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トランスジェンダーのアスリートがもたらしたもの

重量挙げで五輪史上初のトランスジェンダーアスリートであるローレルハバード選手が出場しました。結果は記録なしに終わりましたが、歴史的な瞬間になりました。選手はルールをクリアした上で出場しているので批判されるべきではありません。一方で、どうしても体力的に差がついてしまうトランスジェンダーアスリートの出場に関してはまだまだ議論が必要です。

トランスジェンダーアスリートが出場するかどうかがなぜ議論されているかというと、そもそも男女というカテゴリー分けがあるからです。カテゴリーがないなら誰もが参加すればいいだけです。スポーツでは男女、体重、障害の程度の三つがカテゴリー分けの基準になっています。もし性別カテゴリーを無くして仕舞えば、例えば男性の130kgと女性の50kgの柔道家が試合をすることになります。また、視覚障害がある選手と、晴眼者がサッカーをすることにもなります。しかし、それでは差がつき過ぎて競争にならないとので、カテゴリーに分けて差を小さくしています。

カテゴリー分けは選手の為でもありますが、観客のためでもあります。見ている側としては一方的な試合は面白くないからです。選手にとっては公平性が理由ですが、観客視点ではエンタメ性が理由です。

元々古代オリンピアでは若い男性のみが参加していました。仮に全ての人に参加を認めてもおそらくトップ層は若い男性のみに集中したでしょう。カテゴリーを作っているのは実はスポーツに多様性を担保するためでもあります。一方でカテゴリーがあるからトランスジェンダーアスリート(多様性)を排除してしまっているという皮肉な状況が起きています。

だったら、もっと条件を厳密にすべきじゃないか。例えば身長2mと1m50cmの走り高跳び選手が競うのは不公平じゃないかという議論もあり得ます。しかし、もし全ての条件で厳密にカテゴリーを作るならば、自分と同じ条件の人間はいませんから参加者は一人ということになります。そこまでいかなくても100mに身長、体重、性別、障害の程度、テストステロン別にカテゴリーを作りチャンピオンが無数に生まれるなら、競争自体も緩くなり観客もつまらなくなります。

カテゴリー分けの基準は、競技の結果に対し決定的に影響を与えるものであり、またわかりやすい基準を設定できるものになっています。性別、体重、障害の程度が選ばれているのはそれが理由です。遺伝子は実は大きく影響を与えますが、競技力に影響しているものを定義することが難しいために基準になっていません。余談ですが、以前はオリンピックは純粋なアマチュアの大会であったために、職業的に体を動かすような人(配達員、労働者)の参加は禁止されていました。

私の友人に杉山ふみのというものがいます。自身がトランスジェンダーであり、フェンシング選手でもあります。彼が言っていたのは、あらゆるところでトランスジェンダーは排他されてきてスポーツの現場でもそうなるのかという悲しさでした。五輪憲章の中にも全てのアスリートに出場機会をと掲げていますし、人権の観点から考えれば出場を否定することはありえません。

「人種、宗教、政治、性別、その他に基く、国もしくは個人に対する差別は、いかなるかたちの差別であっても、オリンピック・ムーブメントへの帰属とは相入れないものである。」

五輪憲章より

一方で、女性カテゴリー内ではテストステロンをコントロールしてもやはり身体的に男性であったことの有利性を取り去るのはとても難しいことです。
この問題は社会的に排除をすることは許されないという人権の観点と、カテゴリー内の条件をなるべく揃えたいというカテゴリー内公平性の観点の狭間に存在しています。

では性別、体重、障害ではなく純粋に実力で条件を揃えるとどうなるでしょうか。例えばどんな人間であれ100mで10秒0-10"20の間の選手だけは同じカテゴリーにしてそれ以外は別のカテゴリーを作るということです。テストの成績順にクラス分けをするようなものです。確かに条件は揃っていて競争はより激しくなりますが、それ以上速く走った選手はどうするのだという問いが生まれます。おそらく本番まで本気を出さない選手など出てくるでしょう。また、競争により人類の限界を突破していくという状況も生まれにくなるでしょう。結果で揃えるということは、人間の能力に限界を設けるということでもあります。

カテゴリー内の条件を揃えるということは突き詰めると、自分の努力で獲得したものではない、外的な条件を揃えるということになります。外的な条件とは持って生まれた性質など自分で獲得していないものです。もし外的な条件でカテゴリー分けできるのであれば、条件の違いは多少はあれど自分自身の努力と意思によって獲得された能力を競い合っているということになります。しかし、ここに大きな疑問があることに気がつきます。自分で獲得したものとは何か、さらに言えば自主的なものとはそもそも何なのか、その範囲は?という問いです。

メダル数とGDPとの相関はよく知られています。また幼少期の環境による学習能力の差、努力ができる能力の差もよく知られています。一方で幼少期の環境や生まれる国は選手の努力で獲得したものではありません。また現在はスポーツを参加することができる条件の選手間での公平性にフォーカスしていますが、途上国にはそもそもプールも体育館もないために、体操選手も水泳選手も育ちません。メダル数のランキングを見ると自明のように、要するに先進国に生まれないとそもそもスポーツの競争には参加することが難しいのが現状です。

また、自由意志にも近い問いですが、一体自主的なものが本当にあるのかという問いかけもあります。リベットの実験から読み取れば自由意志は否定されています。自分がそのようにしようと思うに至った背景には幼少期の環境や遺伝子の影響、そして周囲の文化的要因が多分にある。努力ができること自体もどの程度自主的なものかはわからないのが実際のところです。

この問題はジェンダーに関わるものですが、それは公平性への問いかけです。公平性を担保するには外的な条件を揃えることになるわけですが、外的な条件を定義するには、自主的(自分由来)なものとは何かという大きな哲学的難題と対峙せざるを得なくなります。そしてこの分け難いindividual(個人)があるとする西洋と、全体の中の一要因としての個人を見ていく東洋の思想が混ざり合う場所でもあると私は考えています。

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