幸福の三大要素
長文ファンの皆様おはようございます。
私は幸福の三代要素を
「没頭」
「つながり」
「意味」
だと考えています。
伝統宗教と呼ばれるものはこれらの要素を兼ね備えているのでは、という仮説を持っています。教えの中核というより、日常の生活様式の中に心の平穏を保つ要素があったのではないでしょうか。
まず「没頭」です。どの宗教にも祈りや、坐禅などの瞑想が存在します。瞑想の定義はいろいろあるようですが「注意を集中すると苦しみが和らぐ」だと私は考えおり、草木をいじる、絵を描く、走る、も似た効能を持っていると感じます。
つながりはコミュニティです。信者の集まりはコミュニティでもあると思います。
私はつながりは「どこか共通点がある」が大事だと思っています。全部ではなくてよくて一部分です。多様性は社会において大事な要素ですが、心の平穏に関しては似た何かを持った人との交流が大事だと考えています。
どの宗教も人生の意味に応えています。意味は言い換えると「何はいいことか」です。または「意味はない」もある種の回答だと思います。
意味が決まるには、その前に価値観がなければなりません。助け合いはいいことだという価値観があるからこそ、人を助けることが善になります。このように一つ一つの行動の背景に、価値観を提供しているのが宗教だと思います。
没頭する上で、相性が悪いのは「なんのためにやるのか」といった目的を求める考えです。没頭の目的は没頭することです。山に登るのはそこに山があるからです。全てに目的を求め、役に立つかどうかを考えてしまう癖がついた人はこの没頭が苦手です。
幸福になることに関して、考えることはなんの役にも立たないどころか阻害要因です。なんの目的もないものに身を委ねられるかどうかが没頭の鍵を握っています。
つながりは、自己の喪失が大切です。自分の幸せのために人と繋がりたい人と、繋がりたい人は多くありません。誰もがコミュニティや、自分たちになにかをしてくれようとしている人と繋がりたいと考えています。
ですから、つながりにおいての幸せは結果論であり、それを目的とすればずれが生じます。
人生に意味はあるという説明を素直に受け入れられる人はそれを軸にして生きるのが幸せだと思います。
一方で、説明に意味を感じられない人もいます。価値観の説明は、どこまでいっても人工物にしかなりません。「それに意味があることにしてみる」を抜けられないわけです。
その場合は、「やりがい」「いきがい」が大事になると思っています。「感触がある」ことをやるのが大事だと思います。
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