エッチに至る100の情景_010「どうでもよくない!」

 ――人生、ミスった。そのうえ現在進行形で迷惑をかけている。でも、どうでもいいか。どうせもう手遅れだから。
 矢吹 玲子は、起きた途端に負い目と諦めに襲われる。時刻11:35。両親は働きに出て、朝・昼ご飯は一階の台所に用意されてある。おにぎりが五つ、昨夜の残りの味噌汁、卵焼き。モソモソと食べる。不安と一緒に胃の中へ押し込む。
 そして二階の自室へ。真っ赤なセルフレーム眼鏡のレンズを磨いて、ゲーム機を立ち上げる。遊ぶのは対戦格闘ゲームだ。オンラインの暇人を殴って回る。そばかすだらけの仏頂面が、4~5人ほど倒すとニヤケてくる。
 「下手すぎるっスね。平日昼間からゲームやってる暇人のくせに」
 そう呟くと薄ら寒くなり、負い目と諦めがまた襲ってくる。35歳。独身。無職。実家暮らし。自分は立派な子ども部屋おばさん。
 玲子はエナドリを一気飲みする。視線をゲーム画面に戻す。
 すると窓を叩く音がして、玲子はハッと顔を上げる。
 窓の外に、笑顔の少年がいた。
 「玲子さん! リベンジに来たぜー!」

 玲子の部屋に勝山 陽太が出入りするようになったのは、一か月前からだ。
平日の昼、ふらっと出かけたゲーセンで、玲子が格ゲーを遊んでいたら、陽太が乱入してきたのだ。長い黒髪で、痩せぎすで、人を見下したような目つき。玲子は思った。「制服で平日の真っ昼間からゲーセンにいる。不良だ。怖っ。負けよう」
 しかし「おねーさん強いじゃん。でも、オレほどじゃないかな」自信満々の陽太が憎たらしく、分からせることにした。ノー・ダメージで完勝し、スッキリしてゲーセンを出たら、彼が追ってきた。その日のうちに家までバレて、毎日、こうして二階の窓から入って来るようになった。
 「だーっ! 負けた!」
 「フッ……フヒュヒュ、陽太クン。カウンター対策がなってないっスね」
 「もう一回!」
 陽太はまだ敵ではない。玲子には、よそ見をする余裕もある。一心不乱に自前のアーケードスティックを叩く陽太を見た。
 「……これって、いいのかな?」。制服を着た男子が、昼間から三十路女の部屋にいる。問題がある気がする。自分はどうでもいい。もう終わってるから。けれど――。
 「ねぇ、陽太クン、キミ、毎日、うちにいるけど、だ、大丈夫? 学校とか、一応さぁ?」
 「別に。全部どうでもいいもん」
 陽太の声は冷たい。
 「ど、どうでも、よくないと思うな。私は、もういいけど、キミは――」
 「いいよ。学校にいる時間より、玲子さんといる方が好きだもん」
 「すひゅ! す、好きって!」
 刹那、画面が眩しく光り、陽太のキャラが必殺技を放つ。「あっ!」と玲子が声を上げた時には、画面にKOの文字が映っていた。
 「勝った……」
 陽太が呟く。
 「やったー! 勝てたー!」
 玲子に陽太が飛び込んで来た。抱き留めるが、日頃の運動不足が祟る。「おわっ」低い声をあげ、玲子は倒れる。陽太を抱きしめたまま。
 「玲子さん……ごめん。大丈夫?」
 「だ、大丈夫でひゅ……」
 大丈夫ではない。陽太に押し倒される姿勢になった。近距離で感じる異性の吐息と体温に、心臓が爆発しそうだ。玲子を見下ろす陽太の顔も、真っ赤で、いつになく可愛らしく――。
 窓から春風が吹き込む。
 「そろそろ、陽太クン、離れよう?」
 「ねぇ、玲子さん」
 「オレが……あなたが好きって言ったら、どう思う?」
 「……ひぇっ!?」
 玲子は後悔した。昨夜に風呂に入らなかったこと。部屋着を二週間ほど変えていないこと。ムダ毛を処理していないこと。その他、数えきれない数のこと。全てが反転した。どうでもいいことなんて、今や何一つない。


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