自分で選べると知ること、そして学習
学習し続ける人間と、そうではない人間の違いは何か。素直さがベースにあるが、もう一つ重要なのは何が自分にできることで、何はできないことかをクリアにすることだ。これが混ざっている人は本当に多い。雨が降ったことを反省してもそれは学びにならない。雨はコントロールできないからだ。
例えば自分の組織に不満があるとする。学ばない人間は不満にひたるが、学ぶ人間の対処は二種類しかない。どうすれば組織が変えられるかを考え取り組むこと、そもそもなぜその組織を自分は選んだのかを考えることだ。間違えた選択の中で努力するより、正しい選択をできるようにすることの方が効率がいい。
同じように人間関係も始まってからうまくいかないと悩むよりも、悩まない人を選べた方がいい。結婚と同じだ。人間関係に悩むのも組織に悩むのも、どこかで自分が選択ミスをしたことの報いを受けていることでもある。だから振り返るべきは最初の入り口でそこの見立てを分析するしかない。
では最初から正しい選択ができるのか。そんな人はいないだろう。みんな選択で間違えあとで悩む。最初は目の前の現状を変えようと努力するかもしれない。変えられる人もいるし、変えられない人もいる。変えられてもそこで労力を消費する。そのうちに最初の入り口を正しく選ぶべきだと人は学習していく。
状況は変わり続ける。あの時はよくても今はもう違うということもありえる。人間は勘がよく、あれなんかおかしいなというのは多くの人が気づく。ただ気のせいだと流すか、危機感を持つかどうかは人によって差がある。終わりがくるのはみんな分かっていて、降りるタイミングが問題だ。ほとんどの人間はクライシスがやってきたときに、前から薄々感じていた自分に気が付く。
学習効果の低い人間は、選択をしているのに不可抗力だったかのように考える。自分ごとが成長に必要だと言われる所以はそこだ。自分ごとなら今問題があるなら過去の自分の選択の問題なのではないかと推論するが、自分ごとがない人間は過去の選択も自分でしたという意識がなくだから今の問題は自分のせいではないと考える。つまりできることはなかったと考えるし、これからもできることはないと考える。
選択の精度を上げるためには諦めることだ。そもそも何度か選ばなければ精度は上がらず、選ぶためには辞めるしかない。この諦めのプロセスで人は学習する。現状に不満がありまた選択の精度も低い人間に特徴的なのは、嫌なのに足に根が生えたようにその場を動かないことだ。現状は嫌だが諦める勇気はない。
誰でも自分の意思と考えで選択し、選択の結果を受けなぜだろうと考え、また選択すれば自ずと選択上手になる。自分は自分の人生を選べるという前提を持てば人はいつでも変われるはずだ。その一番最初の起点になるのが、自分にできること、できたことに集中することだと私は考えている。