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AI時代の教育論※随時追加



今事業でAIに関わることをやっています。社内会議用に、改めてAIが本当に社会に混ざり合い始めた時に(すでにそうなっていますが)教育はどう変わるべきかを整理したのですが、興味を持つ方もいるかなと思い、資料を共有したいと思います。
まず前提として私は全くAIの知識がなく、教育も素人であるために、聞き齧った知識からの想像に過ぎないので素人の勝手な予想に基づいていると思ってください。

教育の目的

目的「幸せになるため、人を幸せにするため」

全ての教育は個人の幸福と、他者を幸せにする、考え方と能力を獲得することに向けられている。
国家が行う公教育は、国家への帰属意識を高めることが目的とされているため、「我々は何者か」は引き続き重視される。一部の富裕層とエリートは国を超えてコスモポリタン化し、ローカルの人々との軋轢は増す可能性が高い。
「うちの子の将来」だけを心配する親が増えると、格差は拡大し、社会不安が増大し、社会自体が不安定かつ脆弱になる。社会全体が「私たちの子どもたちの将来」を考えることが重要。

幸福目的のために取り得るふたつの道は

A、現在の社会構造を変え、新しい社会を創造する人間を育成する
B、現在の社会構造で活躍する人間を育成する

既存の学校教育はBには向いているが、Aには向いていない。テクノロジーの激しい進化の時代には、社会構造が変化し続けるために、Bの社会に合わせようとする教育は成立し難い。

人間とは何か


①身体を持つ(ローカルであること)
②欲がある
③認識に癖がある

①身体を持つ

人間は身体を持っている。身体の特徴は、知覚するインターフェースであると共に閉じられたシステムであること、摂取する栄養や生活環境により痛んだり健康になること、生殖すること、成長し老いること、死ぬこと、である(現在時点では)。

これらの特徴から、人間は人生を有限だと感じ、本能的な欲求と折り合いをつける葛藤を抱えており、他と接続していない「自我」があると自己認識している。情報と同時接続していれば、自我は成立しない。

知覚は知性に先立つ。情報無くして機械が動き始めないように。ローカルな身体にとっての情報は身体を通じての知覚情報。知覚情報は引き続き重視される。

②欲を持っている

人間には欲がある。こうしたい、こうしてほしくない、こうありたい、こうすべきだ、あれを見てみたい。夢、好き嫌い、願望、倫理観、好奇心など。欲は方向性であり、判断基準である。
基準がなければ良し悪しが存在しない。人間が欲を持つことにより方向性が生まれ、それに従いテクノロジーは進化してきた。

ふたつの欲がぶつかる時葛藤が生まれる。ケーキを食べたいが、太りたくない。小さな政府を望むが大きな政府を望む人もいる。この葛藤に折り合いをつける時、人間の中に信念が生まれていく。

人間が信念を創出し、宗教や哲学を生み出し、意味幻想を共有化したが、本質的には意味は存在しない。意味はないが、意味があることになっている、この間での不安から逃れることはおそらくできない。

信念は昇華された欲である。
AIにも欲を持たせることはできるかもしれないが、人間が危険だと判断し認めない可能性が極めて高い。

③認識に癖がある

人間は自らが認識できるものしか、受け取れない。人間は世界への認識を言語に置き換えたが、言語によって世界の認識が影響されている。世界をあるがままではなく、認識の癖というフィルターによって受け取っている。世界の捉え方は、自然言語に影響されている。

AIも人間の認識できる表層であれば認識されるが、そうでなければ存在していると理解できない。つまりAIも、人間の認識を超えたものや、認識とずれたものは、気づきもせず驚くことすらできない。
AIが賢くなったと人間が言う時、実際には「私たちが認識できる形にうまくチューニングされた」ことに過ぎないのかもしれない。

「こころがある」という人間モデルは当面は残るが、永遠に残るかはわからない。古代人はこころの存在を認識していないために、人間固有の特徴とは思い難い。

現在の教育モデル


日本の教育の特徴は
・アクセスの良さ
・均一化
・基礎学力重視

工業化

現在の学校教育モデルは、1920年ころの工業的な産業が多い時代(小学校就学率90%超え)に、現在の教育の原型が生まれ、1947年の学校教育法(6年、3年の義務教育)によってほぼ確立される。

当時は主な産業が工業であったために、秩序、基礎学力(リテラシーである読み書き計算)が重視されたのではないか。リテラシー獲得のためには反復による刷り込みが有効なので、反復を是とする教育が効く。

人生60年時代

昭和22(1947)年の平均寿命は男性が50.06年、女性が53.96年(乳児死亡率は1%程度)だった。人生の前半期(0-15歳程度)で学び、その後社会で働き(15-50歳程度)、余生を過ごすモデルだった。学びー労働ー余生モデル。
そのため教育と聞くと人生前半期のものという意識が極めて強い。

また人口が団塊の世代に集中しているために、1950-60年代に急激に増えた生徒に対応するために、少ない教員が多くの生徒を教えるモデルができたと考えられる。

教員の長期雇用化と少ない教育予算

日本ではOECD中、国家予算に占める教育予算の比率も低い。教員の長時間労働も常態化している。

終身雇用、長期雇用が前提となったために、他の産業と同じく再教育問題が存在している。長く教育に関わり技能を向上させた教員も増えたが、同時に教育に向いていない教員と、30年前の教育スタイルのまま変われない教員も混在している。

AI時代へ


教員の役割は応援、伴走、質問へ

教員の役割はさらに重要になる。但し行うことは以下のように変化するのではないか。

・統率から【応援】へ
静かに秩序だって統率するのではなく、子供たちのやる気を出す。目標を引き出す。
・全体から【伴走】
全員に平等ではなく、わかる子は勝手に進んでいき、つまづいている子や困っている子に集中して伴走する。またケアを行う。
・知識から【質問】へ
知識のAIに任せて、つい考えてしまうような問いかけ、好奇心が引き出されるような疑問を投げかける。

座学での読み書き授業はAIが行う

知識獲得を目的としたものは概ねAIで行える。つまり現在の受験で必要なものは、ほとんどAIで代替可能になるのではないか。わかりやすく説明する教員の動画データを集めてさらにわかりやすく、かつ個別性を持って伝えることもできる。
表情や心拍の読み取り、その他の教科との関連、今までの経緯からどこに理解不足があるかも推測可能になる。ログから努力の履歴も見られる。つまり、座って静かに行う授業では教員は必要なくなる。

全ての子供にマンツーマンで24時間体制でレッスンをしているような形。

先生より先に進む子供が増える

優秀な子は、AIで勝手に学習してしまい、小学校に入る前の段階で漢字を覚えきっていたり、数学を解けるようになっている子が出てくる。みんな同じ年齢で同じだけの学力を習得していくモデルは、全く機能しなくなる。

勝手に進む子供を止めること自体が、虐待的(意欲を削ぐ行為)と捉えられるようになる。一方で、自ら学べる子は全体の一部で、それ以外の子には丁寧な伴走が必要になる。

優秀な子供はAIと共進化していき(藤井聡太さんモデル)、テクノロジーの活用に関しては圧倒的に子供の方が得意になる可能性が高く、知識ですら上回ることが出てくる。

教える側、教えられる側という役割分担や、知っていることが偉い、という固定概念に囚われた教育は機能しなくなり、一緒に学ぶ、ファシリテートに徹する(ファシリテーターは知識の有無にそれほど依存しない)など役割変更できた教員は適応できる。

卒業しない時代へ


社会が複雑化したことで、初期の知識のみでは価値を出せなくなり、教育機関は伸びた(18-30歳を超えるなど)。
今後はさらにテクノロジーの急速な進化により、教育-労動モデルが崩れ、教育と労働の行ったり来たりを経て、教育-労働(表現)の同時進行型に変わる。
学びが終わらない時代に入り、学びの娯楽化が必要になる。枯渇しない好奇心。

最も貴重なものは「アテンション」

いくらでも情報が出てきて、AIも常時サポートできるために、どこに注意を向け、また一貫し続けられるかが子供の可能性を決める。そのために「アテンション」が最も重要なリソースになる。

アテンションが高まる要素に、「自己表現」がある。動画を見るより動画に出る方がアテンションが高まるように、教育も教えられる側より教える側の方が実は学んでいる。この反転が起き、子供たちは表現することでアテンションを一貫させ学ぶようになる。

次に面白いが重視される。子供たちがゲームやスポーツ漫画に夢中になるのは面白いからだ。夢中とはアテンションの一貫。どう面白くするかが教育に問われるようになり、面白さの設計が重視される。そして、これも面白がる側より、面白がらせる側の方が学んでいる。

「心理的安定」による格差

集中と意欲を阻害するものに、生活の不安定さ、心理的不安定があり、安心できる環境を持つ子どもと、そうではない子供の差が、すごい勢いで開いていく。
これらは家庭環境の影響が大きく、特に困難な家庭を支えることが最重要だと考えられる。

よほどのエリート以外の人間の価値は、「周囲とうまくやれる」「自分で自分の機嫌を取れる」ことになっていくと予想されるために、「心が落ち着いていて、いい人」の価値が相対的に上がっていく。

多様性からケア、許しあいへ

価値観→ビジョン→社会で社会は構成されている。殺処分廃止というビジョンは1900年代中盤から出てきた概念。ペットや動物に対しての価値観の変容が背景にある。
テクノロジーによりできることが増えた中、頻繁に価値観の確認、変更が行われる(トロッコ問題など)その際に必ず摩擦が起き、分断が生まれる。その都度、それを結び直す作業が必要になる。

人間同士の諍いとそれを結び直すケア、許しは機械に置き換わらない。大国同士の争いをAIが調停することはできない。人間は野蛮から繊細へ向かっており、おそらくこの流れは不可逆。心は強制できるものではなく、それぞれが違うローカルな位置にいて、フラジャイルであるという前提で、お互いを癒し合う教育が求められる。

教育へのテクノロジー活用はどこまで許されるのか

AIにどこまでできるのかという問いは、AIをどこまで認めるべきかという倫理の線引きに変わる。
線引きは明確ではないが大きな要素に「人間らしさ」が持ち出される。人間らしさを損なうものは人間が許容せず使用が認められないのではないか。

人間らしさは市民がなんとなく持ち合わせている感覚で、エリートが一方的にこれを変更することができないために、時代と共に緩やかに変わってく人間らしさのラインが実質的なAI活用になると予想する。

・社会の安定を著しく崩すもの
・自由意志を操作するもの
・宗教観に反するもの
・著しく富の偏在を起こすもの
・人間性を侮辱されたと感じられるもの

課外活動が教育のど真ん中へ

教育の要素分解

①「価値観を提示すること」
②「ビジョン(夢)を描くこと」
③「好奇心を持って探求すること」
④「自分の扱い方がわかる」
⑤「他者と協力すること」
⑥「人に共感し、人を助けられる」
⑦「基礎学力を身につける」
⑧「粘れる」
⑨「規律を守れる」
これらが教育によって子どもたちに獲得してほしい要素。どれを重視するかで、良い教育とは何かが変わり、その考え方の違いにより諍いが起こることもある。

モンテッソーリ③②①
学校教育⑦⑨
探求学習③②⑤④⑥
スポーツ②③④⑤⑧
高等教育期間①③⑧

探求学習(部活、課外活動)の重要性

以上のように基礎学力のための教育は基本的にAIが主導で行うため、教育の中心は課外活動とプロジェクトになる。つまり現在学校教育の外側に置かれているものが中心になり、中心に置かれているものがAIに代替される。
課外活動の最大の利点はすでにそれに興味を持っている(アテンションの確保)ことを行える点。反対に興味のないことへの探求学習は成立しない。

・それが好き、面白い
・目標を決め、それを実現する。
・みんなで力を合わせる。
・困難に出会し、時には失敗し、揺れ動く感情とどう向き合うかを学ぶ。
・違う相手とうまくやっていく(折り合う)方法を学ぶ。
・面白いと思ったものを探求する。自分で興味を持ち、自分で調べ、自分でやってみて、自分で振り返る。
・誰かを助ける。
・誰かに教える。
・人を育てる。
・人を認め、人に認められ、自分を好きになる。

よって探求的学習(スポーツも!)は未来の教育においてはど真ん中に位置付けられると予想する。

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