴取で会えねえわで、お前から聞くしかねえって思ったわけよ」
「りのちゃん……?」
 タルト生地の断末魔と共に部屋の気温が下がった。冷房つけてないのに、と疑問に思ったのは加藤だけで、杉本と武藤は一瞬驚いたもののニコニコニヨニヨと頬を緩ませた。
「あーはーあー。なーるほど……」
「なに?」
「いやあ、なんでも!」
「青春っていいよな」
「??」
「なんのことですか?」
 二人のニヤケ顔にイライラしながら尋ねる相川だったが、はぐらかされてしまい、それよりも何があったのか話してくれと本題を急かされたため、ゆっくりと丁寧に話し始めた。
 りのとは昨夜知り合ったばかりの関係であること。昨夜、りのから非通知の電話が来たこと。赤の他人にしか電話をかけることが出来ずそれも一回限りで電話を切られたら殺されるという理不尽なゲームにりのが巻き込まれたこと。ネットで噂の『和製レイザーフェイス』にりのが襲われたこと。場所を特定して富根総合病院に向かい、その道中で『和製レイザーフェイス』と黒幕と思わしき少女に殺されかけたこと。命辛々なんとか廃病院を抜け出したことを。
 親友(後輩)と年下の少女が命の危機に晒されていたことに肝を冷やした武藤と杉本はなんとか言葉を絞り出した。
「……そうか。そんなことがあったのか」
「うっわ、そいつらマジで性格悪りいな」
「へえ」
「待て待て。どこに行く」
 嫌な予感がして腕を掴んだ相川に、加藤は表情を変えずに告げた。
「ジェーソンごっこ」
「幼馴染が殺人鬼になるのは見過ごせねえぞ」
「殺人鬼には殺人鬼をぶつければいい」と、拳を作ってシャドーパンチをする加藤に三人は慄いた。こいつ目がマジだ。
「やめろ本気でやめろ。殴りてえ気持ちは分かるけど、お前が言うと冗談に聞こえねえからやめろ」
「そいつらは警察に任せておけ」
「僕よりもレイザーフェイスを優先するの?」
「そんなわけない。相川とMoriがなによりも大切」
 相川の発言に手のひら返して席に座る加藤はジトっと半目で睨む二人の視線を柳に風と受け流した。
(加藤の率直なところって、TPOを選ばないとこうなるんだよな)
 一昨年の夏のオープンキャンパスから現在に至るまでの加藤の言動を思い返して漏れそうになった溜め息をココアと一緒に飲み干す。
「それよりも東崎さんは? 彼女は……無事なの?」
 身体面ではなく精神面が心配だ。帰宅途中に襲われて四時間も廃病院に拉致監禁されて強制的に探索させられて大男に暴行までされて自分を助けるために脱出するために身体を張っていたのだ。どれほどの苦痛が彼女の心身を蝕んでいるのか想像しか出来ない。彼女の受けたその痛みを完全には理解できない。それでも考えることをやめられず、身を案じる相川を安心させるように杉本はわざと大きく息を吐いた。
「盗み聞きして知ったけど、あの子は当分通院だってよ。親御さんも毎日送り迎えするって言ってる」
「……そうか。そう、だよね……」
 二次被害やPTSD防止のために手を打っているのを知って安堵すると同時に寂寥感を覚えた。りのは家に帰れた。日常に戻るのに時間はかかるけど、彼女の周りにいる沢山の人が支えて助けてくれるだろう。そこに昨夜知り合ったばかりの自分が入る余地はーーーー。
「そんなに気になるなら連絡先交換しろよ」
「え?」
 俯きかけた顔を上げると、杉本が少し呆れた様子で額を突いた。
「お前分かりやすすぎ。りのちゃん気になりますオーラ出まくりだぞ」
「そうかな?」
「そうそう。スカウターがあったら五十三万って出るくらいだ」
「ホワイト企業な悪の帝王になった覚えが無いんですが」
「どちらかといえばホラーゲームの主人公がピッタリ」
「そんな度胸僕にはないよ」
「「「…………」」」
 困ったように答える相川に杉本は頭を抱え、武藤は米神を揉み、加藤は正気を疑う眼差しを向けた。何言ってんだこいつ。三人の心は一つになった。
「とにかく! 折角かわい子ちゃんと知り合えたのに、これっきりの関係なんてもったいねえよ!」
 何故か力入った様子で押してくる杉本。
「あの子、事情聴取が終わった後、病院に駆け込んできて真っ先にお前の手を握ったんだ。……ちゃんと握り返してやれ」
 年長者として諭すように後押しする武藤。
 りのの話になると途端に態度が変わった二人に相川は困惑しながらタルトと共に二人の意図を咀嚼する。つまり仲良くなれと、知り合いから関係を進めろと言いたいらしい。
「……考えておくよ」
 普段なら「そうしようかな」と即答していたのに、何故か頷く気にはなれず、保留した。
 すると、二人から呆れた眼差しを向けられた。こいつマジかと顔に大きく書かれていた。
 唯一、りののことで何も言ってこなかった加藤はカフェラテを飲みながら疑問を述べた。
「どうしたの二人とも?」
「……お前の鈍感ぶりが今は羨ましいぜ」
「ラブコメのもどかしさを実際に、それも関係者にやられるとキツいな」
「ふうん」
 恋愛よりも三度の飯よりもコンピューターが最優先な加藤にはよく分からない話であるため、二人の嘆きを添え物のパセリをどけるように受け流した。
「……とにかく、当面は安全ですね」
 最後の一切れを名残惜しげに一口ずつ食べながら答える相川は一つ見落としていた。
「東崎さんも心配だけどお前も心配だ」
「え?」
「犯人にしてみればお前はゲームをクリアした挙句、獲物をかっさらって目的を妨害した邪魔者だ。お前の電話番号は向こうに割れてるから、それを元にお前の住所とか大学とか諸々特定して嫌がらせとかしてくるかもしれねえ」
「…………」
 武藤に言われて相川は食べる手を止めた。嫌がらせ、悪意、殺意……。あの廃病院で受けた暴力を思い出して大男に蹴られた鳩尾が疼き出した。微かに震える手で腹を撫でさする。
 医者の前でも気丈に振る舞っていた相川の限界が来ていることに、どれだけ強情張りなんだと三人は内心ため息をついた。
「そこで、だ」
 武藤はエスプレッソを飲み干して宣誓した。
「事件が解決するまでサークル全員でお前の送り迎えをすることにした」
 幼女から学食のおばさままでたらし込む脅威の爽やかスマイルを浮かべて。
「はい?」と、思わずフォークを皿に落とした。
「俺もバイトのシフトとか調整してお前と一緒に大学行ったり家に行くことになったから」
「いや、ちょっ、待っ」
「安心して。相川は僕達が守るから」
「だから、ちょっと待て!!」
 追い討ちをかける杉本と加藤を制止するように叫び、恐る恐る尋ねる。
「サークル全員って、まさかみんなこのことを知って」
「知っているぞ」
「俺が教えたからな!」
「そのせいで杉本、しばかれた」
「理不尽とはこのことだぜ」
「まあ、とばっちり受けた杉本は置いといて。これは俺たちのためでもあるんだ」
 犯人が相川を狙っているのなら相川の関係者を狙ってくるかもしれない。そのことを察した相川は眉尻を下げて同調した。
「まあ、僕も同じ立場ならそうしますけど。でも、それじゃ先輩が」
「俺のことは気にすんな。金は株とかバイトとかで結構稼いでるし、単位落として留年なんてことになっても学費は大丈夫だ」
「武藤先輩もこう言ってんだし。俺らも単位落とさないようにほどほどに頑張るよ。だから、遠慮すんな」
「僕達の心配よりまずは自分の心配をして」
 ニヤリとおどけた笑みを浮かべる武藤、あざとくウインクする杉本、拗ねたように僅かに眉を寄せる加藤の声と表情には心配と思いやりがこもっていた。面白おかしく事件を取り上げて茶化すのでも無神経に掘り下げようとするのでもなく、仲間の心身の安心と安全を第一に考えて自分に出来る限りのことをしようとしてくれる彼等の気遣いが相川の震えを止めた。
 そして最後の一口を口に運び、咀嚼し終えると、相川は三人の顔を見据えて口を開いた。
「ありがとう」
 その笑顔は台風が過ぎた後の清涼な風と水面に煌めく陽光を想起させた。


***


 十二時二十分。メゾン・アラカルトの前まで着いた相川は鳴り響く着信音にポケットからスマートフォンを取り出した。
「090ー671ー914? 誰だろう……」
 この番号に見覚えはない。イタズラだろうか。もしそうなら注意しよう。相川は応答をタップしてスマートフォンを耳に当てた。
「はい相川です」
『もしもし?』
 二時間前に対面した少女の声に相川は住宅街であることを忘れて大声を出した。
「東崎さん?!」
『うん、そうだよ。私の携帯電話から、かけてみた』
「どうして?」
『な、なんか……直接、しゃべるの恥ずかしかったから』
「恥ずかしがり屋さん?」
『うるさいわね! いいじゃない! 電話で!』
 電話の向こうでそっぽ向いてる様子が容易に想像できて相川は口角を緩ませる。
『と、とにかく! ちゃんとお礼が言いたかったのよ!』
「お礼……?」
 なんのことだろうかと首を傾げる相川に、りのは先ほどの強気な態度と一転した柔らかな声色で告げた。
『電話を切らないでいてくれて、私を助けてくれて……本当に、ありがとね。多分、今ここで無事に立っているのは、相川さんのおかげ』
 廃病院で相川に掴まれたところを撫でる。跡も温もりももう残っていない。だが、触れるだけであの時の温もりが、感触が呼び起こされる。味わったことのない奇妙な感覚は不思議と嫌悪感は無く、それどころか胸が温かくなっていく。
『ありがとう』
 万感の想いを込めて伝えるりのに、相川は背筋がムズムズするような感覚を覚えた。お礼は言われ慣れているし言い慣れている。にも関わらず、居心地が悪いけれど甘受していたい感覚の正体が分からず困惑する。
(これ電話で良かったな)
 直接対面していたら年上の威厳など木っ端微塵だ。気付かれないように息をこぼし、目を覚ました時から伝えたかったことを口にした。
「それは僕のセリフだよ。ありがとう」
 りのが来るまで相川は生きるために抗うことを諦めかけていた。絶望と恐怖で折れそうになっていた。もし彼女がいなかったら相川はあの廃病院の地下で生を終えていただろう。
 額に滲む汗をハンカチで拭いながら空を見上げる。とても眩しくて暑い。いつもよりも。
「僕の手を引っ張ってくれて、僕を助けてくれて、ありがとう。東崎さんのおかげで今こうして君と電話できているんから」
 喜悦と歓喜を隠すことなく伝える相川は気付いていない。己の表情が蕩けたアイスのような甘い笑顔になっていることに。
『えっ?! あ、う、うん! ど、どういたしまして』
 直球にぶつけられたりのは戸惑いながらもなんとか返すが、頬と耳がトマトのように紅潮していた。
 しばし流れる沈黙。これだけで終わりなのは寂しいと思った相川よりも先にりのが口火を切った。
『な、なんか、久しぶりに電話した感じするよね! ついさっきのことなのにさ……』
 緊張する。胸がドキドキする。顔中熱くて水で冷ましたい。けど、言わないと。言いたいことは早く言ってしまわないと。
『あ……今後もさ、あ、その、今後も、電話してきても、いいしさ。わ、私も、電話するかも、だし』
 最後は弱々しく言い切ったりのの顔色は髪の色と同化しそうなほど赤くなっていた。相川からのリアクションはない。あいづちもない。吐息だけが聞こえる。
 断られるのだろうかと不安になった瞬間、軽やかな笑い声が聞こえた。そして。

「ふふ、ふふふふ、あはははっ!」

 少年のような笑い声が電話越しにりのの耳をくすぐった。
 軽快な笑い声に驚くと同時に揶揄われているような気がして、りのは抗議した。
『ちょっ!? なんで笑う!! 笑うなーー!!』
 叫ばれてもなお相川はクスクスと笑い続けた。
 裾を引っ張るような声色でお願いするりのの頭をわしゃわしゃと撫でるように。


***


 渋谷のスクランブル交差点。人と人が四方八方から行き交う様子を109ビルの展望台から亜麻色の髪の少女は睥睨していた。
「あーあ。四人目でクリアされちゃったかあ」
 残念そうな声色とは裏腹に表情は微動だにしていなかった。クリアされたことなど少女には大した問題ではない。だがーーーー。

『君は誰だ?』
『それよりも東崎さんはどこだ?!』

 予想外の選択。想定外の乱入。黒髪黒目の平凡そうな男の強い意志と真っ直ぐな眼差し。あんなの見たことがない。少女の人生の中で初めてだ。
「次はどんなゲームにしようかな」
 己の想像を遥かに上回るあの男は何を考えて何を思ってあのような行動に出たのだろう。
 錆びついていた好奇心が疼き出す。知りたい。見たい。聞きたい。感じたい。あの男の全てを。
「ふふ……。楽しみ……」
 凍りついた口角を僅かに上げて少女は策略を巡らせる。
 相手との遊びを予定立てる子どものような光を濁った瑪瑙色の瞳に宿して。

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