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2022年ふりかえりシリーズ3【アリストテレス編】 ~結局善く生きるとは、間(はざま)に居続けようとすること~

トマス・アクィナス的に根本的な愛に支えられ、西田幾多郎大先生の絶対矛盾的自己同一を携えて、さあどう生きる、久保田杏海よ。

12月の立場から1年を見てみると、まあ今年も善く生きようと、中庸であろうと命を燃やしていたワタシ。

そうそう、中庸とは、アリストテレスの徳の話で出てくる考えです。
また絶対矛盾的自己同一をみたいなよくわからん沼に引き込むつもりか!?って身構えないでね。
カンタンカンタン、幸せとか、徳であるってのは、「何事もほどほどに」っていうこと。

この中庸思想は、割と去年も強くワタシの中に根付いてた考え。

じゃあ何が去年と違うの?と問われると、今年は、「中庸とは何たるか」のタソ的認識の中に、何事もほどほどに生きるために、バランスをとりつづけようとする姿勢のことである、という説明が体感として加わった、という点。

真理なんて、普遍的なもので、普遍的なところにしかないんだな、って当たり前のことに気づいたっていう至極当然な話。

コレをやれば上手くいく!なんて魔法はないわけだ

このことに気づくのに、4年かかった。

魔法がとけるために必要だったなぁと思う印象的なことが、2つ。

絶対成功真理を信じていた、アタマパッパラパーな時代を猛省して

いつだったか忘れたけど、カフェインをとりすぎて、目がギンギンになって眠れなくなってしまって、ストーリーのアーカイブを永遠見返してた時があった。

謎に印象に残っているストーリーがあって。

それは、WISH(学生寮)にいた頃、なんか偉い人の話を聞けるプログラムが日常的に開かれてて、それに参加した時のノートの写真をあげたもの。
「学びがなくなってきたなー」みたいな「私が学びだと思う学びを得られなくなってきたなー」みたいな不満チックなストーリーだった。

大学1年生の頃の私は、ストーリーを見返していて「太宰さん!アナタの人生よりも恥の多い過ごし方をしている人間がココにいますよ!」と顔を覆いたくなるくらいの、それはもう大学生でぇ~す✌ウェ~イ✌って感じの生活をしていた。

まあ、分かるが。
ずっと宮崎で鬱屈していたもんな。まあ、分かるが。

まさに、稚拙の極み。愚の骨頂。
今思う、1年の時のオマエ、非常に美しくないぞ。

そういう「アタマの緩んだ大学生してまぁ~す✌」って周りに見せたい時期だったのね、ハイハイ、とほんの少しの情状酌量を加え、自己反省はこのくらいに。

そんな1年生の私の思考が、もうヒジョー、に薄く浅~いのは想像に容易いことで。

その頃はまだ、「これさえやれば!」「これが成功の哲学だ!」というような、絶対的な成功魔法の真理があるもんだと疑いもなく信じていたんだと思う。

だからきっと、絶対成功真理を聞けなかった=学びがない、って皺の少ない脳みそで考えていたんだろうな。

場所が変われば魔法がかかるもんだとおもってた、未だにパッパラパーなワタシを猛省して

2022年10月頃になっても、恐ろしいかな魔法はまだ効力をもっていた。

10月は(記憶が正しければ)ぶんじ寮へ越してきて、1年の節目。
いろんなものを音速で忘れる私だけど、さすがに1年の節目となると、1年前の自分の姿が蘇ってくる。

その中で、ワタシ、気づく。

日々のお仕事に追われ、自分の基礎的生活への責任を負えないじぶんが嫌で、ぶんじ寮に来たんだよな。

1年経ってワタシ、基礎的生活力、果たして上がったんでしょうか。

1年前のワタシ、「自炊の習慣がついて~、部屋の物も減ってぇ~、いつもお部屋ピカピカでぇ~、ベランダで植物なんて作っちゃってぇ~」みたいな妄想、してたな。

自炊の習慣、ついてないな。最近は食堂に降りることすら億劫だな。
部屋の物、相変わらず多いな。
コレは掃除じゃなくて平行移動だな。
ベランダの植物、全部茶色になってんな。枯れたな。片せよ。

…何も変わってないじゃん、ワタシ。
理想と現実のこのギャップに、体調を崩した。

そして12月。
卒論が終わり、西田幾多郎大先生の哲学力を少し身につけ、自分へ向ける思考の余地が出てきたある日、タソ、悟ります。

まって、これさえやればの絶対成功真理なんて、ないわ。

ぶんじ寮へ越してきたことで、ぶんじ寮の魔法にかかるわけ、ないわ。

幸せ、とか成功、とか基礎的生活ができている、っていう状態が、空間としてあるんじゃなくて、そんなん数直線の中の1つの時間的点でしかないんだわ。

ここの世界へ至れば一生安寧~!ってことじゃなくて、幸せとかいうものは、常に揺らぐ瞬間でしかないんだわ。

ア、そういうこと~~~~~~!?!?!?!?!?

当たり前のことに気づいた瞬間でした。

大学1年生、エライ人、成功する人は、成功のためのコレサエアレバ・ヤレバを知ってるんだと思っていた。
自己啓発本には、何か特別な魔法の言葉が書いてあるとばかり思っていた。
ぶんじ寮へ住めば、自炊が習慣化する魔法がかかると思っていた。

ぜんぜんちがうわ。

愚直に、普通のことを、普通に頑張り続けるしかないんだ。
むしろ、目指して続けるってことが真理なんだ。

何事もほどほどにできる、中庸っていう世界が、実在や存在としてあるんじゃなくて。

中庸の本質って、作用なんだ。
(西田大先生の発想が効いている~!クゥ~ッ!)

ある日、仕事を頑張りながらも自炊する習慣がつきました!めでたしめでたし、とか。
自分と他者を大切にするバランスは、〇:〇でした!タソはこのバランスを一生涯保っていきましたとさ、おしまい。とか。
そういうことじゃないわ、世界。

じぶんの思考と同じで、今思うことは今この瞬間思うことで、今これがやりたいからもう今後一生思考を止めていいとかいう話じゃなくて。

私がライフとワークとか、自分と他者とか、そういうもののバランスを保って、間(はざま)に居続けるためには、居続けようとじぶんが自分に働きかけ続けるしかないんだな、って。

西田幾多郎大先生は、存在の本質を有形な実体ではなく、ある種無形とも言える「作用」だと考えたそう。
西田大先生の考える時間とは、永遠に続くものじゃなくて、現在一瞬一瞬がそれ自体として完結しているものらしい。

こんなところにも、西田大先生のカケラがじぶんの思考の中に、新しい思考の形として根付いていることに喜びを感じつつ。

こんな思考も、2022年12月のとある一瞬の、それ自体で完結してるものでしかないもので。

さて来年は、どんな風に思考が深まっていくのかしら~
どんな真理に気づくのかしら~
と、未来も大変楽しみでございます。

そんなところで、ふりかえりを終わりたいと思います。
ありがとう、2022年!




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