自分の知らない自分の大きさ
昨年は皆様にとってもCOVID-19で本当に大変な年だったと思います。過去に例がない状況でしたので、どう判断していいのかわからない状況が多かったように思います。いまだCOVID-19の勢いが収まらない中、今年のこれからの状況も全く予想がつきません。
さて、このような何が起こるのか予想することが難しい状況では、見えているものを一旦無視をして、そもそもを考え、それから今に当て嵌めてみるというのが大切なのではないかと思います。例えば、在宅勤務を続けるべきかどうかを議論する際に、そもそも人類が適応した環境はいかなるものであったか(狩猟採集期間が圧倒的に長く、群れの数は多くても150人と言われています)、人間の認知能力とはいかなるものか(人間が意識している情報は相当一部で多くは無意識にインプットされている)、を考え、その上でオフィスという環境は人間の特性にどの程度フィットしているのか、在宅勤務で得られるものと失われるものは何か、を考えるという順番です。そういう意味で私は今ほど「人間とはいかなる存在か」を考えることが大切な時代もないと思っています。
年末年始で、Mindtime(著者ベンジャミンリベット)という本を読みました。十数年前に読んだのですが当時は知識がなさすぎてあまり理解できなかったために、再チャレンジした本です。ベンジャミンリベットが明らかにしたのは、人間の意識を伴う意図(自分が認識していること)は、後追いであるということです。ちょっと聞いただけだとよくわからない話かもしれませんが、これが自由意志が存在するかどうかの議論に大きな影響を与えました。リベットが行った実験を簡単に説明します。全くの素人なので解釈を間違えていないといいですが。被験者は、手首を自分の好きなタイミングで曲げるように指示されます。その際に目の前でぐるぐる回っている時計の針のどのタイミングで曲げたのかを覚えておくように言われます。被験者の、脳の手首に対応する場所の準備電位(行動をしようとする時に反応する場所)と、手首が曲げる筋肉が反応したタイミング、そして本人が申告する時計の針の場所を調べました。幾度もの実験の後にわかったことは、
脳に準備電位が現れる
→0.3秒後に意識的に意図する(被験者の時計の針の場所)
→準備電位から0.5秒後に手首を曲げる筋肉に反応が現れる
という順番でした。つまり人間が少なくとも意識的に意図する(手首を曲げようと本人が意識した瞬間)前に、脳が手首を曲げる準備を始めていて、それを意識が追認し、手首が曲がっているという順番だったことがわかったのです。それは少なくとも意識的に自分が決定するよりも前に決定がなされていたということになり、それでは自由に自分で意思を持って決定しているような感覚は幻だったのかということになりました。リベット自身は紙面の中のかなりの量を割いて、準備電位が現れ実行されるまでの間に、それを行わない意思決定をすることができ、そこに自由意志は存在すると主張しています。ベンジャミンリベットは、自分で証明してしまった実験結果から、どうしても人間の自由意志を救いたかったのではないかと言われています。
アスリートは賢いと言われたり、賢くないと言われたりしますが、スポーツと実社会両方の世界を行き来した身で思うのは、良いアスリートは無意識の自分にうまく身体を明け渡す能力が高いということです。一方、意識的な思考が多い(これも無意識の思考を追随しているだけかもしれませんが)一般社会ではアスリートは直感的すぎます。リベットの実験では意識が生まれるまでに0.5秒脳に電位が維持される必要があります。これではピッチャーが投げた球をバッターが打つ余裕がありません。意識すると間に合わないことがスポーツではほとんどです。つまり今何が起きているかを理解しようとするほど、下手になるということです。競技経験で思うことは、無意識と意識の差は、それに気づいているかどうかの違いしかなく、つまり注意というスポットライトが当たっている領域を意識と呼んでいてそうではない領域を無意識と呼んでいるにすぎないのではないか、言って仕舞えばほとんど同一のものではないかとすら感じています。
私は人間を考える上で、本人が意識し語り分析できる領域は、実は小さく、本人が知らず語り得ない無意識の領域は広大で、そこにこそ本当の人間の面白さが隠れているように思います。人間は常に意識的な世界と、無意識の世界で、目まぐるしく変化する環境や、自分の変化に対し、統合して一貫した自己を保とうとしているのではないでしょうか。具体的な行為には拒否権しかなかったとしても、その自己の統合に私は人間の意思と知性を感じざるを得ません。
予測のつく世界においては、知識と意識的な思考が効くように思いますが、過去に例がなく考えてもわからない時には、抵抗して無理に意識的な世界でなんとかしようとするのではなく、無意識の自分の脳に自由に泳がせて委ねることが大切なのではないかと思っています。勘がいい人間は混沌状態で強いと言われます。勘とは注意というスポットライトを当てる前の無意識の思考ではないかというのが私の自論です。
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