見出し画像

あの時に欲しかった時間をつくることの積み重ねな気がして。

昨日もたくさんのコメントをいただきました。本当にありがとうございました。「ぼくがやってることって、なんなんだろう」っていう命題でnoteを活用してこのもやもやを言語化しています。

あの時に、こういう時間があればよかった。

中高大学生に向けた企画をいろんな形でしているのですが、よく社会人の方に言っていただけて、自分も言葉にしないながらも思っていることです。

「自分が学生の時にこんな機会があればよかった」って自分が運営する企画に思ったりもします。もちろんそういう思いがあるからこそ、自信を持って届けることができるってのもあります。

自分の欲し「かった」時間はもう古い。

めっちゃいいものだと思いながらも、29歳のぼくが何かを「与えよう」とか思った瞬間にそれはもう過去の押しつけというか、古い感覚だよなとも思っているんですよね。それは若いことを尊重しようとかじゃなく。

僕は僕の思っていることはあるからこそ、自分より若い世代がどんなことを感じてるのかってのも同時に知れたらいいなと思っている。だから迎合することもなく、ただフラットにしゃべれる時間をツクっている。そんな感覚なんです。

教育という言葉を使いたくない。

僕の中でこれはつながっているんですが、だからこそ「教育」という言葉を使いたくない。どうしても。

これは僕が「教育」っていう言葉の本質を捉えているわけではないし、そもそも天の邪鬼な人間だからってのもあるかもなのですが「教育」っていう感覚と違う気がしていて。教えるわけでもないし、引き出すわけでもない。

でも機会はツクってる。これって教育に入るんですかね。いやわかんない。教育っていう言葉を捉えられていないから。ただ嫌って思ってるだけなんだろうか。

啓蒙から解放されたい

あくまで啓蒙活動ではなく、事業活動として行動をデザインしたい。そんな思いがあるんです。でも啓蒙活動な気もしてしまっている。んーむずかしい。人にダイレクトに関わるのってまぁどの仕事もかも知れないけど、今はしゃべることがメインだからなんだろうか。しゃべることで伝える以外の手段を持つことが大事なんだろうか。ね。どうなんでしょう。今日もまだまだつかめないお話でした。

それでも、中高大学生が本音でしゃべれる環境を

わからないといいながらも、僕らが作る機会はめちゃくちゃいいものです。これは胸を張って言える。まだまだ試行錯誤中でまだまだ発展しますが。でも僕自信ではなく、参加してくれている中高大学生が目を輝かせてしゃべってくれる。目が輝いてないときでもその思いを話してくれる。そんな場所なんですよ。だからも僕はあなたにサポーターになってほしい。届いてよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?