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素朴な質問と言語化

昨日は素朴な質問の素晴らしさを実感した。その世界に長くいると当たり前のように使っている言葉。その定義が曖昧なまま使われていることがよくある。特に英語で生まれた概念を日本人がそのまま使う場合、本当は誰もその意味をしっかりと掴んでいないまま会議や資料で使われるということがよくある。

周辺にスタートアップの起業家が多いが、その定義の質問をすることが自分の役割だと認識している。例えばイノベーティブとは何か。革新的とするならば、革新的とは何か。革命的に新しいとするならば、革命的とは何か。文脈を大きく外れかつ機能することだとするならば、文脈とは、機能とは、と掘り下げられる。私は言葉が好きなのでこういった問いが常時頭の中に浮かんでしまう。

同じように日本語でも定義が定まっていないまたは使う人の中で整理がついていない言葉もある。経験上曖昧な言葉を使う人間は、世界もまた曖昧に捉えている。曖昧であるということは粒度が粗いということだ。粒度が粗ければ正確さを欠く。言葉が曖昧な人間は思考もまた曖昧だ。思考が曖昧であれば、曖昧な理解のまま、曖昧な戦略で行動されていくので成功率が下がる。

何がわかっていないかを気づかせるために素朴な質問はとても有効だと思う。そもそもについて質問できる人間は貴重だ。中途半端に頭が回る人間は、そんなことも知らないのかと思われるのを避けるか、または本質を突きすぎて地雷を踏んでしまわないかと本質的な質問を避ける。

人は思考しているように言葉を使うのか、言葉を使うように思考するのかは永遠のテーマだ。少なくとも、よく使う言葉やよくする質問に引きずられるのは間違いない。私は職業柄たくさんの組織や集団を往来するが、必ず組織には口癖がある。口癖はその組織の文化を反映する。

私にとってコーチングとは言語化の補助作業であり、言語によって認識を揺さぶることであり、言語によってイメージを伝えることでもある。言語は常に曖昧なもので文脈依存的ではあるけれども、それは定義を詰め切った世界にあるわけで、一つ一つの言葉の解像度をあげる努力は惜しまない方がいいと思う。素朴な質問はそれを助けてくれる。

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