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依存と対象ずらし

ストーカーや、痴漢、その他の依存症は、その対象だから依存したというよりも、その人の中にあった欠如感がたまたま対象にはまって依存しているように見える。依存している本人はそれしか見えなくなっているけれども、実際のところは、欠如感と依存対象が出会い習慣化したのではないか。

裏を返せば、自分で対象をうまく選択することさえできれば、依存によって自分を発展させることすらできる。例えばある程度アスリートはスポーツに依存していると言えるが、やりすぎて身体を痛めてしまうかもしれないけれど、人生を破綻させるところまではいかない。薬物なら人生が破綻する。

依存するまでは何にはまるかがわからず、依存してからは引き返す事が難しい。けれども私はある程度の自己分析を行えば、自分の内側にある欲求や欠如感が、何にハマりそうかを知ることはできるだろうと思う。性向によって相性の良いはまり方がある。

例えば私は身体刺激が強いものを好む傾向にあった。より危険な方へ、より身体負荷が強い方へと流れる癖があり、それが競技にはまり込ませていったのだけれど、成人して飲酒をした時にこの身体がふらつく刺激は自分にとってはまりやすいと思った。だから常に運動などの身体刺激でスペースを埋めている。

自信がない人間を観察すると、弱いものを征服したい、思うように人を動かしたいという力への憧れを持っている事が多い。この欠如感を無駄に抑制しても噴出する可能性があるから、ある程度健全な形にずらし発散させる事が望ましい。例えば、征服感は突き詰めれば影響を与えたいということだから、文章などに嵌まり込むのはわかりやすい。個人に向かうから問題になるわけで、社会全体に影響を及ぼそうとするとよほど卓越したカリスマ性がない限りは悪いことにはならない。

世の中にある文化は、数千年で出来上がったもので、中には数十年しか経っていないものもある。だから所詮は自分の内側の性向、また欲求欠如感がたまたま今の時代にある対象にうまくはまっただけだと私は思う。SNSがない時代には違う形で、自分の顕示欲を満たしていたのだろう。もっと奥に入れば顕示欲ではなく、孤独感なのかもしれないが。

抑制ではなく、この自分の欠如感の解決の仕方、つまりずらし方を知っているかどうかが、人生において重要なのではないかと思う。それには人生の早い時期に夢中になる自分と何故自分がそうなるかを内省し、パターンを知る事で理解が進むのではないか。夢中になっているのか、夢中にさせられているのかの違いは小さいようで大きい。

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