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明け方グラデーション/灰染よみち

「はい、お待たせ。クリームソーダ」

「ありがと。……でもお客さんなんだから、もっと懇切丁寧にしてほしいものだなぁ」

「からかいはいらないよ。今は忙しいんだから」

「うん。知ってる」

「……もう。もっと暇な時に来てくれれば良いのにさぁ」

「この時間なら、バイト終わりに一緒に帰れるだろ」

「1時間後ね。今日は健気に待ってくれるかな?」

「悪かったって。昨日はすぐ帰って」

「……じゃあお詫びに私にもクリームソーダ奢って」

「おいおい。バイト中にサボろうってか」

「終わってから。ゆっくりいただくから」

「バイト先に終わってからもいるって。俺じゃ考えられないな」

「じゃ、後でね」

 そんな彼女は、今はもういない。明け方の空のような独特なクリームソーダの色が、眠る時、或いは仕事からの帰り道、いつも思い起こされる。



 喧騒を歩く。間もなく午前9時。出社時刻が過ぎるギリギリ。ギリギリを攻めても仕方ないと思うけれど、……電車の遅延はどうにもならない。上司に連絡はすでに入れている。そんなに厳しい会社じゃないから、「そっか、まあ仕方ないね。出来るだけ急いでくれればいいから」みたいな返しは貰った。それに報いるべく、形だけでも報いようとすべく、早足でビル街を征く。こんな猛暑だというのに、ホント。……遅延の原因は、確か子どもが線路内に飛び込んだことによる緊急停止だった。幸いにも子どもは轢かれずに済んだらしいが、よろしくないかもしれないけれど子ども一人に大勢の人のスケジュールが乱されるって恐ろしいなと思う。自分は何者にもなれていないというのに、だ。この世の中にはそんな感じの歌があった気がする。この感情だって別に特別ではないんだ……。一瞬視界がぼやけた気がした。いけない、とにかく急いで会社に。さらに足を早める。車と並走するくらいの勢いで、とにかく足を動かすのだ。同じくスーツを着た大人や学生らしき若者を掻き分けながら進む。

「……!」

 ふと、すれ違った女子高生の方を見やる。何の偶然だろうか、彼女がカバンに付けていたストラップに見覚えがあった。小さなクリームソーダのストラップだ。しかも思い出の明け方の空のような色合いのクリームソーダ。こんなにもそっくりなことがあるだろうか。思わず私はその女子高生を追いかけた。その間中、声をかけるべきか流石に避けるべきか、いささか葛藤をする。だが、衝動には敵わなかった。

「あの、ちょっと聞きたいことがあるんだが」

 女子高生に訝しげに見られる。当然と言えば当然だろうか。けれども引き下がるわけにもいかない、引き下がった方が怪しい気がすると、勢いのまま言葉を続けた。

「そのストラップ、どこで手に入れたものか、教えてもらってもいいかな。その、クリームソーダのやつだ」

「……これですか?」

 女子高生がストラップを指で揺らす。そう、それだ。改めて近くで見ると、あのクリームソーダと本当によく似ている。

「これはガチャガチャでゲットしたやつです。えっと、池袋に友だちと遊びに行った時だったかな」

「ガチャポンか。なるほど、ありがとう」

 変わらず訝しげに見つめる女子高生にお礼を言い、私はまた会社の方へと急いだ。先ほどまでの鬱屈とした感情も、そんなこと考えていなかったかのように消えていた。


 薄灰色の如何にも鉄を感じさせる扉を開ける。ここが私の住まい。23平米のアパートの一室、会社の資料やビールの空き缶が散乱している、そんな空間。私は敷布団にカバンを放って、そのまま座り込む。そして机の上のビール缶を床に追いやる。こうして何もなくなった机上に、仕事帰りにガチャポンで手に入れた大量のクリームソーダを並べる。女子高生が持っていたのはストラップだったが、同シリーズのフィギュア版がその隣にあり、私はそれを引いてきた。どうやら私はよほどガチャ運がないらしかった。まさか目的の物を手に入れるまでに10回以上ガチャを回すことになるとは。……尤も、こう並べてみると、彼女側にたくさんクリームソーダを並べられたのは良かった気になる。いつも同じ物を頼む私と違って、彼女は色んな種類を頼んでいたから。色とりどりのクリームソーダが、私のものに相対するように立てられる。あぁ、本当に懐かしい。あの時のことが鮮明に思い出される。彼女の姿も、声も、このクリームソーダが如何に美しかったかも。

「本当に、楽しかったなぁ」

 そう呟いてふと、もういない彼女の存在に浸っている自分自身が嫌になる。そんなことをしても虚しいだけだ。分かっているだろう。バカだ。本当にバカだ。彼女がいなくなった事実は変わらない。彼女はもう、私のそばにはいないんだ。どうしようもないほど耐えられなくなって、ぎゅっと目を閉じる。その時、目の前が何故か光ったような、そんな気がした。驚いて目を開く。すると窓の外の景色が、先ほどまで夜中だったはずなのに今にも明けようとしていた。そんな記憶はないが、もしかして寝ていた? いや、流石に違う気がする。非現実的な状況に、私は軽いパニックに陥った。明け方の空は、ありもしない希望を塗りたくっているような煌めきを有している。そして、その煌めきは……、あの「彼女の姿」という幻像を作り出した。そう、あり得ないのだ。窓の外に彼女がいるなんて。現実的ではない。けれど「彼女の姿」はあまりにもくっきりと映っている。目を擦ってみても、目の前に広がる光景に変化はない。すると、何ということだろう。突然、聞き覚えしかない声が聞こえてきた。

——夜は必ず明けるって実感出来るから、私はこの空が好きだな

 いや違う、幻聴だ。もしくは頭の中の記憶が反芻されただけだ。彼女とドライブに行った帰り道に、今目の前に広がるような空色を見て彼女が言った言葉。それを発した当人は、もう現実にはいないんだ。ならば幽霊か? 彼女が幽霊となって、こんな私に会いに来たというのか? そんなことあり得るのか。いや、あり得ない。あり得ないけれど、ならば今起こっている事象は一体……。

——また明日、大学で

 分からない、分からないけれど……。視界が滲む。目の前の景色も、境界がぼやけてグラデーションのようになっていく。彼女との最期の夜の言葉。この言葉を最後に、彼女とはもう会えなくなった。今だってこの言葉を皮切りに、「彼女の姿」はグラデーションの中に溶けていく。行かないで、置いていかないで。なんて言葉を紡げないまま、やがて視界は白に染まった……。


 正気になった、という言い方が正しいのかどうか分からない。これらは全部夢の中のことで、ただ私が今目覚めただけなような気もする。とにかく、気がつくともう窓の外は朝になっていた。鳥の鳴き声が聞こえる。窓から溢れる光がたくさんのクリームソーダを照らしている。どこまでが現実で、どこまでが非現実だったのか、分からない。だけどなんとなく……。深呼吸をひとつ、そして窓の目の前まで歩み寄る。

「ねえ、あのさ」


「おはよう。今日はいい朝だ」


「えっとさ、こんなこと言うの、正直ガラじゃないけど」


「……ありがと」

そして、さよなら。

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