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多様性という内部闘争

相手の話を聞くことが大事と言いました。では、話せばわかるのか、話をしていけば人間は分かり合えるのかというと決してそんなことはないと思います。人間はどんなに話をしても最後はお互い違う存在で、違う考えだということを認識するだけだと思います。では、話をすることは無駄なのでしょうか。

「自分がされて嫌なことを相手にしない」というのはある程度同質の社会では通用しますが、多様性がある社会では通用しなくなります。私が行ったことのある欧州や米国の電車の中ではみんな電話をしていましたが、日本の電車では嫌がられ禁止されていることすらあります。当初はペースメーカーを埋め込んでいる方に影響があるからという理由でしたが、「近くで通話をしてもペースメーカーに影響を与える可能性は極めて低い」2013年に総務省が指針を出しています。しかし、鉄道会社は通話を禁止しています。それは「不快」だからという理由か、惰性です。

「電車の中で電話をされても嫌じゃないから私もする」は「自分がされても嫌なことを相手にしない」ルールに従っています。しかし、問題が起きる。それは「不快」が人によって違うからです。つまり多様な社会とは「されて嫌なこと」も「許容できること」もさまざまなので、自分の基準だけで行動を決めてはいけないということになります。

あの人は首尾一貫しているということはとても格好良く感じますが、首尾一貫したもの同士がぶつかって争いになることは世界を見渡すと良くあります。このような争いは落とし所が極めて難しいと感じます。こちらは向こうの行動の中に悪を見ますが、向こうはそれを「良いこと」だと思っているからです。「良いこと」同士が相手の中に悪を見た時のぶつかり合いは、そこに信念が宿っていればいるほど妥協を許さず行き着くところまで行ってしまいます。このように現実社会において正論をどこでもどの局面でも貫き続けることはたいへん生活しにくい生き方になります。自らの正論を拡大させるとその先に出てくる欲求は敵の信念の破壊です。東大の加藤先生は、国家間戦争の究極目的は相手の憲法の書き換えだとおっしゃっています。信念の書き換えだと理解すると納得できます。

自分の考えに自信があり信念を持っている人は考えの合わない人、考えの変わらない人に対しとても強い怒りを感じます。できればその人を遠ざけたい、できればいなくなってほしい。しかし、私たちは皆地球の上に生きています。いくらどこかに押しやってもその人、その人たちを根絶やしにしない限り一緒に生きていくしかありません。結局のところ皆が一緒に生きていくには折り合うしかないわけです。

多様性がある社会は、平穏な社会などではなく、社会にあった闘争や差別を、自分の内側の葛藤に取り込むことなのだと思います。多様性がある社会は、なんだかすっきりしないし、話しても相手も変わるんだか変わらないんだかわからないけれど、それでも対話自体は続いていて、なんとか折り合い続けるしかないのだろうと今は考えています。

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