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【試し読み第3回】吉田靖直『今日は寝るのが一番よかった』から、先どり公開!

バンド「トリプルファイヤー」のボーカル・吉田靖直さん最新エッセイ集『今日は寝るのが一番よかった』1月22日、ついに発売!!

【オビあり】今日は寝るのが一番よかった

この1年で立て続けにエッセイ集を刊行している吉田靖直さんが、今回初めての全編書下ろしに挑戦! その発売を記念して本書から1回分を丸ごと公開します(全3回、毎週金曜更新)。この世界のまだどこにも出ていないエッセイを、いち早くお楽しみください!

第3回めは、「人見知り」についてのお話です。人見知りが治らないのは努力不足? そもそも「わたし、人見知りなんだ」って言う人は本当にそうなの?…など、吉田さんなりの視点で描かれています。(担当編集・た)


「人見知りは甘え」と、もしや思っていますか?

「人見知り」という言葉の意味を小学生の時に知った時、なんて自分にフィットする言葉がこの世にはあるんだと思った。
 人と打ち解けるのに苦手意識を抱いているのが自分だけではなく、一般的に名称化されるほどたくさんの人が同じ悩みを抱えていることに救われた。

 それ以前は自分を「恥ずかしがり」なのだと思っていたが、気心の知れた友人には余裕で恥部をさらけ出すこともできる自分が本当に「恥ずかしがり」なのか、判断に困った。
 「人見知り」という言葉はそんな私のコミュニケーションにおける苦手部分を過不足なく表現してくれていた。今度からどんな性格か聞かれたら人見知りと答えようと決め、実際、中学校や高校で自己紹介をする際は「人見知りです」と宣言した。

 私以外にも、自己紹介で人見知りを自称する奴はいつも何人かいた。だが私に言わせれば「どう考えてもお前は人見知りじゃないだろ」と思える奴の方が多かった。実際、彼らの大半はそれなりに明るく見えたし、すんなり友達を作っていた。
 私は最初の数週間ほぼ誰からも相手にされず、飯を食う友達もいない状態になりがちだった。私こそが本物の人見知りだ。彼らに対して「エセ人見知りがよ」と心の中で毒づいた。

 ただ半年もすれば結局、私にも友達がたくさんできた。
 自分は初見での印象は良くないにしても、話しているうちに何らかの魅力を見出してもらいやすい人間なのかもしれない。そんなことを思うようになった。
 逆に私が「エセ人見知り」と断罪していた彼らは少しずつ孤立したり、あいつ絡みづらいな、という存在になっていく傾向にあった。彼らは一見明るく振る舞うことはできても、他人に心を開くことは本当に苦手だったのだろう。

「人見知り」の定義により当てはまっていたのは私の方だと思うが、彼らは私よりも根の深い部分でコミュニケーションが苦手だったのかもしれない。何と呼べば良いのかわからない人間関係の苦手部分を、「人見知り」という伝わりやすい言葉に仕方なく乗せていたのだと思われる。「エセ人見知り」と判断したことが少し申し訳なくなった。
 しかし実際にそこそこコミュニケーション能力がある人でも、人見知りという言葉を便利に使っている場合はある。

 最初に人見知りだと言っておけば多少の間コミュニケーションのハードルを下げることができる。人見知りって言ってたけど全然明るいじゃん、となっても私のような面倒な者から以外は特に責められることもない。
 さらに、「人見知り」という言葉で「繊細さ」や「思慮深さ」を印象づけることもできる。そういったプラスのニュアンスが一般的に認められるようになったのは割と最近だったと認識している。

 決定的だったのは、2009年に『アメトーーク!』で「第一回人見知り芸人」が放送されたことだろう。
 当時の芸人の世界では、松本人志が昔『遺書』で書いていた「根暗の方が本当は面白い」という価値観が残っていたと推測する。それが「人見知り芸人」という当世風の括りにアップデートされ、『遺書』を読んでいない若者にも「人見知りの方が実は面白い」という考えが広まったのではないか。
 その時期から「人見知り」は恥ずかしいものではなくなり、堂々と使われるようになった。

 それと同時に、「人見知り」という言葉が陳腐化したように思う。
 たとえばSNSなどでよくある「人見知りあるある」。
 「人と目を合わせられない」「会話の最初に『あっ』と意味のない音を入れてしまう」「帰り道が同じになりそうな時エレベーターのタイミングをずらす」などと書かれていれば確かに自分もそうだと思うが、そんなものは人見知りでなくともほとんど誰もが経験することだ。その程度の人見知りを名乗らないでほしい。

 「あるある」に共感している人の多くに対してもきっと、「いや、お前あの時うまく立ち回れてたじゃん」と思ってしまう。
 「人見知りあるある」の煽りにはよく「人見知りの人にしかわからないこと」といった文言が添えられていて、下からの優越意識が鼻につく。
 私はある時期から自分を人見知りだと言うことはなくなった。「人見知り芸人」やSNSでバズる共感漫画によって人見知りを名乗るのが恥ずかしくなったせいもあるが、ただ単に、年を取るほど人見知りがマシになってきたという理由が一番大きい。
 今でもコミュニケーション能力の低さを痛感することは多々ある。
 
 しかし最近の仕事で初めて会う人はこちらのことをある程度知ってくれている場合が多く、自分がどう思われるのかわからない不安が以前よりは少ない。
 お酒を飲んで羞恥心を麻痺させるやり方が上手くなってきたのもある。
 あとは加齢による感受性の鈍化もあるだろう。
 今の自分は大して人見知りではないかもしれないが、人見知りの切実さはわかる。

 だから「自分で思ってるほど誰も自分のことなんて見ていないよ」「人見知りを自称することで人と向き合うことから逃げている」「コミュニケーションの責任を相手に押し付けているだけだ」といったよくある乱暴な言説に対してはそれはそれで反感を抱く。
 人見知りを自認する人なら、そんな手垢のついたアドバイスは試行錯誤の過程で飽きるほど耳にしてきている。ごもっともな意見ではあるが、昔の私なら「お前の人見知りと俺の人見知りを一緒にするな」と言うだろう。
 自分がそれで人見知りを克服したからといって、私の人見知りをわかった気にならないで欲しい。

 そしてそういうアドバイスをする人の中には、以前は人見知りを自称し繊細なイメージを獲得していた芸能人もいる。それが全て計算尽くだったとは言わないし、彼らは自分なりに人見知りを乗り越えて、人見知りを自称することの不毛さに気づいたのかもしれない。
 経験から得た知見を伝えてくれているだけだろうが、しかし人見知りの流行が飽和した頃になって、上手にそんなことを言うのは都合が良過ぎやしないかとも思ってしまう。

 人見知り真っ只中の頃の私でも、酒に酔って感受性を鈍らせた状態なら彼らのアドバイス通りの行動を取ることはできた。そしてそれに苦痛を感じなかった。その時私は、人見知りでない人は必ずしも人見知りの人より勇敢なわけではない、ということを擬似体験した。

 だから鬼の首を取ったように「みんな人見知りだけどお前よりも頑張って自分から話しかけているんだよ」とか言っている人に対しては「絶対にそんなことねえけどな」と主張したい。
 コミュニケーションの最初に人見知りだと言って先手を打ち、防御態勢を整えるのは卑怯かもしれない。

 だがそうでもしてハードルを下げないと本当にまずい状況に陥ってしまう、止むに止まれぬ人見知りというのがいる。
 他人を見ていて思う。
 初対面で大して相手のことを知らないのに、あんまりこの人と関わりたくないなという印象を抱くことがある。顔がなんかムカつく人がいる。数ターン会話をしただけで絶望的にユーモアのセンスがないとわかってしまう人もいる。

 そういう人が快くない印象を周りから抱かれていると気づく程度の感性を持っていたなら、自分の弱点を意識して臆病になるのは仕方がない。
 人見知りを努力不足と捉える向きもあるが、努力で越えにくいハードルは現にある。
 頑張っても越えられないハードルの前に立たされた者が、たまたま自分ではなかっただけだ。

 そんな理解者のようなことを言いながらも、大した理由もなく、飲みの誘いを断る奴や全く自分から話そうとしない奴にはイラッとしてしまうことがある。そんな奴が後輩なら「いや、喋れよ」とパワハラめいた言動をしてしまうことは今後いくらでもあるだろう。

 それでも「自分で思ってるほど誰も自分のことなんて見ていないよ」に類する乱暴な言葉だけは、今後人見知りから遠く離れた自分になったとしても口に出さないでおきたい。


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