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仲間か、正しさか

社会を眺めていて、集団に影響している力を乱暴に「仲間と正しさ」の二つに分けることは可能だろうかと考えています。正しさは価値観と言ってもいいかもしれません。

チャーチルは

「同盟国を敵に回すより悪い事態があるとすれば、それはただ一つ同盟国なしで敵と戦う事態だ」

と言いました。私たちは狩猟採集の時代から集団でいることのメリットを享受しており、一定のまとまりを持ったグループであることで身を守ったり、食べ物を分け合ったりして生存確率を高めてきました。私たちが国家という枠組みをわざわざ作ってそれを維持しようとしているのも(農耕が始まり蓄財、分配できるようになったことがきっかけかもしれませんが)その方が生存確率が高いからです。

一方で仲間でいることを維持しようとすればするほど、集団として体を成すには、それなりに集団としての意思が統一されていなければなりません。群れでまとまるということは、そもそも個人の自由な価値観を一定制限するということでもあります。例えばある群れとある群れが戦いをしないように和平交渉を締結した後に、その群れの一員が攻撃を仕掛けて仕舞えば全ての和平交渉は台無しになります。その群れの代表と合意したということはきちんと群れがその約束通り動くという前提で交渉が意味をなします。個人個人が全く自由に判断行動するならば群れそのものとの交渉は成り立ちません。

もちろん、群れが崩れればすぐ生存が脅かされる過酷な環境でなかったり、流動性が高く他の組織に行き来しやすいなどの条件があれば制限も緩くなりますが、しかし完全に無くなりはしません。企業がビジョンやミッションバリューなどを制定するのは、価値観に制限をかけ、これに共感した人は入ってほしいです、もし共感できないなら自分の価値観を変えるかまたは去ってくださいね、という言外の意味を含みます。ビジョンなき多様性は、ただのカオスです。

社会を動かしていく上で、数の力はやはり大事です。我が国は民主主義を選んでいますから余計に大事ですが、そうではない時代の歴史を見てもやはり数をまとめられるということは大きな力になります。仲間であることを重視し個人の価値観に制限をかけることは一定の小グループであればまだ折り合えるかもしれませんが、大きなグループになると問題が大きくなります。

人を束ねれば束ねるほど合意点が難しくなります。なぜなら人は多様であり多くの人がいるほど多様な価値観を内包することになるので、みんなの合意を取り付けにくくなるからです。それでもなんとかここならいけるだろうという妥協点を探り出してそこで合意しグループとしての体裁を保つということが数を束ねる論理ではないかと思います。

しかし、幾つかの問題をはらみます。外から見ればダブルスタンダードと言われるような、こちらで通した理屈がこちらでは通っていないということが起き得ます。全ての判断を一つの判断基準に統一しようとすれば多様性が失われるので当然と言えば当然です。群れを維持するために価値観をあえて寛容にしているので、馴れ合いや政治闘争が起きやすくなります。さらに問題なのは改革に弱いということです。群れを維持するということを重視すれば、大きな改革は大きな群れにとっては必ず仲間の誰かが傷を負うものなので、改革を抑止する圧力が強くなります。分裂しないようにする為には大きな妥協が必要になります。

では価値観をもっと明確にしてそれをもとに集まることを目指してはどうでしょうか。実際には、そのような集団も多くあり、ビジョナリーな企業は比較的これに近いと考えられます。外から見ると一貫した価値観を持っているように見えるでしょうし、実際に価値観が明確なので筋が通りやすくなります。

とてもすっきりはしますが、群れの拡大には不向きです。なぜなら価値観に厳密であればあるほど、価値観の少しのずれを許容できなくなりますから、あるサイズから先はどうしても分裂します。突き詰めれば個人それぞれが価値観に原理主義的に従うなら仲間は作れません。誰一人として価値観が同じ人はいないからです。つまり価値観の統一に忠実であろうとすればするほど、小グループで終わるかまたは小グループが全体を一つに染め上げる全体主義になるかのどちらかになると思います。

正しさを追求すれば仲間の維持が難しくなり、仲間の維持をしようとすれば正しさを妥協せざるを得なくなる。人生も組織もこの間にあり、バランスをとっていくしかないのだろうと思います。よくリーダーとして懐が深いという評価を受ける人がいますが、そういう人は「仲間と正しさ」の間での葛藤経験が多い人なのだろうと思います。大きい組織を率いるということはこの葛藤が大きくなるということですから。

そういう意味で国をまとめるということは、この究極なのだろうと思います。仲間を選ぶこともできず、今いる人たちの合意を取り付けなければならず、それなりの一貫性も重要視される。仲間であろうとする力より、別れた方が良いと判断されれば国家が割れることもあると思います。スペインのカタルーニャで起きていることはそういうことかなと理解しています。日本にいると国はずっと同じ形だという幻想を抱きがちですが、100年前の世界地図の国境はずいぶん今と違っているので、100年後の世界地図の国境線が違ってもおかしくないと私は考えています。

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