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演技と機嫌

幸福というのは多分に機嫌に影響を受けています。死ぬまで機嫌がいい人生を生きることができたとするなら、それは幸福な人生と言えるのではないでしょうか。そのぐらい幸福に関係のある機嫌ですが、機嫌のコントロール方法はあまり知られていません。機嫌は不思議なもので直接手を突っ込もうとすると余計にこんがらがります。

機嫌を調べると、「愉快や不快という感情」と辞書には書かれています。それはそういう定義なのでしょうが、でも実際の問題としては一体どこに機嫌の起点があるのかが気になります。その起点がわかれば完全ではなくても機嫌をコントロールすることが可能だからです。

私が行っていた競技は陸上競技でしたが、機嫌が大きく影響する競技でした。特に試合の時に自分自身を最も良い状態に持って行くために機嫌のコントロールが必要でした。ただ愉快な状態でもなく、妙に神妙な状態でもなく、淡々とした静かだけれども気分がいい状態が私にとっては良い機嫌の状態でした。ところがそれがなかなかうまくいきません。

特に私はこう見えて少し繊細なところがあり社会の影響を受ける人間でしたから、ウォーミングアップエリアの空気の影響を受けてしまっていました。自分の機嫌をコントロールするには、周辺の空気によって影響を受けてしまうならば、自分だけではなく周辺の空気のコントロールも必要になります。何度か試合を繰り返しながら、いったいどこが起点なんだろうか、どうすれば良い状態に入れるのか自分なりに探すようになりました。

色々なことを試してみたのですが、ある時から自分の顔が鍵ではないかと思うようになりました。大きな意味で言えば振る舞いです。グラウンドに入った瞬間に自分で表情を作るとそれに外部が反応し、その反応によって自分の機嫌が影響を受けます。それまでは自分は外部の影響によって機嫌を揺さぶられている受け身の存在であると思っていたのですが、実は自分の振る舞いによって外部に影響を与えられる存在であると気がついたわけです。これは私にとっては大きなブレイクスルーでした。自分に影響を与えてくる外部は実は自分の振る舞いの鏡でもあったわけですから。

どのような表情とどのような反応が関係しているのかという実験が始まりました。人の性格や場の空気、自分の社会的立ち位置、さまざまな要因が関係しているのでそう簡単ではありませんが、徐々につかんでいきました。本当に上手く行った時は、私がスタジアム全体をコントロールしているという感覚も覚えました。機嫌の先手の取り方を覚えたという感覚です。

さて、機嫌と私と外部の関係ですが、以下のように私は捉えています。もちろん人間は複雑で全ては関連しあっていますからこのような単純なものではありません。乱暴に単純化しています。

①私の振る舞い
②周囲の反応
③私の機嫌

さて、この①の私の振る舞いはつまるところ演技です。演技だから自分の感情とは切り離されてると思いがちですが、でも人間は本当に感情と切り離された演技はできないものだと私は思います。そうであればできるのは自分自身の中にある感情の一部分を選びそこにスポットライトを当て、それによってどんな振る舞いを外に見せるかを選択することです。既に自分の中にある複雑な感情の中の一部部分を選んで増幅するイメージです。

機嫌が悪くて苦しいと言う人は、いつも自分の中のある特定の感情にスポットライトを当てる癖がついていて、それによって振る舞いが決定され、外部の反応も決定され、それによって機嫌が決まるという堂々巡りの中を生きているのではないかと私は考えています。スポットライトを当てる局面以降は実は選択の余地がなかなかありません。本当は自分で選んでいるのだけれど、自分の癖に無自覚だから変えられないと感じるのではないでしょうか。

松下幸之助翁は「自在でありたい」と言いましたが、それは複雑な自分の中のどこにスポットライトを当てるのか選択するということなのではないかと想像しています。私の言葉で言えば機嫌の先手を取るということではないかと思います。

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